【3-5】
息がつまるくらいに、不思議な空気で満たされた場所。ここまで木が生い茂る道を歩いてはきたものの、ここは何だか真新しい「世界」な気がしてならなかった。あの木たちは、この「別世界」を守るための隔たりだったのではないかと。
中心に、大きな牡鹿が眠っていた。
体を丸め、大きな大きな角だけが、天空に向かって先端を伸ばしている。それこそまるで、日の光を求めた樹木が天高く枝を伸ばすように。この牡鹿自体が、大樹の苗に見えた。茶色の毛皮に降り注ぐ光。時折振り落ちる葉。角に絡まる光の粒子。生命の、自然の鼓動がここまで聞こえてくる。
「……驚いたな。ただの生きている動物一匹が、これくらいになれるもんなのか」
目を見張っていた明が、足元で呟いた。明の言う「これくらい」が、幽霊であるユウには分からない。しかし元々神社に居座る狛犬がそう言うのだから、すごいことに違いはないだろう。
一方で、「目は見えないが霊的な存在が視える」朝香に、あの牡鹿は見えていない。
「何がいる?」
「大きな……牡鹿がいるわ。とても悠々としてる……」
ユウは答える。あの牡鹿が放つ何かに圧倒されながら。
三人をここまで連れてきた当人である泉の精、泉水は、牡鹿の傍らまで漂っていった。その際、足元でカサリカサリと何かが音を立てて牡鹿から離れていく。存在に全く気が付かなかったが、動物たちだった。リスやネズミ、うさぎ、小鳥、蛇などの爬虫類、フクロウなどの猛禽類に至るまで。この場でだけは食物連鎖を忘れたかのように、集っていたのだ。
泉水は白い手で牡鹿の額に触れる。
ぴくり、と瞼が動いた。
『
ゆうらり。
波がうねるように。
主様と呼ばれた牡鹿は体を起こした。それから、ゆっくりとその瞳を露わにする。静かで美しい、それでいて危険も潜むような、森で迎える夜の色をしていた。真っすぐにその色が、ユウたちを見据える。
『ようこそ、お客人』
そして、言葉を話した。
それに一番反応したのは朝香で、朝香は耳を抑えた。
「……驚きました。視えないのに、声は聞こえる」
一人ごちる調子で述べてから、声の方角へと体を向けて一礼する。
「初めまして。細波朝香です。こちらは明」
『……そちらのお嬢さんは』
「!! ユウ、です」
まさか自分が見えていると思っていなかったユウは、たどたどしく返して一礼する。けれど、そうか。あの牡鹿に泉水が視えているのなら、ユウのことも認識出来ておかしくはない。
牡鹿はゆっくりと頷いて。
『主と呼ばれている者だ。自分で言うのもおかしな話だが……それ以外に名前は無いのでな』
主、というと、この森自体の主だろうか。どきどきと、もう動かないはずの心臓が音をたてて鳴っているような感覚がする。緊張、だろう。
朝香は数秒黙りこんで主を見つめる。そして、明を見下ろした。
「アカリ、あの方の側まで歩いてもらってもいいかな」
「分かった」
明はわけを尋ねるわけでもなく、頷く。朝香がハーネスをしっかり握っているのを確認して、明はゆっくりと歩き始めた。何となしに、ユウもそれに続く。足元に、小さい桃色の花がぽつりぽつりと咲いていた。この場所に慣れるにつれ、ようやくその色彩に和む余裕ができる。ゆっくりと深呼吸をした。張り詰めた空気が、少しだけ緩んだ。
主にすぐ触れられるまでの距離まで来た。主はふすと鼻を鳴らす。首を伸ばして、朝香に近付けた。
『……そちらは目が見えないのか』
「えぇ。……主様は、足が悪いのですね」
ぴく、と主の瞼が動く。泉水は主と朝香の様子を、黙って見つめていた。
『……聡いな。そう。私は足が悪い。お客人を自ら迎えることも出来ぬ、眠ることしか能のない、老いた鹿だよ』
『主様……』
『本当のことだ』
泉水の瞳が、心配そうに揺れる。しかし主は、少しも気にした様子ではない。
足が悪いことに全く気が付かなかったユウは、目を見開いた。では、彼はずっとここにいるのだろうか。どうりで、「守られた」世界に感じるわけだ。無駄なものが一つもない。
「……ここに、僕を呼んだ理由はなんですか?」
朝香が、本題に切り込んだ。
主は泉水に視線を送る。どうやら、泉水に説明を頼むようだ。泉水は長いワンピースの裾をなびかせ、恭しく一礼する。それから、三人に向き直った。
『説明もなく、突然にお連れしてしまいましたこと、お許しください。実は、人の子に助けていただきたいことが……と先ほど申しましたが、それが他でもない、主様のことです。
主様は足を壊され、このように動けない状況が続いています。森の者たちで手を尽くしたのですが、それも、全て意味がなく。今日まで過ごしております。私たちの力ではどうにもならないのです。……単刀直入に申し上げます。人の持つ技術・力で、主様の足を治していただけませんか』
