【7-2】
◇◇◇
──お貴族様は、既にたくさんの妻を持っておりました。だから村娘の村を通り過ぎたのも、ほんの偶然の話。妻の内の一人に会いに行った、その帰りがけのことだったのです。
「あぁ、何と美しく愛らしい娘か」
そのお貴族様は、村娘をたいそう気に入りました。
村娘へ、声を掛けます。名を何という。
村娘は戸惑いながら、それでもやさしい子です。可愛らしい笑みを浮かべて名乗りました、”カミと申します”。
それからお貴族様は、カミの元へ通い始めました。
しかし通うだけでは飽き足らず、「そばに置きたい」と思うようになりました。
◇◇◇
その場所に足を踏み入れた瞬間、ふわり、爽やかな風が吹き抜けて、足元の花を揺らした。大きく翅を震わせた、小さな蝶がユウの体を通り抜けていく。花に止まり、動く、細い触覚。
墓場は静かなものだと思っていたが、意外と音や色に満ち溢れていた。夏の蝉。添えられた花々。突き抜けるような青空と入道雲。そこへ辿り着く前に、息絶えていく線香の煙。ひとつひとつが色濃く、印象深く脳裏に焼き付いて。儚い線香の煙すら、その強い香りでいつまでもそこに存在し続けた。蝉の音を跨ぎ、墓場のさらに奥へ。
モノクロームな墓石も、この夏を彩る色彩の一部に過ぎない。
決して悲壮感や寂しさなどない、魂の憩い場だった。
(広い……それに、綺麗)
墓場に「綺麗」はおかしいだろうか。けれど、幾つもの墓石が並べられた光景はひどく整然としている。大小の様々はあれど、直角に整えられ夏日を照り返す石の表層は美しかった。
静かだけれど、冷たくない。死を寝かせる場所だけれど、さみしくない。
不思議な感覚だ。
「でも……墓場って本当に静かね。もう少し幽霊とか、いると思っていたわ」
「この世に留まってるお前の方が珍しいんだよ。大抵はすぐ空に昇っていくンだからよ」
「それもそうか」
すぐに納得する。ユウは写真館に辿り着く前、数ヶ月この世を彷徨っていたが、確かに他の幽霊と出会わなかった。だから余計に孤独だったのだし。
そもそも、幽霊がこの世に留まる基準とはなんだろう。
「もう少しこの世にいて、この人といたかった」という想いなら、多くの死者が持っていそうなものだけれど。それでこの世に残ることが出来ないのなら、ユウは何なのか。
(考えても仕方ないか……)
「肝試しで夜の墓場に行っても、幽霊はいないよね」
「あんなん雰囲気でビビッてるだけだよな」
「肝試しを全否定してるわね」
「幽霊『は』いないだけだから、他の霊的なものはいるよ。大丈夫」
朝香はにっこりと微笑む。何も大丈夫じゃない。
明は時折鼻を鳴らしながら、墓と墓の間を歩いて行った。早乙女の依頼は「墓場」でなく「墓」だ。特別に指定された墓があるのだろう。
墓石と墓石の間、小さな背丈の草上に敷かれた、石畳の上を歩く。
夏の匂い。線香の香り。花の芳しさ。歩く度に鼻腔が擽られる。
そんな、静かながらも五感の鮮やかな場所だからだろうか……そのお墓が、目に入ったのは。
(……お墓?)
