【3-8】
暗闇の静けさが重く広がり、夜が濃度を増したころ、三太は眠りについた。敷布団の上、胎児のように真ん丸にくるまって瞼を閉じている。
「……何だか、不思議ね」
ユウは、彼に声が聞こえないのだとしても声をひそめて呟いた。
「この子はあの自然が大好きで、どんな他の大人よりも森と繋がっていたのに……その繋がりが断たれてしまうなんて」
皮肉にも、人間から自然を守るために。
「そりゃあこのガキ目線でものを見たからだろう」
明は目を瞑ったまま、突き放すようにそう答える。だが一見冷たいように見えて、実際わざと感情を外に押しやっているようにも聞こえた。
「個々の人間ではそーでもよ。全体的に見たらあの森は、人間に迷惑してるんだろうさ。あの主も、喜ぶんじゃねーか?」
「そんなこと……」
言いかけたが、断定は出来ないことに気が付いて口ごもる。綺麗なものばかりに目が行って、きっとユウがあの森で見落とした綻びはたくさんあるのだろう。あの主はきっと、自然の美しさも壊れかけの予兆も知っている。
朝香も同じように声をひそめて、「仕方のないことだよ」と呟いた。
「……どうしようもない。多分三太くんにも、それが分かってる」
「それは……そうでしょうけど」
三太は、自分が何も出来ないことを分かっている。けれども、牡鹿の怪我をあとから知った、そのことをあんなに悔やんでいた。それはきっと「友だち」のことだからだった。
守るべきものだからではなく、そうするべきと考えたのではなく、繋がりがそうさせたんだろう。今日だけでたくさん奔放な面を見せてきた三太が、あの牡鹿の話をする時にだけ一人の「人」に見えた。これからきっと、三太と自然は隔たれていく。思い出として少しずつ忘れていく。ぼろぼろ薄皮が剥がれていくように自然が壊れていく……そのことよりも、忘れていく方が虚しく思えるのは何故だろう。
「……少しずつ忘れていくとしても、想いを失くしはしない思うよ。三太くんは」
朝香が。
心なしかいつもより語気を強めてそう言った。ぴりっと一瞬だけ衝撃を与えて過ぎ去っていくような、静電気の感覚に似ている。少しだけ驚いてしまってユウは朝香を見た。
しかしいつものように静かな顔からは、何も伺い知ることは出来ない。
感情の光は、目に宿る。目を閉じたままの朝香から何も感じ取れないのは、当たり前のことだった。
「朝香」
明が一言名前を呼ぶ。朝香は微笑んだ。
「……強い感情は、心を巣食って根付くからね。いい意味でも悪い意味でも……だから、きっと大丈夫だよ、ユウ」
「え、えぇ」
ゆっくりと感じた違和感を溶かして、ユウは頷いた。いつも通りの朝香である。
そうしてしばらく黙り込んだ後に……はたとある考えが頭を掠めた。
「強い感情は、何があっても心に根付く……?」
だとしたら、少しだけ。
希望を持っても、良いのではないかと思った。
◇◇◇
翌朝、ユウと朝香と明の三人は再び主のいる場所へと訪れた。……森の入り口には既に泉水が佇んでいて、彼女に案内してもらったのだ。
朝香が腰に下げている小さな小さな麻袋には、村から出る時にもらった薬が入っている。三太の母親が、「これが良いのではないかと思って」と口にして渡してくれた、オトギリソウだった。焼酎につけて数か月放置した塗り薬を、小瓶に分けてもらっている。それにあと一つ……別の植物も、一枝。
時を止めたような道を歩いていった。昨日と変わらず、同じようにユウたちを囲んでい入る緑。植物だとて無限ではない。どこかでは少しずつ変化を起こしているだろうに、その「変化」を感じさせず、悠々と生きていた。その不変の感覚は、こちらを安心させるものであり、だからこそ危険でもある。彼らは悲鳴を上げない。限界が来るまで。だから今、一人の少年と自然の繋がりが、断たれようとしている。
『主様』
泉水が、水面に波紋を広げるような柔らかい声で彼を呼ぶ。
また彼も、昨日と変わらずそこに佇んでいた。一本の大樹、のように。
『あぁ……昨日の。早かったな』
「あなたの仰ったように、森のすぐ近くの村に助けを求めました」
朝香の言葉に、主はぶるると鼻を鳴らした。どこか、満足げに。
何の断りもなく、合図もなく、朝香は主の近くまで歩みを進めた。もちろん先導するのは明。明は、主の怪我をした部分まで近付くと足を止めた。無言で、朝香を見上げる。その視線を受け取った朝香は頷いて、その場にゆっくりと膝をついた。
「お前の指先、二十センチほど先……お前の前腕くらいの長さだな。そんくらいの距離に悪くなってる脚がある。直接触んのは避けた方がいいな。触れる時、気を付けろ。傷の大きさは……そうだな、お前の手の平くらいの大きさだ」
「ありがとう明」
明が静かに状況を説明する。ユウは今回、そこには近付かずに一歩引いたところでそれを見ていた。何も出来ないユウが近くにいても邪魔になるだけだろう。
朝香は塗り薬を取り出した。落ち着いた動作で、開ける。秋を閉じ込めたような、赤褐色の液体をコットンに含ませた。ピンセットに挟んで、傷口へと優しく運んぶ。
それを見つめて、数秒。ユウは、朝香の近くに行かない代わり……反対の方へ近付いていった。
つまりは足元でなく顔の方。主の顔の近くに、ユウは近付いて座った。微かに主の瞳が動く。
『どうかしたかね、お嬢さん』
「お暇でしょう。少しお話しないかしらと思って」
主は、ふす……と息を吐いてそれに答える。ユウは厚意に甘えて、その身体に寄りかかるようにして座り込んだ。
「……間違っていたら申し訳ないので、これは私の独り言として聞いてほしいのだけれど」
言葉を、一度止めた。主は、何も言わなかった。
「主様は、人間を恨んでいないのね」
尋ねるのではなく、確認するように。
主は、何も言わなかった。
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