【5-3】
◇◇◇
やってきたのは公園だった。
平日のお昼時。いるのは遊びに来た親子連れ、散歩を楽しむ老夫婦、ジョギングをしている若い男女……。それなりに広い公園だが、色々な人とすれ違った。
「暇な日は、こうしてここに来たりするんだ。公園の音や香りは流動的だから、日によって変わって、面白いしね」
「音や香り……」
なるほど、ユウは「公園に来ている人」の事しか気にならなかったが、目の見えない朝香にとっては、拾うべき感覚はそれ以外。思わず、目を閉じる。暗闇に閉じた景色。ひゅるっ。耳を掠めて行ったそよ風。その風が運んできた、制汗剤と砂の匂い。砂の匂いから、手を泥だらけにした子どもを連想すると、今度はキャアキャアとはしゃぐ子どもの声。咎める母親、談笑する大人たち、「うちの子が」「近々帽子を被った不審者がうろついてるみたいで」「この前行ったパン屋さんが」──……。
目を閉じた事で、寧ろ彩り豊かになった感覚に、何だか満足する。
ユウがちょうど目を開けた……その時。
「──可憐な乙女には、涙こそ似合いません!!」
どこかで声がした。声色やセリフは落ち着きはらい、それでいて、青い空に突き抜けるような、高らかな女性の。
三人は顔を見合わせる。草木が遮っているようだが、この近くだ。少し辺りを見回してみると……その少女を、すぐに見つけることが出来る。
風に、肩まであるポニーテールを遊ばせた。背筋の伸びた。少女がそこに立っていた。
「私が舞う花のように散ったとしても、人々のためになるのならば、私は喜んで散りますわ」
不思議だった。
自然と、視線が惹かれる。つま先を向けたくなる。他の全てをかきけして、その声だけを拾おうと耳が研ぎ澄まされる。漆を塗ったが如きこの艶やかさは、そう、きっと彼女の喉から発せられるものが「演劇」だからだろう。発声の仕方からするに、そう分かる。
けれど演劇と分かっていても、息を飲む、拳を握る、そういった事がしたくなる。
「上手ね……ここで練習しているのかしら」
「うん、凄いね。声だけでも楽しいよ。大人の方?」
「いや、制服着てっから高校生だな」
失礼かとも思いつつ、目は離せずにじっと少女に見入った。
彼女は空に、片手を伸ばし。その白い指先に、綿雲を乗せる。もう片手は胸元へ。視線はいない「何か」へと。
「えぇ、えぇ、存じています。これは罠かもしれないと。私は誰にも愛されてはいないと」
女性が、何か命を賭す場所へ向かう、その直前のシーンなのだろうか。
「ですが良いのです。貴方は分かってくださる。貴方が私を分かってくださる。私は駆ける雷鳴の閃光のように、貴方の心に跡を残しましたでしょう!!」
強がりと猛りと悲しみと愛情。
視線の先にいる誰かに、伝えている。
一段落したのだろうか、少女がふっと息をついて腕を降ろす。役柄を脱いだ、その瞬間を目の当たりにした、照明で彩られた舞台が、一瞬にしてただの公園に戻る。
「……はぁ……」
ただの一人に戻った少女の、溜息こそ聞こえなかったが、肩を落とす動作でそうしているのだと分かった。
ユウは首を傾げる。自信が無かったのだろうか、それとも演技に納得いかなかったのか。あんなに上手かったというのに。
やがて少女はユウたちに──正しくは朝香に──気付いたのか、さっと顔色を変えた。スカートをなびかせて、ずんずんとこちらに近付いてくる。足音で気配を察したのか、朝香が驚いたように一歩下がった。
「い……いい、今の、見て、ました!?」
さっきの堂々とした演技とは違う、たどたどしい口調。「僕に言ってるよね?」と朝香が表情で尋ねてくるので、ユウはゆっくりとうなずいた。
「……僕は目が見えないので見てはいませんでしたが、聞いていましたよ。すみません、勝手に盗み聞きしてしまって」
「へっ」
少女は、そこで漸く目を開けない朝香と、足元の盲導犬に気付いたようだった。口をパクパクさせた後に、思いっきり頭を下げる。
「ごっごめんなさい!! 盗み聞きのことはお気になさらず! こんなに目立った場所で演技してる私が悪いんですから!!」
「いいえ、こちらこそお気になさらず。お上手ですね。部活の練習ですか?」
朝香が返す。
と、少女の表情が曇った。夏にも入った強い日差しが、顔の片側に濃い影を作る。睫毛を震わせ。唇を引き結び。半分、自分だけに落としたような言葉が漏れる。
「練習……というより……度胸試し、ですかね」
パッと顔を上げた拍子に、ポニーテールが揺れた。それから、軽くもう一度会釈をして。
「急に話しかけてしまってすみませんでした! では、私はこれで」
あっという間に去って行ってしまう。公園の出口の方角だ。もう練習は終わりという事だろうか。
その背中を三人で見守る。見えなくなった頃に、公園の中にある他の喧騒が蘇ってきた。
