【3-7】
「……え?」
「おい……」
一枚の襖が隔てた居間の光。そのぼんやりとした明かりに三太は耳をくっつけていた。それからそっと、両手も襖に添える。何をしようとしているかは一目瞭然だ。
「盗み聞きしようとしてるの?」
「おいお前な……ふがっ」
明が吠えようとしたところで、三太が慌てて明の口を塞いだ。
「吠えんな! バレるだろ!」
小声で三太がそう叫ぶ。どうやら、本当に盗み聞きするらしい。明をただの犬だと思っているから、バレなければ誰にも怒られないと思ったのだろう。残念ながら明はただの犬ではないし、ここにはユウだっているのだが。
(……というか、お母さんにならともかく、朝香にはバレていそうだけれどね……この状況)
ユウは苦笑する。朝香は目ではなく気配で霊的なものを捉えているので、襖一枚隔てたところでユウと明の存在は分かるだろう。
しかし三太は、何やら必死そうな顔で二人の声に聞き入っていた。
「何がそんなに気になるのかしらね、この子」
ユウは三太の隣にそっと腰掛けた。言葉を塞がれたまま、明は目で「知らねぇよ」と訴えてくる。喉を鳴らすと、三太は軽くぺしぺし鼻先を叩いた。
「あいつ胡散臭い……なんてったってこの泥棒ワンコの飼い主だからな……何か盗んでいくつもりだぞ……俺がこの家を守るんだ……」
「あぁ……そういう理由……」
三太はどこまでもこの一行を信用していないようだった。ぶつぶつと独り言を呟きながら、頬を襖に押し付けている。明は依然として三太を睨み上げていた。
「……まぁいいじゃない。聞かれて困るような話じゃないでしょう?」
ユウがそう言うと、明はまだ釈然としていなさそうだったが、大人しく目を瞑った。
光の向こうでは、想定した通りの会話が行われている。朝香が森の中で怪我をした牡鹿を見つけたこと、その牡鹿は足を悪くしていること、何とかするために治療する薬か方法が欲しいこと……突然の客人がするには、少々唐突な話だったが、女性は真剣に話を聞いてくれているらしい。「最先端の医療技術はないですけど……」と言う声が聞こえる。それはそうだろう。
(見たところ、この村には病院なんて無かったみたいだし……)
まして動物病院、なんて。
(それを考えると、「森の先にある村に助けを借りたらいい」なんて言っていたけれど……正直なところ、主様はこの村に何を期待していたのかしら)
ユウが一人で考え込んでいる間に、女性は「うちで育てている薬草があります、それを持って行ってください」と申し出ていた。なるほど、ただ育てているだけでなく本当に薬草として活用する文化が、この村にはあるらしい。
「ねぇ、そろそろ話終わるんじゃない?」
「っ、あぁ……おいお前、ここ離れねーと……」
三太の両手から逃れた明が口を開く。……が、途中で言葉を止めた。
三太が、目を丸くしたまま固まっていた。
「なぁアンタ」
「はい、何ですか?」
静かで、少しだけ湿った夜だった。三太の部屋には、窓枠をすり抜けた夏の月の光が差し込んでいる。それから、ちらほら星の光。この、自然の中に据え置かれた村では星がよく見える。窓が一つのキャンバスであるかのように、満天の星空を切り取って部屋に飾っている。そんなささやかな明るさにも居心地が悪そうな顔をして、三太は朝香に声をひそめていた。
同じく小声で答えた朝香が、微かに首をかしげる。少年は何やらもじもじとして……口を開いた。
「アンタが森で見つけた牡鹿って……もしかして、デカい角のじーさん、だったりする?」
ユウは目を見張る。あの鹿のことを、知っているのか。
明はちらりと視線を寄こすが、すぐにまた伏せてしまった。しかしぱたぱたと耳が動いている辺り、話に興味はあるようだ。
話を促すように、「知っているのですか?」と返すことで朝香が質問に肯定する。三太は指先をいじりながら、けれど誰かに話をしたいように見える。
ぽつり、と三太は語り始めた。
「……俺とあのじーちゃん、ともだちなんだ」
ともだち。
あの牡鹿をそう表した、小さい少年に驚いてしまう。あんなに凄まじいオーラを持った、人間に傷付けられた、悠々と佇む「主」と呼ばれるほどの存在。知らないからこそ、だろうか。そんなことを何も知らないからこそ、三太はあの牡鹿を「ともだち」と呼ぶのだろうか。
「ちっこい頃からあの近くの森は遊び場でさ……よく森に遊びに行ってたんだけど。その時に、出会ったんだ。デカい角を持ってるじーちゃん」
壮大な自然と戯れる子ども、その中で、大きな牡鹿に出会う光景を想像した。大きな大きな存在が、小さな人間の子どもに影を作る。それでも子どもは動じない。「恐怖」よりも「好奇心」に塗られた心でもって、さらに深い「自然」の中へ遊んでいく。牡鹿とともだちになったことも、そんな出来事の内の一つ。
ひどく優しい緑の風に守られ、三太が駆けていく様子を。
三太の口調から、想像した。
「なぁ、あのおじいちゃん怪我したの?」
不安を瞳孔いっぱいに広げた瞳が朝香を向く。
朝香は何も隠すことなく、ゆっくりと頷いた。
「はい。脚の具合が、悪いみたいです」
「そうなのか……全然、知らなかったな」
呟きを零した後、目線を手元に戻す。盛んに指先を動かして、何か絡まった心を解いているようだった。三太はふっと瞼を伏せがちにして、そこに悲しみを乗せた。
「最近、森に入ってないからあのじーちゃんに会えてないんだ。……近々あそこ、何かの自然ホゴクイキ? に指定されるみたいでさ、もう森には入れなくなるんだって。母ちゃんが言ってた」
「え……」
思わずユウが声を漏らしてしまった。もう人間は気軽に入れなくなるのか。確かに美しい居場所、守られるべき風景、だったけれど。
三太の表情を見れば、彼にとってそれがどれだけ寂しいことなのかよく分かる。
「全然……じーちゃんが大変だってこと知らなかった」
もう一度。
知らなった、と奥歯を噛み締めていた。
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