【3-6】

◇◇◇


『では、ここの道をまっすぐ行けば村に到着します。……私はあの泉から一定以上離れられないものですから……ここで失礼致します』

 泉水は深く頭を下げて、その姿を煙のように消した。

 森の出口だった。後ろを振り返れば木々。前を見据えればもう一面の田んぼである。一目見ただけでも作物に手が入っているようなので、人の気配がする。もうすぐそこが村か……それとも、もうここは既にその村の敷地内か。

 遠くの方を仰ぐと、三角の山が何個か見える。そこに姿を隠すように、太陽は徐々に傾いていた。橙色に染まった空。その反対側から、薄いシートを被せていくように、紫色の空も後を追ってきている。

「……はぁ、何だか、疲れた」

 何だか久々の広い空を見て安堵感がこみ上げる。息を吐き出して、胸に手をあてた。

 そんなユウを見て、朝香は微笑む。

「お疲れ様。すっかり遅くまで出歩いてしまったね」

 疲れの原因はそこでは無いのだが……まぁ、そこは朝香も分かっているのだろう。明はふるふると全身を震わせてから、首を伸ばす。

「さて、村か……」

「田んぼや畑があるってことは、すぐ近くに村もあると思うんだけど」

「野宿か、村に泊まらせてもらうかだな」

「もう、今から帰れないものね……」

 村に泊まらせてもらう。そのことに朝香はさほど緊張していないようだった。以前にも日付を超えて仕事をすることがあったのかもしれない。

 ひとまず、泉水の言ったとおりに道を真っすぐ行くことにした。

 左右、畑に挟まれている。時々その作物の内容が変わるだけで、景色に変わり映えがしない。しかしよくよく前方に目を凝らすと、ぽつぽつと積み木のような家々が見えてきた。だいぶ遠くに見える……が、視界に霧がかかってきたので距離感がうまく掴めない。

(案外近いところにあるのかしら)

 明は道すがら、畑の作物や道に咲く植物に鼻を近付けていた。

「すげぇな。この辺に生えてんの、薬草に出来るモンばっかだ」

「本当? 育てているのかな」

「かもな」

 犬の鼻先に、小さな植物が揺れる。


「────ぁぁ~~~!」


 ……すると、ふと遠くの方から誰かの叫び声が聞こえてきた。三人は一斉に顔を上げる。あまりに遠くから聞こえた声だったので、一瞬空耳だと思った。


「──ぁぁぁ~~~~!!」


「誰が叫んでいるのかしら……あっちの方で何か、事件?」

「いや、でも何か」

「……らぁぁぁ!!」

「……近付いて、来てるわね」

 ユウの呟きに、朝香は「そうみたいだね」と頷いた。

 目を凝らしてみると、少し霧がかかった先の道に、ようやく声の主を見つけることが出来る。輪郭のぼやけたゴマ、から、人の形、近付くにつれ、少年だと分かった。見るに、小学校低学年か中学年か。

 バタバタとせわしない音を響かせながら、こちらに走ってきていた。吊り上がってらんらんと少年特有の熱を持つ目は真っすぐ朝香と明を見ている。

「何か、私たちに用があるみたいね。私のことはもちろん見えてないけれど……」

「おいおい……また面倒なことになんねーだろうな」

「こらーーーっっ!!」

 少年の発した文字列も、ようやくはっきりと聞き取れた。

 と、思うが早いか、少年は明にがばっと飛びついた。

 飛びついた……というより突進に近いタックルに明が「ぐぇ」と呻る。流石に驚いたらしい(というか、何が起こったのか分かっていない様子の)朝香もよろけてハーネスを手放した。

「おっとっと……大丈夫?」

 朝香の柔らかい声に、少年は見向きもしない。

 ユウは、少年に自分が見えていないと分かりつつ、慌ててしゃがみこんだ。

「ちょっと、危ないでしょう。何があったのよ」

「くっそ、今日は散々だなおい! ガキ、早く離れねぇと吠えっぞ!!」

 ワンワン! と明が吠える。もう吠えているじゃない……と思ったが、牙をむき出しにして吠えているわけでは無かったので、何だか優しさを感じてしまう。そんな場合ではないのだけれど。

 少年はぎゅうと黄金色の毛並みを掴みながら、言った。

「この野菜ドロボウワンコめ!!」

「オレは犬じゃねぇ!!!!」

「話がややこしくなるから今はそんなこと良いでしょうアンタ……」



 簡潔な結論から言うと、村の少年……三太さんたは、作物を覗き込む明を見て、野菜を食べられてしまうのではないかと誤解したらしかった。

「にしてもあんな遠いとこからダッシュしてタックルしてくるこたねぇだろうがよぉ……」

「本当にすみません、うちの三太が……!!」

 明の不服そうな言葉。タイミングを合わせたかのように頭を下げる女性。

 一行は三太に連行され、その三太の家に来ていた。結果、村には辿り着いたわけである。明の首根っこを抑え込んだまま、後ろに青年(と幽霊)を引き連れた自らの息子を見て、母親であるこの女性は大層目を丸くした。畳の上、膝と事情を突き合わせ、段々と変わっていく女性の顔色。