「何だか……演技をする時と、だいぶ雰囲気の違う子だったわね」
「そんなもんだろ」
「役柄と本人がかけ離れていればいる程、演技が上手いって言えるんじゃないかな。詳しくないけれどね」
「……そうね」
頷く。それにしても、「練習というより度胸試し」の言葉は、何処か引っ掛かって離れなかったけれど。あの、やけに不安そうな顔も気になるし。
だがその後すぐに、「あの、写真撮ってもらって良いですか?」と朝香に声を掛けてきた親子に遭遇し、その少女のことは頭から抜けた。
母親は、朝香が首からカメラを提げている事に目を付けて声を掛けて来たらしい。
「今日この子の誕生日なんですよ。だから沢山写真を撮りたいな~と思ってるんですけど、この子緊張しいで」
そう言って両肩を持ったのは四歳くらいの男の子。写真、と聞いて顔を強張らせている。……なるほど、ここまでの撮影チャレンジで既に辟易しているのだろうということが見て取れた。
(お母さんの写真を撮りたい気持ちも分かるけれど、一度嫌になったらとことんカメラから逃げたくなるわよね)
朝香が写真家ならば、男の子がこんな風でも上手い写真が撮れると期待しているのかもしれない。しかし本人がこんな調子なので、どうだろうか。
「分かりました。……僕、こんにちは」
「……こんいちは」
挨拶すると、舌の回りきらない挨拶が返ってきた。その視線はチラチラ、少し離れた所にある遊具へと向かっている。心ここにあらず。本当は普通に遊びに行きたいに違いない。
朝香は、男の子の目の前にしゃがんだ。
「カメラで、写真撮ってもいいかな?」
「……」
もじもじ。靴の先を擦り合わせて。何か言いたげ。けれど朝香は他人だからか、ワガママを発する事は無かった。しかし言葉自体もない。
母親が一歩前に進み出て、何か言おうとする素振りを見せる。そのタイミング一歩手前で、朝香が言った。
「ねぇ僕。あっちで遊んできて良いよ」
「「え!?」」
母子の声が重なった。
男の子の瞳に、一瞬で光が指す。
「いいの!?」
「うん。カメラに写すことは、大丈夫?」
「それはいいよ!!」
今度はすぐに「いいよ」が返ってきた。その様子を見るに、元々カメラに写ることに抵抗があったわけでは無いらしい。ただ本当に、撮影が退屈で遊びたくて。
遊具へ飛ぶように駆けていく小さな背中を見れば、その気持ちが手に取るように分かった。
「全くあの子は……すみません、ワガママを聞いてもらって。遊んで満足したら写真を撮らせてもらえると思うので……」
「いいえ、写真を撮るのは『後』ではありませんよ」
母親が不思議そうな顔をする。
ゴー、と静かに告げて、手元のハーネスを握りなおした朝香。明は今男の子の走っていった方向へと歩いて行った。母親とユウが、後ろから着いていく。
「写真を撮るのは、遊んでいる『今』です」
「今? あの子が動いていると、写真がブレちゃうと思うんですが……」
苦い顔。対して、少し離れた前方には遊具で遊び始める男の子の表情が見えた。さっきまで曇っていた空の灰色を拭い切ったような、明るくて青い、弾けた笑顔が目に飛び込んでくる。
フレームに残すには、まさにうってつけの笑顔。
「動く被写体を写すには、いくつか方法があるんです。連写をしてその中から選び取る方法、そして、動いているものを追うように、自らも体を動かして撮る方法とか。……だから僕、『動』を写すのは苦手なんですよね」
理由は明らかだ。目が見えないからだろう。動いているものを目で追うことは出来ない。
方法を聞いても、母親の口元は微かな「へ」の字を描いている。それはつまり、結局朝香ではなく自分が写真を撮らなければならないという事だ。
「やっぱり、止まってくれていた方が楽じゃないですか。写真撮影なんて五分くらいで終わるんだから、その間ガマンしていてくれたら……」
朝香は、小さく微笑む。
「誕生日の記念、なんでしょう? 取られる側にも楽しい記憶であってほしいじゃないですか」
母親が、一瞬息を飲む。
その一瞬の音は、朝香の耳にも届いている。
「写真家が撮るより何より、『カメラ』を意識していない、自然体の写真こそが一番輝きますよ」
そして、朝香には自然体が見えない。今、視線の先で遊具によじ登り、駆け回り、転びそうなくらいに、前のめりな姿。
シャッターチャンスを知っているのは、母親だけだ。
母親は、少しばつが悪そうに頬を掻いて。
「……ありがとうございます。すみません、声を掛けておいて……」
「いいえ。こちらこそ了承しておいて、お力になれずすみません」
誕生日おめでとうございます。
掛けた言葉をかき消すように、男の子の笑い声が響き渡った。
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