【3-完】
そのことに、少しだけ安心する。これはきちんと「独り言」だ。足元で、薬を塗る作業に勤しんでいる二人も、何も口出しはしなかった。ただ泉水だけが、息を飲んでユウを見つめている。
「貴方が、人の事を『好き』だとも『憎んでいる』とも言わないから、少しだけ不安だったの。『好きでいてほしい』というのは、もちろん元々人間である私のエゴなんだけれど……村で、三太くんに出会ってなおさらそう思った」
その名前に、一瞬だけ主が反応を見せる。ぴくりと瞼を動かした、けれど、まだその瞳に感情を映さないように、彼は堪えている。そう見えた。
「三太くんは、今の主様のことを何も知らない、でも主様のことを想っていた。だから主様が人を恨んでいるのだとしたら、その繋がりを思い出してほしい……と、思ったのだけれど」
絵本の読み語りのように、ユウの言葉は続く。なめらかに、森のきらきらとした空気を滑って、旋律のように流れていった。
「勘違いだったわね。主様は、少しもその繋がりを忘れていなかったんだもの」
足元に目を向ける。朝香が、牡鹿の脚に薬草を塗りこんでいた。触れられて、染みたりするのかは分からない。主はまだ、何も言わなかった。
「なぜ、朝香だったのかは今も分からない。そこは本当に偶々だったかもしれないけれど、『近くの村で助けを借りるといい』と助言してきた理由なら分かるわ。主様は『脚を治す方法』が欲しかったんじゃない。『もう一度あの村との繋がりを感じられる何か』が欲しかったんだわ。だから脚を治す方法を、あの村に求めた。……きっと主様も、知っているんでしょう。この森に近々、人が入れなくなること」
さらり、さらり、と音がする。朝香は、薬草の塗りこみが終わったのか、立ち上がった。それから、ユウと同じ場所まで来て、もう一度しゃがみ込む。ユウを目指して来たのか、その歩みは真っすぐだった。後から明も着いてくる。
主は朝香にも目をやった。『……感謝するよ』、と小さく呟く。
それに対して朝香はそっと頷き、何やら麻袋の中を探った。壊れ物を大事に、取り出すように、あるものを中から取り出す。それは、薬草以外に入れていた、もう一つの植物。
ヤマボウシ、という植物の一枝だった。
それを見て確実に、今度こそ、主の目は大きく見開かれた。
『…………三太』
低く、撫でるような声で、主が今日初めてその名を呼ぶ。
本当の本当に、深く。繋がった相手に対して呼ぶような、慈愛の籠った。そう、ユウたちが確実に知らなかった、彼の声。
「……そうです。『主様に会いに行くなら』と、三太くんが持たせてくれました。貴方への贈り物です。三太くんではありませんが、僕が代わりに、差し上げます」
少しだけ持ち上げた鼻先が、朝香の持つ植物を追う。朝香は主の鼻先に、それを置いた。
すん、と香りを嗅ぐ音。香りを取り込んだようにも、鼻をすすったようにも聞こえた。
しばらくそのまま、時が経過する。ゆったりと時が流れる森の中、さらに流れを緩くして。下から上へ、日の光を遮る葉の隙間を、四回の風が吹き抜けた後に、主は口を開いた。
『……この木があるところで、私と三太は出会った。ヤマボウシの木に上って、足を滑らせた三太を私が助けたんだ。それから、三太は私に会いに来て、私も三太に会いに行くような仲にあった。私と三太は、友人だ』
暗に、認められる。主が三太を、人のことを、どう思っているか。鹿が表情を変えるわけではないのだけれども、ほんの微かな吐息が、微笑みのように浮かんでいく。
『この植物は、果実になり食用になるんだよ。母親に黙って食べたかったらしい。食い意地の張った、やんちゃな子だ』
「あぁ……」
ユウは思わず頷いている。あの三太のことだ。何だか納得してしまう。
牡鹿は大きな角をゆったりと揺らして、楽しそうだった。しかしその瞳にずっと、切なげな寂しさも滲んでいる。
『言う通りだ。私は、ここに人が入れなくなることを知っているよ。……森の中にいる精霊たち、動物たち、そして、植物──……』
主は、頭上を仰いだ。
ユウも、その視線の先を追うように首を持ち上げた。ふわっと柔らかい風が吹いている。慈しみを詰め込んだ、見方によっては少しだけ、こちらを拒絶するような、そんな風。それでも、木の葉をすり抜けた淡い日の光だけは、緑にも動物にも幽霊にも精霊にも、人間にも、平等に降り注いだ。
遠くからこちらを覗く空が青い。
『反応はそれぞれだった。人間を退けられて、喜ぶ者も、そうでないものも当然いる。私は主だ、この森を平等に守っていく意思を、持つべきだ……』
視線を元に戻し、さらに下へ。自分の鼻先に置かれた、一本のヤマボウシ。ちらほらと咲いた、小粒の雪の結晶のような、白い花。香り。色。温度。この植物の全てに、主は誰かとの思い出を見出して。
