第4話たんぽぽと青写真

【4-1】

 ──遠いのか、近いのか。距離感も掴めない、いつかの過去の話。



 少女は焦がれていた。

 鼓膜を濯ぐ透明な音。ちかちか星のように瞬く、青。



 花は自ら動くことが叶わないように。少女もまた、白い部屋に根を張ったように動けない。ただ窓から吹く小さなそよ風に体を揺らして。

 けれど楽しそうに、微笑んでいた。




   ◇◇◇




 季節のページは、春を完全に捲りきった。

 訪れた暑さに、窓の外、道を駆けていく小学生たちの服装は軽くなっていく。ドアベルを取り替えて風鈴。物置の奥から扇風機。ここは太陽が一番張り切りだす午後には木陰に隠れる位置にあるので、冷房はあまり使うことがないのだと、店主は言っていた。

 なるほど、確かに店内は薄暗く柔らかい影に包まれている。日陰特有の、肌に優しい涼しさ。もうそれを感じることは無いけれど、この写真館の床が、葉の影模様に彩られるのは見ていて楽しい。


 『うぐいす写真館』。


 地元では有名な、小さい写真館。

 過ぎた春にユウが足を踏み入れ、写真家の青年・細波朝香さざなみあさかと、元狛犬のゴールデンレトリーバー・アカリに出会った場所。

「ごめん、待たせたね」

「いいえ」

 ユウは振り返る。その朝香が、何やらそこそこ大きい肩掛けのバッグを持って奥の部屋から出てきた。リードに繋がれた先、いつものように目付きの悪い明がいる。

「私は出掛けるための準備が必要ないんだもの。待つのは当然。……それより、その大荷物は何?」

 仕事に行くのに、そんなに荷物が必要だろうかと首を傾げる。

 彼は、「理由があってその場に行けない人の代わりに現地に赴き、写真を撮ってくる」という代行写真家。前の依頼で、常連客である小鳥遊陽子たかなしようこの代行を完遂出来なかった……ということがあり、「そんな君にペナルティだ」と言われたのが、もう半月ほど前。

 とうとう依頼内容が明かされて、その場所に今から向かうところだった。

 朝香はバッグを持ち上げて、小さく微笑む。

「お土産、かな」

「お土産……」

「ったく、普通の仕事だけこなしゃ良いのに、お前はサービス精神満載だな……」

「サービスとかじゃ無いって。……ただほら、病院ってみんな退屈だと思うからさ」

 朝香の柔らかい口調は変わらない。明は呆れ混じりにため息をついた。

 お土産にしては多い気もするが、向かうのはそれなりに大きい場所なようなので、妥当なのだろうか。

「じゃあ、行こうか」

 行ってきます、とおじいさんに告げて、三人で扉を開く。チリリンと空気の裂く風鈴の音に見送られながら、夏の日差しに迎え入れられた。

 小鳥遊の用意した仕事。

「海原中央病院にいる子どもたち一人一人からリクエストを聞いて、写真を撮ってくる」……というのが、今回の依頼内容だった。



 ……まぁ、何となく予想しているところではあった。

「わぁーっワンちゃん!!」

「いぬだ」

「いぬ!!」

「ワンワン怖いぃ……」

「みみー!! しっぽー!!」

「ッ……てめぇらな、べたべた触んじゃねぇ! ってか犬じゃねえ!!」

「へへーっ、ロボット戦士いぬロボ、発車だーーー!!」

「犬ロボに関してはどんな設定だよハーネス掴むのやめろ!」

 病院の中庭。犬姿の明。子どもたちに大人気。

 ユウはそれを苦笑いで見つめていた。黄金色の毛並みが、白、薄緑の手術着や院内服で埋もれている。迷惑を被っていつつも病院内なので、噛んだり吠えたりはしないのが何というか、健気だ。それに子ども相手には、心なしか明も優しかった。

 こらこら、と看護婦たちが引き剝がしてくれるまでされるがままに寝転んでいる。

「……はい、確かに受け取ったよ。毎度毎度、手続きが面倒で申し訳ないねぇ」

「いいえ、規則ですから大丈夫ですよ」

 その傍ら。中庭から院内へ入る自動ドアの前では、医者と朝香が立ち話をしていた。その手には書類。どうやら、盲導犬の明が院内に入るには、それなりの書類が必要らしかった。

 まだ院内に入れない明のハーネスの代わり、今の朝香は白杖をついている。全くその姿を見たことが無かったので、何だか目に新しい。

「それにしても朝香くん、大きくなったなぁ」

 医者が、元々細い目をさらに細める。

(大きく……なった?)

 やけに親しいのだな、と思う。

 ここまでは電車を乗り継いできた。写真館から遠くはないが、近い病院でもない。最寄りの病院では無いだろう。昔はこの辺に住んでいたのだろうか。

 ずっと見られていることに気付いたのか、朝香の視線がこちらに向く。

 軽く頷かれたので、ユウも頷いた。

「ねぇ、そろそろあなたも入って大丈夫みたいよ」

「そりゃ結構だ……」

 看護婦が一旦子どもたちを院内に引き戻したので、明の周りには穏やかな静寂に包まれている。全身をぶるぶる震わせ、後ろ足で体を掻く。それに合わせて、中庭に生えている草花も揺れた。

 ……その瞬間、ふと。


 ──ふわ、と、感覚を震わせた香りが鼻に触れた。


 微かに湿った、独特の青い香り。空から運ばれ、中庭の隅々まで駆け巡って、また空へ帰っていく。花を撫で、明の毛並みもいたずらに吹き上げた。ユウの髪や服はそれらの風にも無視、されるのだが、不思議と髪を撫でられたと、そう錯覚した。それほどに、何か。形のある風。

 明は何気なく鼻を持ち上げる。

「ん……潮風か」

 流石、獣の鼻だ。香りの名を、そう口にした。

「潮風……」

 確かに、電車でここまで来る道中、車窓から海が見えた気がする。潮風。「普通の風と何か違う」と分かる。不思議な香りだった。

「アカリ、ユウ。そろそろ入るよ」

 いつの間にか近くまで来ていた朝香の声が掛かった。医者との話は終わったらしい。ユウの表情に気付いたのか、朝香が「どうかした?」と尋ねてきた。

「いいえ、何でもない。海の香りがするのね……と、思っただけ」

「……あぁ、そうだね。海、近いから」

 白杖を小脇に抱えて、明のハーネスを手に取る。

 ユウは少し後ろ髪引かれながら、病院内へと漂っていった。

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