「おれは悪くな痛ぁ!?」

「ちゃんと謝りなさい!! 人様のワンちゃんをアンタは……!」

 何も言わないが、ぱたんと動く明の耳。

 軽く頭をはたかれた三太は、頭を抑えたまま、ぶすっと唇を尖らせていた。その様子が見えないはずの朝香が、それを何となく微笑ましげに見た後、穏やかに告げる。

「明に怪我はありませんでしたし、悪気は無かったようなのでそこまでお気になさらないでください。農作物を守ろうとしてくれるなんて、良いお子さんですね」

「そーだそーだ!! ってぇ!?」

「三太は黙ってな。……もう、本当にお怪我が無かっただけ良かったです……突然こいつが突っ込んできて、驚かれたでしょう」

 そう言う女性の視線は、朝香の目に向いていた。心配と、少々の同情を交えた視線。脇からそれを見ていたユウは、朝香の代わりにそれを感じている。

 三太は母親の視線を同じく追い……はた、と気付いたように声を上げた。

「お前、ショウガイシャか!」

「ふんっ」

「イテェ!!」

「失礼でしょうが!!」

 確かに言葉は明け透け過ぎるが、そこに何の余計な感情もない分、そこは子どもの美徳に思える。朝香は、特に何も言うことなく微笑んだ。

 女性は一度ため息をつき、首を横に振ってから、改めて朝香に向き直った。

「今夜一日、宿が必要とのことでしたね。お詫びと言ってはなんですが、どうぞこちらにお泊りください」

「お詫び……のことなら本当に気になさらないで欲しいのですが……困っていることも確かなので、ご厚意に甘えさせてもらいますね」

 ほ、とユウは息をついた。どうやら、寝泊りの場所は確保したらしい。女性は頷いて、床に突っ伏した三太の髪をわしゃわしゃと撫でた。

「アンタは、色々手伝ってね」

「えぇー……」

「申し訳ないのですけれど、うちはお客さん用の部屋がないので三太と一緒の部屋でも大丈夫でしょうか?」

「「えぇ!?」」

 三太と明の声が重なる。

「えぇ。大丈夫ですよ。三太くん……と、明が良ければ」

 朝香は苦く笑って、明を見下ろした。ゴールデンレトリーバーらしからぬ形相で顔をしかめている。朝香は明の背中に手を伸ばして、優しく撫でた。

「まだ機嫌損ねてるの?」

「あのガキが何もしなきゃ別にいーけどよ……」

「いいじゃない、誤解だったんだから、もう手を出してこないでしょう?」

 ユウは女性の隣に正座している三太を見た。まだ小さい少年は、唇を尖らせてむすっとした様子で座っている。何だか、似ている。誰と誰がとは言わないが。

「まぁしゃーねーな。朝香を外で野宿させるわけにゃいかねーし」

「じゃあ、決まりだね」

 朝香が微笑む。三太の意思はいいのか……と思ったが、母親には言い返せないようなので、三太の意思はあってないものだった。

「三太、案内してあげて。私は色々……」

「あ、その前に」

 女性の声に割り入った、朝香の声。彼女が立ち上がりかけたのを察したのか、朝香も膝を付いていた。

 何か女性に話をするのかと思ったが、「あっ」と声を上げると、ユウと明のいる方向に顔を向けて、ひらひらと手を振った。

「明と……いや、明は、三太くんと先に行っていて。僕は少し、話をしてから行くから」

 口には出さなかったが、「先に行っていて」はユウも含まれていた。明は短く小さく吠えて、ユウも頷く。話をする……というのは、きっとあの牡鹿のことだろう。牡鹿の話はしなくとも、何か不調を治す術を、と尋ねるつもりなのかもしれない。

 そのことに大して興味は無さげな三太が、立ち上がって明のハーネスを掴んだ。……ハーネスを掴む、というより警察がお縄を掴んでいる様子にも近い。

 明は白けた目をして。

「おい。まだ敵視されてっぞオレ」

「体を鷲摑みされたまま連行されるよりマシじゃない」

「お前他人事だと思いやがって……」

「また、畑を荒らされたらたまらないからな!!」

 明の言葉に答えるようにそう告げる三太。ふすふすと鼻を鳴らして意気込んでいる。「荒らさねぇしさっきも荒らしてねぇよ……」と明。

 そのまま、朝香と女性を残して三人は部屋を出た。薄暗い廊下の床が、一人と一匹の足音だけを拾って宵闇に響いていく……はずだったのだが。


 ぱたん、と襖を閉める。

 その途端、三太はそのまま襖の近くにしゃがみ込んだ。

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