【3-こぼれ話】
風が吹いていくように去った小鳥遊。からんと店の中が一気に空になったようだった。
「……何が、起こるのかしらね」
「変なことじゃねーと良いが」
明はぺたんと床に伏せる。それから、目を閉じた。
「まあ、今から案じていてもしょうがないね。ユウも、今日は休んだ方がいいよ」
「実体が無いからか、そんなに疲れてはいないのだけれど……」
確かに、精神的には疲れた気もする。逆に実体が無いからか、受ける「感情」やそこに渦巻く「精神」は、直に届いてくるのかもしれない。
『えーと……一足、遅かったでしょうか……』
顔を上げる。いつの間にか、いた。陽子と入れ替わるように、扉の側に。差し込む光の加減で白にも柔い水色にも見える髪をお団子にして、ひらひらとしたチュニックワンピースに羽衣を纏った…………。
「……泉水さん?」
『はい、数日ぶりです』
ユウが首を傾げたのに、泉水はそっと微笑んで頷いた。その落ち着きから、新たな問題を持ってきたというわけでは無さそうである。それよりも気になるのは、なぜここに来られたのかということ。
「泉水さん、『あの泉から一定距離以上離れなれない』って言っていなかったかしら?」
『あぁあれは……半分本当で、半分嘘なのですよ。私は基本、近くに水の通う場所にならばどこへでも行けるのです。ほら、水って循環いたしますでしょう? どこまでが「私の住む泉の水なのか」という定義は、実は曖昧なのです』
なるほど、と呟く。あの時は大方、主に必要以上ユウたちを助けないよう言われていたのだろう。
すぐ隣で「それで」と朝香が切り込んだ。明はというと、もう目を開ける気配がない。
「『一足遅かった』とは? どんなご用事だったのでしょう」
『はい』
泉水はふるりと睫毛を震わせて瞬き、そしてゆっくりと頷いた。朝香とユウを交互に見て、両手の指の先をくっつける。
『ぜひとも、お礼がしたいと思い参りました。もう遅いかもしれませんが………ぜひ、受け取っては頂けませんでしょうか?』
◇◇◇
暗室、という場所。ユウは初めて足を踏み入れるところだった。ふあ、と鼻をくすぐる紙、インクのにおい。外の光も入らない、ぼんやりとした薄暗さは、三人の輪郭をやんわりと丸め込んでいる。
「ここは、フィルムカメラでで撮った写真を現像するところなんだ。ユウもまだ、入ったことがないね」
「えぇ……普段、ここで写真を形にしているのね」
漂って、部屋の隅々まで観察してみる。黒いカーテンに覆われた窓。カーテンが揺れる際の隙間が零す光すら許さず、もはやカーテンは固定されていた。暗室、というと「暗いのだろうな」という印象しか無かったが、ここまで徹底されているらしい。ただ、赤い光だけは、ぼんやりと暗室を包み込んでいた。普通の明かりと違う、独特な光の赤に不思議な感覚がする。朝香に聞くと、暗室専用の明かりとのことだった。
暗室にあるのは、壁にくっ付き、部屋を取り囲んでいるカウンター机。顕微鏡のような大きい器具に、印刷紙を乾かす金網棚。小さい水道のシンク……煩雑としているように見えるが、その一つ一つ、一ミリたりとも動かしてはならないのだという緊張感に溢れていた。実体があったなら、何か倒して落としてしまいそうで怖いが、幸い霊体である。
泉水はユウより冷静な様子で右、左、と部屋を見回してから、頷いた。泉水が言うには、「写真を差しあげたい」とのことだった……が、泉水はカメラなど所持していない。写真を現像する暗室で、何をするつもりだろうか。
「ちょっと待っててください。先におじいさんに直前までセッティングしてもらったので大丈夫だと思うのですが、確認します」
おじいさん、とはここ「うぐいす写真館」の店主である。