その時間を邪魔しないように、誰も言葉を発しなかった。
『しかし……自然が守られる代わり、人間との繋がりが絶たれる、か……』
一匹の大きな鹿の鼻先が、ヤマボウシの枝をつついて、揺らした。舞い上がる香り。空の青に乗せて、彼の本心を村まで運んでくれるような、優しい風がまた、一つ。
◇◇◇
「ねぇ、良かったの? 撮った写真を全て三太くんにあげてしまって」
お茶を淹れたカップをゆったりと揺らす朝香に、ユウは尋ねた。写真、というかフィルムそのものか。朝香は椅子に座ったままこちらを振り返って、いつものように柔らかかく微笑んだ。
「良いんだよ。小鳥遊さんはよく見知ったお客さんだし、それにきっと、『君が仕事をこなせないなんて珍しいな!』くらいにしか言わないと思うから」
傾いた日が、橙と紫、不可思議に溶けあって「うぐいす写真館」に差し込んでいる。朝香の薄い茶髪もその色に染められていた。机の影に居座ってそんなことはお構いなしの明は、のんびりあくびをしている。
「まぁ確かにそうだけれど……何も、全部あげることなかったんじゃないかって。」
そうなのだ。主と別れ、森を出て、写真館へと戻る前に朝香は「村に寄っていきたい」と言った。何をするかと思えば三太に会い、今回の代行で景色を収めたフィルム全て、三太に渡してしまったのである。三太も不思議そうな顔をしたけれども、まだ現像される前の、焦がしすぎた夕焼けの如き茶色のフィルムを見つめて頬を染めた。
きっと、嬉しかったんであろうことは、目に見えて分かった。
朝香曰く、あのフィルムさえあれば写真の現像自体は何度でも可能なのだという。
これからも「忘れない」なんて保証はどこにもないけれど。
ずっとあの記憶媒体は、残る。三太の手元に。
「僕も彼に、忘れてほしくなかったからね」
朝香は睫毛を揺らしてそっと呟く。
写真に映すとは、残すこと。
ユウはふと、朝香の言葉を思い出した。
「やーぁやぁやぁ細波くん!! 君が仕事をこなせないなんて珍しいね!!」
カラカラァ!! と来客を告げるドアベルと共に、力強い女性の声が飛び込んできた。ドアベルからこんな音が出るものだろうか。勢いの良さにユウは思わず苦笑してしまう。朝香に視線を移すと、「ほらね」と言いたげに、肩をすくめた。
「やっべこいつが来ンの聞いてねぇぞ朝香!」
「小鳥遊さんはいつも突然だからねぇ」
「明~~!! ちょっと疲れたからもふもふさせて!」
「ぐあぁっ!」
小鳥遊は明の元へバッとしゃがみ込んだ。また犠牲になる明を見て、ユウはそっと両手を合わせた。それを微笑まし気に見るだけで何も言わない(ある意味一番質の悪い)朝香は、小鳥遊の声のする方角に若干頭を下げる。
「小鳥遊さん、ご依頼、遂行出来なくて申し訳ありませんでした」
「ふふ、悪いと思っていないだろう細波くん」
「まぁ……事情があったので」
あっさりと認めた朝香に、小鳥遊は満足げに頷いた。その片手で、ずっと明を撫でている。
「あの森、近々入れなくなるようだからな。最後に見たいと思っていたのだが……」
「小鳥遊さんも、知っていらしたのですね」
「もちろん。……まぁいいさ。細波くんは考えなしに仕事を放棄する人間では無いからな」
その声色に、ユウは少しだけ安心する。朝香の言う「大丈夫」は本当のようで、胸が温かくなった。
……が、その一瞬後に小鳥遊は不敵な笑みを浮かべてビシッ! と朝香を指さした。
「その代わり細波くん!!」
「何ですか、人を指さすのはやめてくださいね」
「なぜ分かった」
「そんな雰囲気がしたので」
「そんなことより、だ」
彼女は朝香に差した指を左右に振って「ちっちっち」と舌を打ってみせる。それから朗らかな声でこう告げたのだ。
「今回私の仕事をパスしたことで、ちょっとしたペナルティを用意したから覚悟したまえ」
「え?」
「は?」
小鳥遊の不穏なワードに反応したのはユウと明。朝香はいつも通りに全然動じていないので、外野が驚くしかない。そしてそんな外野のリアクションに気付く由もない小鳥遊は「反応が無くてつまらん」と笑う。
朝香は苦く笑っているだけだった。
「まぁ仕事が出来なかったのは事実ですからね……あまりに無茶なのは遠慮しますよ」
ふふん、といつまでも若きオーラをまとった女性は口角を上げた。
「なに、ペナルティと言ってもちょっと楽しいことが起こるだけさ!!」
「楽しいこと……って」
ユウは苦笑する。一体何なのだろう。少なくとも、良い予感である気はしない。朝香は肩をすくめて、明はそっとため息をついた。
《「常連と風景写真」終》
✾ヤマボウシの花言葉……「友情」
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