「それ」は、そう首を傾げたくなるような見た目をしていた。
ここに置かれているからには、墓なのだろう。しかし周りにある墓石とは全く違う。灰色の体は加工された感じがなく、自然の岩をそのまま持ってきて、そのまま置いたかのような見た目をしている。唯一加工された……削り取られた前面には、何やら文字が刻まれているが読むことが出来ない。苔生しており、時間で一部が風化しているからだった。
一つだけ、明らかに異質。見た目も、時間も。
片隅の木陰に置かれていることもあり、何処か不気味な仄暗さで、その墓石は満たされていた。
もっと近付いて確認したい気持ちもあった。だが朝香たちに置いて行かれそうだったので、それを素通りする。
「この墓石だな」
「ありがとう明」
明、続いて朝香が立ち止まる。ユウもその背中に追い付いた。
そこは、墓場の中でも一番奥、端っこに置かれた……
「立派な墓石……!!」
そう、とても大きな墓石だった。
時間の染みついた、所々ひび割れた石。しかししっかり管理がなされているのだろう、磨かれた艶に、夏の光は反射していた。きらきら、きらきら。不規則に欠けた表面に煌めく。その大きさは、墓石の土台を含めれば朝香の身長の1.5倍程はある。見下ろされている感覚がした。
先程ユウが陰で見た仄暗い墓石とは、また違った異質さを感じる。
これはまるで、名家の墓だ。
思わずずいっと顔を近付けて、墓石に刻まれた名前を読もうとする。だが、こちらも苔生していてうまく読めない。古いお墓のようだ。
「明暦……年……七月? ちょうど今くらいの季節ね。あぁでも、旧暦だとしたら少しずれるのかしら……」
「へぇ、そんなに古いお墓なんだ」
墓の様相が見えていない朝香が呟く。彼は数秒墓石を黙って見つめた後、ふとぱっと後方を振り返った。
「どうかした?」
「ううん……誰かに、見られているような気がしただけ」
朝香の言葉には、明も鼻を持ち上げた。何度か鼻をひくつかせて。ぶるぶるっと体を震わせる。
「確かに、嫌な感じがすんな」
「嫌って……幽霊?」
「だぁから。幽霊はいねーっつってんだろうが」
「ここにいるけれどね」
しかし、二人が「何かの気配がする」というのは不思議だ。朝香は感覚で霊的なものが分かるし、明は狛犬である。気のせい、なわけは無いと思うのだが、その姿を中々捉えることは出来なかった。
夏の風が吹き抜ける。
柔らかい髪を、それに揺らした後。朝香は視線を墓に戻して、カメラを手に取った。
「とりあえず、写真を撮ってしまおうか。近付いてくる気配は無いし」
優しく持ち上げた機体を、目の前へ。
カメラの黒いボディが光を帯びる。輪郭を白い線が駆け抜けて、
かしゃ。
汗ばむくらいの気候を、淡々と切り取っていく。目に焼き付く青。入道雲。蝉の音。写真は、現実の景色から少しずつ、「暑さ」を吸い取ってフィルムに閉じ込める。写真を見た人へも、体感や温度を届けるために。カメラは、箱庭だ。一つ一つの景色を、そっくりに映しておく、ミニチュアの箱庭。
かしゃ。かしゃ……。
静物である墓石は、じっとりとそこに立ち尽くしている。真っ直ぐとレンズを向けられても、そこには無があるだけだ。ここには、お供えの花からしか生の香りがしない。ふと、太陽が通りすがりの雲に隠れて。地上を気まぐれな影が覆った。灰色の表面に、微かに冷やかさが混じった気がして、ユウは身震いする。
かしゃ。朝香は、そんな表情すら写真に写した。
ただ「この墓石を撮ってこい」と言った早乙女に、朝香はどんな思いを込めてシャッターを押しているのだろうか。
「お墓の後ろには回れそう?」
「無理そうだな。柵に囲まれてる」
「分かった。じゃあ真正面からの写真だけで良いかな」
穏やかな声で告げてカメラを下ろす。
これで終わり、だろうか。今回の仕事は、
拍子抜けしてしまう程にあっけない。早乙女がここを指定してきたことには意図があると思うのだが、それも全く見当が付かなかった。
(本当に何もないのかしら)
そう勘繰ってしまうのは、やはり「絶対何かある」という確信があるからか。
目を凝らす。何も無い。墓石は何も語らない。
「じゃあ帰ろうか」
「すぐに終わったな」
明は欠伸。同意見だったが、ユウとは違って「早く終わった」ことに何も感じていないようだった。何もないに越したことはないと言いたげに。
しかし「何か」は、思いがけない所から唐突にやってくるのである。
ビュウッ! と夏の風が、辺りをかき混ぜて鳴き出した。
と同時。
「きゃああああ!」
『ふぎゅ』
後方から悲鳴が聞こえた。
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