ここまでは視えているユウや泉水を頼りに歩いてきたのだろう朝香は、慣れたように暗室の中まで入っていった。何度も入った場所だと、距離感は分かっているらしい。
ちなみに暗室に来なかった明は、
「アンタは来なくていいの?」
「暗室なら朝香も室内だし大丈夫だろうよ。それにオレぁ犬の姿だからな。あそこに入るの、じーさんに禁止されてんだ」
とのことだった。
顕微鏡のような機械に近付いた朝香は、手探りでそれに触れていく。下の台座にセットされている印画紙。それを覗き込むような形で影を落とす小さなレンズ。ヘッドについたスイッチ、レバー。これだけ見ると、本当に顕微鏡かに思える。プレパラートの代わりに印画紙を置いただけの。
「これは何なの?」
「ん? ……引き伸ばし機だよ。本当はこの、ヘッドの部分にフィルムを入れて、光を当てて、印画紙に現像するんだ。ここのノブで絞り、ここで露光量の調整、ここでカラー。おじいさんが調整してくれてるはずだから、今日はいじらないけど」
朝香が顕微鏡のような何か……引き伸ばし機を、指差しながら。丁寧に説明してくれる。正直今の一発で覚えられていないのだけれど。
「ろこうりょう?」
「光をあてる量のこと……かな。フィルムには光に反応する物質が塗られていて、当てた光に反応してものを記録するんだ。感光っていうんだけれど……長くなるし、ユウ、混乱してるみたいだからその辺の化学原理はまた今度にしよっか」
「ごめん……」
光に反応してしまうから「暗室」でなくてはならない、という理由は分かったが、それ以外は何も入ってこなかった。記憶が無いからだろうか……? いや、多分関係はない。
苦い顔をするユウに朝香が吹き出す。
「いや、僕も原理に詳しいわけじゃないし。……まぁとにかく、当てる光の量で写真の出来や雰囲気が変わる、ってこと」
「それだけ分かれば原理の説明はもう良いわ……」
ふふ、と暗がりの中で朝香が笑う。面白がられている気がする。
気を取り直して、ユウは首を傾げた。
「じゃあ現像は写真を撮ったフィルムありき……ってことになるけれど」
「そうだね。……どうしたら良いか、教えていただいてもよろしいですか?」
朝香が泉水を振り返る。泉水は頷いて、二人と引き伸ばし機の方へ近寄ってきた。するり、白い腕が、敷かれた印画紙に伸びる。それから、未使用のフィルムへ。
『こちらでカラー調整を?』
こちら、と泉水が言ったノブに、ユウは朝香の手を引いた。位置と感触を確かめて、朝香は頷く。
泉水も再びゆっくり頷いて、一歩分、漂ったまま下がった。
『ではこのまま現像をお願いします』
このまま。ユウは少し目を見開く。印画紙には何も映らない、ということになる。
朝香もそう分かっているだろうが、何も詳しいことは尋ねずに、「分かりました」と引き伸ばし機に手を伸ばした。
パチン、と、引き伸ばし機から注がれた光が印画紙を照らす。
一分ほど、光に当てて。それからユウを見た。
「ユウ、近くにトングある?」
「トング……これかしら」
引き伸ばし機のすぐ隣に置いてあったものを指差す。朝香は手探りでそれを掴んで、「ありがとう」と微笑んだ。
トングが印画紙を摘まむ。続いて一歩、トングが置いていなかった方へと一歩ずれた。そこにあるのは、何かしらの液体が入ったトレー。それがさらに後三つ、計四つのトレーが並べられていた。
ちゃぷ。トングで掴んだままの印画紙を浸す。
「これは引き伸ばし機から近い順に、『現像液』『停止液』『定着液』、後は洗い流す用の水。順に浸けて、写真が完成するんだ」
朝香が液体の中の印画紙を軽く揺さぶりながら、そう説明してくれる。
「本来、この現像液を揺すってると、露光されたフィルム内の映像が浮かび上がってくるんだけれど……」
当然、フィルムには何も映っていなかったのだから何も浮かび上がってこない。
