【4-6】

   ◇◇◇


 ユウが帰らない、と写真館の面々が騒ぎにする前、その日の昼のこと。


 ユウは初めての写真撮影に挑戦していた。

 最初の数枚は手探りだったが、数枚撮れば、何だか慣れてきた気がした。朝香ほど上手くは無いだろうし、フィルムカメラなので完成は分からないが、とりあえず写真を撮る、という作業は出来ている。

「え……っと、ピントを合わせて、シャッター速度は変えなくて良くて、絞りを合わせる……」

 しかし、自分の曖昧な独り言だけが聞こえるのだから、不安だ。基本的なことは教えて貰った。理解はした。けれどそれを「流れ」として行えるかどうかはまた違う。

 シャッター速度と、絞りの調整。これらで、フィルムにあてる光の時間と量を調節できるらしい。フィルムが光に反応して景色を記録する、という知識は、現像を行った時にも教えてもらったことだ。

 カメラの、レンズが前に飛び出した部分。そこを包むように握って、リングを回していく。ファインダーを覗く。ひとつ、透明な壁を隔てて世界を覗く。小さな小さなその覗き窓に片目で見入りながら、露出計を確認した。ファインダー内の露出計で、絞りの適正を知る。

 よく、見る。

 全ての調整が完了したら。

 シャッターに、人差し指を置く。


「……」


 すうっ。息を吸う。


「……」


 はぁ。息を吐く。


「…………」


 かしゃっ。


 置いた人差し指を。ゆっくりと。

 躊躇いなど無いけれど、不思議と息を止めている。

 これが生きている状態だったら、きっと鼓動すら止める気でいたと思う。

 指先が震える。ただ少し、力を加えるだけなのに。それだけでシャッターは押せるのに。繊細な力加減で、押す。

 かしゃっ。

「…………はぁぁぁ」

 思いっきり息を吐き出した。

 緊張が抜けて、肩を落とした。その無意識な脱力で、ユウはようやく、自分が肩に力を入れていたことに気が付いた。まだまだだ、と苦く笑う。

 息が抜けると、周りも見えてくる。ユウの今日の仕事場所。一面、花の咲き乱れる野原だ。夏の太陽が鮮やかに抽出する色彩は、風一つ吹かない夏の空色に背筋を伸ばしている。植物の歓喜の声が聞こえてくる。良い光、良い天気、蝶々の羽ばたきで起きる風が、涼しい。

 人一人いない静かな空間だけれど、騒がしい息吹が聞こえてくるようだ。

 耳を澄まさなくても、目を凝らさなくても、景色の方から主張してくれる。

「カメラを持っている時には……気付かなかったなぁ……」

 思わず呟く。

 ファインダーという小さな窓一つに、気を取られすぎていた。

 きっと、写真を撮るということは世界を「切り取る」ことなのだけれど、小さい世界にばかり気を取られてもいけないのだと思う。全体の景色を見てこそ、大きい枠を見てこそ、「切り取る」ことが出来る。

 ユウはまだ、例えるなら、大きい世界をより小さく圧縮しているだけに違いない。そこが、本職と違う。

(幽霊になってから写真のプロになるつもりも無いけれど……子どもたちに、良い写真を送ってあげたいものね……)

 眩しい日の光に、手で傘を作る。が、ユウの手も透けるので遮ることは出来なくて、結局目を細めた。焼けるように、鋭い光。

 撮影は大変だ。だけど、写真を撮るという動作の意味に気付けただけで収穫な気がする。

(フィルムカメラの緊張も、よく分かったしね)

 一度のチャンス。見えない出来。限られているフィルム数。

 一応フィルムの換えは貰ってきている(明経由で渡してもらったので、これも触れる)けれど、フィルムの数を無駄に出来ない、という思いの方が十二分に上回った。

「難しいわね……」

 その答えるように、ふと一回、風が吹く。

 あの、潮の香りがする風だ。そういえば、ここは病院の近くにある野原だったか。

「……」

 ぼーっと、遠くの方を眺める。

 その静けさが、どことなく寂しさのある開放感が、ふと自分は一人なのだと思い出した。思えば、単独行動なんていつぶりだろう。春先に二人に出会ってから、ずっと行動を共にしている。

 そうか。もう、「思い出す」というレベルになるくらい、一人だった頃の自分を忘れていた。

(良いことなのか悪いことなのか、分からないわね)

 一人で笑う。これで執着を持てば、自分はもっと成仏出来なくなるんじゃなかろうか。他人事のように考える。そもそも、何の執着があって現世に留まっているのか分からないのに。

 けれど。それでも。

 まだ失いたくはないと思える。

 あの孤独の浮遊感を思い出しながら、ユウはもう一度空を見上げた。空。質の違う、海の青を、漂う香りで想起する。……少し、お節介だろうか。そう思いながら、それでも「もう一度彼女を尋ねてみよう」という考えは拭えなかった。

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