【4-3】
人数の、あと半分を回った。残るはあと一人。たんぽぽ園にいる子どもの名簿を見る限り、「
「あぁ……夢乃ちゃん……」
しかし中々見つからなかったので、手の空いていそうな看護師に場所を尋ねると、微妙な声が返ってきた。困ったようで、可哀想がるような、そんな声。
「たんぽぽ園の中を探したのですが、見つからなかったんです。あそこで遊んでいないとなると、病室だと思うのですが……もし知っていたら、場所を教えていただけたらと思い」
朝香がそう説明する。もちろん、病室の場所は個人情報なので、自らの仕事を説明した上での申し出だった。が、看護師の顔はあまり晴れない。
複雑な事情でもあるのだろうか、とユウは首を傾げる。
「夢乃ちゃん……は、もしかしたら会えないかもしれませんね」
「と、言うと」
「夢乃ちゃんは、子どもたちの中でも特に容態が重くて……普段は元気なんですけれど、病室を出られない子で」
「なるほど、どうりで会えなかったんですね」
「それだけじゃなくて、本人の性格も……というか……」
「どうかしたかい?」
病院の廊下の一角、そこに先ほどの医者……水井が近付いてきた。朗らかな声で、「やぁ明くん」と足元の明にも声を掛ける。たすん。と明は尻尾を床に打ち付けた。
「先生、夢乃ちゃんに会いたいとこの方が……」
「夢乃ちゃん。そうか、朝香くんの仕事の中には彼女もいるんだね」
穏やかな顔で数回頷く。真っ新な白衣を揺らして、ついておいでと背を向けた。どうやら、連れて行ってくれるらしい。
病状の悪さ、だけでなく、性格も。
(……一体、どんな子なのかしら)
他の子どもたちは、各々病気や怪我を抱えているのだろうが、皆明るくて人懐っこかった。そこはやはり、狭い病院の中でも、「たんぽぽ園」という居場所がそうさせているのだと思う。
しかし夢乃という少女は、そこにすら属していないのだと、すると。
そう考えながら、消毒液や微かな悲しみの匂う白い廊下を行く。病院の廊下は、心なしか儚さに包まれていた。ひとつ輪郭を押せば、ぐにゃりと曲がって消え失せてしまいそうな。きっと、命の儚さが露見する場所だからなのだろう。
「いいです。出て行ってください」
だからこそ。
しっかりとした輪郭を持ち、ぴしゃりとした芯の通るその声を聞いた時。違和感があると、第一印象でそう感じた。白い病室。一人の少女。可憐だけれど、そこに儚さなど微塵も無い。
「夢乃ちゃん。話だけでも聞いてみないかい? せっかくの機会だし……」
「せっかくの機会ですけど、結構です」
水井の辛抱強い語り掛けにも応じない。看護師の言っていたことが、何となく分かった気がした。
水井は肩をすくめ、朝香は困ったように笑って、明は小さくため息をついた。
「まぁ無理強いすることじゃねぇけどよ。癖の強い子どもだな」
「本当に、何ていうか……大人びてるわね」
大人びている、は皮肉ではない。まだ十代前半と取れる幼い顔立ちに似合わない、きりっと吊り上がった目。強く引き結んだ唇。こちらの言葉を受け入れない姿勢にも感じられた。胸まである髪は、真っ直ぐに伸びた背に、真っ直ぐに伸びていた。ストレートの黒髪。白い肌と院内服。白黒はっきり色付いた視覚的効果もあるのか、とにかく線がしっかりとしている。
だからこそ大人びていると感じた。自分を見誤らない、人間的な強さを受け取ったのだ。
白。黒。そこにふと、別の色を見る。
(……青……)
夢乃の背後。海が見えた。窓の外に、海岸線が。
「行ってみたい場所の、写真を撮ってきてくれるんだよ。朝香くん……彼が」
さすがに水井は慣れているのか、まだ声を掛ける。夢乃が半ば朝香を睨みつけるように見る。朝香はそれを受け取っているのかいないのか、小さく会釈をした。
「……皆が噂してるのは聞いてます。よくそんなこと出来ますね」
「夢乃ちゃん」
「何で人のために生きてるんですか? 自分のために生きればいいじゃないですか」
息が詰まる。言葉の棘が、当人でないユウに刺さった。それは、朝香のことを全て否定していることになる。締め切った窓、ツン、と清潔の匂いが鼻をついた。
「おい、朝香に八つ当たりしてんじゃねぇよ」
ぐるる、と明は喉奥で低く唸った。八つ当たりなのか突っ掛かっているだけなのか。分からないが、明はそう感じたらしい。
しかし朝香は手で小さくそれを制する。
表情を変えない朝香に、また夢乃も表情を変えずにいる。
「せっかく命が助かったのに、バカみたい」
ナイフで空気を切り込むように、冷たい声で言い放った。
「ッ!」
「ちょっと、相手は病気の子どもよ」
言いながら、怒る権利があることは分かる。けれど怪我をさせてもいけない。朝香を見る。相変わらず、考えが表には出ない顔で。
ガタッと臨戦態勢に入った明。腰を上げた拍子に、ベッドの脇、見舞い人のための小さな椅子が揺れた。カタン、続いて椅子が脇の小さな机にぶつかり、机上にあった鉛筆がかららと音を立てて落ちる。
明のハーネスを朝香が軽く引いたのと、水井の「夢乃ちゃん」という呼び掛けが重なる。穏やかさに、鋭さが混じった。その鋭さのまま、言葉が続く。
「失礼です。言って良いことではありません」
夢乃は押し黙った。反省、しているのかしていないのか。分からない顔で、そっぽを向く。
繋がれた点滴が、静寂に音を立てる。
「……じゃあ出て行ってください」
呟く声。水井はゆっくりと朝香を振り返った。朝香はハーネスを引く手を緩めて、頷いた。明は落ちた鉛筆を咥えて拾い、水井に渡す。彼が机にそれを置いたのを見届けて、それから、ぐる、と唸り声。今度は不満が少女にではなく朝香へ。
「……お前なぁ」
「仕方ないよ。……ユウ、少しアカリをお願い」
水井にも夢乃にも聞こえないよう、小声で言葉を交わして、朝香は再び水井に向き直った。ひとまず、四人で廊下へ出る。院内の小さなざわめきですら、何だか安心した。
朝香は水井とこれからのことについて話し始める。
「……ねぇ。朝香に何があったのかは聞かないけれど」
ユウは明に小声で切り出した。
聞くなら朝香本人からでないといけない気がするし、何より、自ら深入りしないことは、心の底に横たわる自分との約束だった。出会って、思いがけず長い関係を築いているけれど、未だに踏み込むことは出来ない。
後腐れ無いから、「ユウ」と自分に名が付いたはずだ。
「どうして何も、言わないの?」
明は小さく舌打ちした。
「知らねぇよ。いや、あいつの性格だ。何も言わねぇのは不思議じゃねぇが」
少し、鋭い獣の瞳に憂いが乗る。
落ち着いた風に、息を吐いて。その時何となく、狛犬として長く生きた、風格を感じた。
「……今の目を持ったのは、あいつがこの病院を出た後だ」
「…………生まれ付きだと、思っていたわ」
話してくれるのか、と。無い鼓動が早鳴る。
しかし明は、首を横に振って、それ以上詳しくは語らない。
それでもユウは自分の手を握った。冷たい。鼓動がない代わりに、何かを強く握っていないと落ち着かない。緊張を叫ぶ、術がない。
「お前は、相手は病気の子どもだから、と言ったが」
ユウを見上げるように睨んで。
「そんなのは関係ない。今の生き方を選ぶ朝香も朝香だが……選んだのはあいつだ。その生き方を否定するのは、オレが許さない」
強い口調に。何も返せなかった。
「……ごめんなさい」
素直に、思ったことが口に出る。
白い壁。白い服。何もかもが真っ新に思えるこの病院。しかしその実、全く白くなどなくて、ユウは四方から圧縮される心地がした。この場所には、生の現実的な全貌が詰まり過ぎている。人が生に向けて藻掻こうとする様、ここを出た後の生について強く思い願う様、または、恐怖も。
真っ白な壁に、人生の複雑な路線図がびっしりと描かれているようだ。ゆっくり息を吸って、吐いて。夢乃の部屋の、扉を見る。
こちらの視線を跳ね返すように、無機質な壁は何も答えない。
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