すると、背後でずっと様子を見ていた泉水がようやく動き出した。ふわ、朝香の隣に並ぶ。
『横、失礼しますね』
ユウは邪魔にならないよう、高度を上げて二人の頭上に浮かぶ。真上から、二人の手元を見ることが出来るようになった。一体、何を。
泉水はトレーの中に手を伸ばす。暗室の中でも映える白い肌が現像液に浸され、さらに指先が、印画紙に触れた。
瞬間、真っ白だった印画紙の中の世界が色付きだす。
思わず目を見開いた。
「すごい……!!」
みるみる内に、印画紙に「景色」が塗られていった。鮮やかな世界の色を吸ったスポイトを、ぽたり、真っ白な紙に垂らして、景色を描いていくような。不可思議で、わくわくする。ファンタジーに満ち溢れた光景だった。
ぽつり雨粒が垂れるように現れた三角の山。じわじわ、滲んでいく空の青色。明暗、様々な緑の色彩。少し開けた場所……そう、丁度泉水と出会った泉の場所から撮ったかのような風景が、そこには広がっていた。写真が、息を吹き込まれて大きな深呼吸をしている。これは……泉水の、主の、そして三太が好きだったあの森だ。
朝香が、柔らかく口元を緩めた。
「これは……写真家の仕事が、無くなりますね」
「朝香、見えるの?」
「泉水さんが手を加えているからかな、何となく……雰囲気だけ」
印画紙を現像液に浸けていた手を、一瞬止めた。写真に映る風景を、じっと見つめている。そこで気が付く。朝香にとって「実際の景色」を見ることは、初めてなのだということに。それが例え「雰囲気」だけだったとしても。
朝香は今、見える世界に触れている。
それを感慨深く、思っているのかいないのか、朝香は停止液の入った次のトレーへと写真を移した。そちらにも数十秒、浸していく。泉水もそれを追って、また手をそこへ浸した。波紋。写真が揺れる。
それからまた、次のトレーへ。
『私は液体に干渉することが出来ますから、現像作業にも手が加えられるのではないかと思って。試したのは初めてでしたが……上手くいって、良かったです』
「お礼、というのはこれだったのね」
『えぇ、間に合いませんでしたが』
確かに、陽子はもう帰ってしまった。今さら写真を用意しても、どこから持ってきたのか怪しまれるに違いない。
最後のトレーからも、写真が取り出された。全ての行程が終了した、一枚の写真。淡い仕上がりになっている。日の光が眩しくて滲んだ景色にも、涙で滲んだ景色にも見えた。
泉水はトレーの中から手を出し、微笑む。
『これからも、お手伝い出来ることがあればいつでも呼んでください。このようなことが出来るのは、「私が見たことのある景色」に限るのですが……それ以外にも。主様のこと、本当に感謝しているのです』
伏せがちになった、澄んだ水色の目。睫毛の影が差し、優しく深い水底の色。
『主様のいない所でこんなことを言っては、怒られてしまうかと思いますが……』
改めて、視線を上げる。朝香を、そしてユウを見て、眉を下げて笑った。呆れてか、悲しくてか、それとも、愛しくてか。
『中々そうと言えない方ですけど……主様は人が、大好きなのですよ』
ふんわりと。
暗室であるこの場所に、温かい光が差した気がした。結局言葉を持って本人から聞けなかったこと。確かに怒られてしまうかもしれないけれど。あの森の中心で息づくもの全てに目を向けなければならない立場の彼にとって。
この言葉は、救いなのかもしれなかった。
言葉に出せず、大事に仕舞うことしか出来ない想いの寂しさを。
周りの第三者が、ちゃんと知っていることは。
ユウは朝香と顔を見合わせる。そして、思わず笑った。
「分かってるわ。ちゃんと」
終
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます