【7-3】

 振り返った瞬間目に入ったのは、強風に煽られたのだろう、尻もちをつく若い女性の姿。それから……女性の手を離れて空に踊る紙の束だった。

「わ、大変」

「今、女以外の別の声も同時に聞こえなかったか……?」

 目を見開くユウと、嫌そうな顔をしている明。

 いてて、と腰をさすった後、女性は目の前の情景に気付いたようだった。

「あーーーっ!! 誰か取って!!」

 パラッ、パラッ……。

 紙のことを言っているのだろう。誰か、と言っても、この場に人間は一人しかいない。朝香は首を傾げる。

「何を取って欲しいって言ってる?」

「今吹いた風で、持ってた書類が飛ばされちゃったのよ。それを取って欲しいって」

「あぁ、これはその音か」

 難しいな、と朝香は困ったような顔をする。

 その間にも、女性はとりあえず自分の身の回りに舞い落ちた書類を回収している。あの枚数、せめてクリップで留めていれば良かったのに、と思わずにはいられない。

 ふとひらり、明の眼前に落ちてきた一枚。ゴールデンレトリーバーの前足が、それをつんつん突いた。

「ここに一枚落ちてきたぞ。咥えるのもなんだから拾ってやれ」

「うん、分かった」

「あぁぁぁワンちゃん!! それ嚙まないで!」

「犬じゃねぇし噛もうとしてねぇよ!!!!」

 ツッコミが早い。

 朝香は明の足元にしゃがみこんで、手探りで一枚を手に取る。その時に、慌ただしく女性が駆けてきた。自分で拾った紙を乱雑に纏め、服も髪もボサボサ。明らかに先ほどの風のせいだけではないだろう土埃、葉っぱ、花びら(?)を全身にまとっていた。髪は短いポニーテール纏めているものの、いくつもの後れ毛が見て取れる。大人だろうとは思うが、元々の顔かたちはあどけない少女のようで。

 大雑把、を絵に描いたような人だった。

「すみませんほんと……! 助かります」

「いいえ。大変でしたね。これで全部ですか?」

 朝香が尋ねると、彼女は照れ臭そうに鼻を掻く。

「いや~~それが何枚かどっか行っちゃって……あはは。ちょっと私ドジっていうか、今日もここに来るまでに色んなとこ枝に引っ掛けてきちゃったり、転んじゃったり、犬猫に追いかけられたりでもうやんなっちゃうっていうか」

「どんな無法地帯を通ったらそんなことになるんだ」

 呆れたようなため息をつく犬が一匹。

 ドジの範疇を超えている気がする、とユウも苦笑した。だが、書類の幾つかが行方不明になってしまったのは大変だ。

「私が探してこようか?」

「ありがとうユウ。でも大丈夫、任せて。……あの、よろしければ書類、探しましょうか?」

「いやいや! 目の見えない人にそれは申し訳があぁぁっ!?」

 また悲鳴が一つ。自分の持っている書類の束を見て、何かに気付いたようだった。

 みるみる青くなっていく顔。

「だ、大事な書類どっか行った……」

「……やっぱり、探しましょうか?」

 そうして、朝香は微かにカメラを撫でる。すると、カメラの輪郭が波打ち始める。普通の人に視えないその揺らめきには、覚えがある。予想通り、その波は人の形を作って虚空に現れた。

 片目を隠した、中性的なカメラの付喪神・レンである。

 レンは朝香の顔を覗き込む。朝香が開かない目で目配せすると、彼はゆっくりと頷いた。

(……レンが探すのかしら?)

 カメラの付喪神はどこか遠くを見据えると、何度か瞬き。半透明な黒い瞳孔が、ズーム機能を用いた時のレンズのように拡大・収縮する。

 夏の墓場を右左に見渡したのち、何やら明に耳打ちした。明は「へいへい」と頷く。カメラだから、景色の細部まで見ることが出来る……ということだろうか。透視のカメラでは無いので、流石に障害物の向こうを見ることが出来る、なんてことはないだろうけれど。

「朝香。お前の位置から見て右手前方に立ってる木の上に引っ掛かってるらしい」

「ありがとう、明。……あの、明があっちの木の上に紙の匂いを嗅ぎつけているみたいです」

「えっ!? ワンちゃんってそんなことも分かるんですか!? すごい!!」

 感心している女性に苦笑して、ユウもその木を見遣る。

 その木は、特に特徴もない、青空めがけて枝を伸ばす普通の木だった。日の光をいっぱいに抱き留めて、代わりに地へ木陰を落としている。その木陰で涼しげに佇んでいたのは……。

「……あ、さっきのお墓……」

「お墓?」

 思わず呟く。その呟きに、朝香は首を傾げた。

 あの、木陰の下にある異質な石の墓だった。しかし、それだけだ。今回の代行にも女性の書類にも、何の関係もない。ユウは「何でもない」と首を横に振る。

 すると、女性の元へ駆けてくる足音があった。

「おい真奈まな!!」

「げっ、じん

 女性は顔を顰める。状況に置いて行かれているユウたちをよそに、夏空にはパシーン! という気持ちの良い音が突き抜けた。

 彼女の元までやってきた大学生くらいの男性が、ボサボサのポニーテールをはたく音だった。

「ったぁ!! 髪が乱れるでしょ!?」

「もう元々乱れてるだろうが! ってそうじゃなくて。どこをほっつき歩いてたんだよ。役所に二時までに帰ってくるって言ってたの……に」

 そこまで捲し立てて、彼は朝香と明の姿に気付いたらしい。

 少し目を見開き、それから、再び女性を見る。今度は、じとっとした目で。

「お前……また人様に迷惑かけたんじゃないだろうな」

「失礼な! ……と言いたいところだけど、返す言葉もない……」

「はぁ…………」

 長々と溜息をつく。

 明るい茶髪を後ろ手に掻くと、背を伸ばして朝香に向き直った。次の瞬間には、運動部さながらの潔さで頭を下げている。

「ほんとすんません。こいつが迷惑掛けたみたいで……」

「僕は大丈夫ですが……それより、書類、良いんですか?」

 書類? と男性はきょとんとした顔をする。対して女性は「あぁぁぁ!!」と本日何度目かも分からない叫び声を上げた。

 男性の腕を掴んでゆさゆさ揺する。

「そうだ! 木の上に書類引っ掛けちゃったの!」

「は!?」

「仁も手伝って!」

 わーわー言いながら木の元へ走っていく二人の男女。

 ユウは苦笑し、明は面倒くさそうな目を彼らの背中へ向けていた。朝香は少々考え込む素振りを見せると、ユウへ視線を向ける。

「……せめて、見届けていく?」

「……そうね、立ち去るタイミングも分からなくなってしまったし」

「関わる気かよ……」

 蝉の喧騒にも負けぬ男女のやり取りが、ここまで聞こえてくる。それに紛れて、明のため息。

 それから、誰もが忘れかけていた「それ」へと鼻を向けた。

 墓場に道を作る白い敷石。夏の太陽を照り返して、光の道と化している。その上に、ぽつり。落ちている影。

「……で、その前によ。コイツはどうするんだ?」

 金色の瞳が見下ろした先にいたもの。それは、先ほど尻もちをついた女性の……下敷きになってしまった存在だった。

 ユウも視線を落とす。

(あの人の声と一緒に聞こえてきた悲鳴は……これ?)

「おい、大丈夫かお前」

『う~~ん……イテテ、ひどい目に会いました』

 弱弱しく発されたのは小さな声。ぺたぺたと、自分の頭を触っている。その見た目にその仕草は不釣り合いで、何だか可笑しく感じられた。

 朝香は、やんやと木登りをしている二人の背中を見ながら、「とりあえず放っておけないし、この方も連れて行こうか」と呟く。

「こんにちは。僕は、細波朝香と言います。あなたの名前をお伺いしても良いですか?」

『わしですか? わしは……ジンと言います。これまで沢山の名で呼ばれてきたので、共通部分で、そうお呼びください』

 一人称が「わし」。その一人称にも、見た目との違和感がありすぎた。


 彼は、一匹の小さなトカゲだった。

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