泉水は両手を組んだ。
少しの沈黙。
明が「はぁ!?」と声を上げる。
「おいおい、朝香は何でも屋じゃねぇんだ!! パシリみたいな扱いされても困ンだよ」
ゴールデンレトリーバーは牙を向けて呻る。口調は悪いが、言うことはその通りである。引き受けるか引き受けないかは別として、ユウも不思議だった。なぜ朝香だったのか。よりにもよって朝香は現在進行形で代行中である。それは、この鹿のことを助けられるのなら助けたいけれども、医療のプロでもない。
明は鋭く朝香を見上げた。
「朝香。いつもみてぇにすんなり受けんなよ。さすがにキレっからな」
朝香はしばらく何も言わなかった。表情を変えずに、主のことを見つめている。主もそれを見つめ返していた。交わらない視線の間、何かが交わされているように。
やがて、重く口を開く。
「なぜ……僕なのかは気になります」
拒否はしなかった。明が小さくため息をつく。朝香らしいと思ったのだろう。ユウもそう思う。
牡鹿は、ふるると首を横に振った。
『……責任を問う意図は無いのだがね』
少しだけ、明のことも見やってから。
『私が脚を悪くしたのは、人間の……猟師の罠にひっかかったからだった』
「……!!」
ユウが一瞬息を飲む。その大きな胴体の下で折りたたまれた脚。柔らかい葉っぱの上に寝かせた脚。ちらりと見えたその脚は、赤黒く滲んでいて、その跡を残していた。
治ってはいるものの、その状態が悪いことは、素人目でも分かる。
『恥ずかしい話だがね。自業自得といえばその通りだよ。けれどね……ここのものが手を尽くしても、治らなかった。人間に負わされた傷だ。人間の力を借りて、何か悪いだろうか。ここには、近々人があまり通らなくてね。たまたま、そちらさんだっただけだ』
主の口調が、終わりに向けて強まっていく。鋭く、生命力のある瞳で真っすぐと。朝香のことを見つめた。すなわち人間が責任を取れ、ということだ。それは分かる……が。
(何でか……胸がチリチリする……)
それは、些細な違和感に感じられた。
「おいおい、気持ちは分かるが論が通ってねーぞ」
明が呆れたように息を吐いた。主は、足元の存在へと視線を降ろした。立場、としてはほぼ対等なんだろうか。
『明殿。貴方には分かるはずだ』
「分かる。だから通ってねーって言ってんだ。オレの価値観を押し付けるつもりもねーけどよ。……ってかアンタ」
明の声が、疑り探るような声になったその瞬間。
主がピュウ! と鳴いた。
耳をつんざく悲鳴のようなその声に、ユウや朝香は思わず耳を塞いだ。
明は少しだけ目を見開く。それから、顔を背けて尻尾をたすんと地面に打ち付ける。
「……はぁ……ま、朝香に任せるよ」
「妙に投げやりになったねアカリ。何か言いたいことがあるのなら言えばいいのに」
朝香は苦笑する。
何が交わされたのか、ユウには全く分からなかった。明は、主の何かを察したのだろうか。「明には分かるはず」……明の辿ってきた道や、それによって培われた価値観のことを、考えずにはいられない。
そして、いつも通り真っすぐ誠実に対象を見つめる朝香。
答えは、決まっているように思えた。
「……分かりました。お引き受けします。が、僕はその手の専門ではありませんし、出来る限りのことしか出来ないことをご承知おきください」
『あぁ、もちろん。この森を先に抜ければ小さな村がある。そこで助けを借りたらいい』
主の言葉。朝香は一瞬黙り込んだ。
しかし、「……そうですか」、と呟いた後に改めて微笑む。
「他に条件は?」
『ここに、そちら以外の人間は連れてくるな』
「分かりました」
朝香はあっさりと頷く。
だが、ユウの心は少しだけ痛んだ。拒絶の言葉。人間にされたことを思えば、当然のことなのだろうが、あからさまな拒絶を耳にするとやはり堪える。
何か他に……と考え出した途端、鼓膜を震わせるようにさわざわと葉が揺れた。
「……行こうか」
『頼んだぞ』
「待って」
気が付いたらユウはそこに口を挟んでいて。
何の考えも備えも無しに、口をついて出ていた。
主は一度だけ、ユウの言葉を待ってくれる。それだけを唯一の安心感として抱いて、ユウはゆっくりと尋ねた。
「主様。……人間を、恨んでいる?」
ふ、と。
何かが解けたのが分かる。興味だ。牡鹿の、話への興味が解けた音。顔を背け、視線を逸らし、こちらには一つも感情を受け渡すまいとする意気を感じさせる。
『泉水』
『はい。……皆様、村の方までご案内いたします』
泉水は主の傍らから、三人の方へと漂ってきた。
ユウは少しだけ、息を止める。ショックだったわけでも、特に悲しいわけでも無いのだけれど。ただただ、違和感に息がつまった。
そんなユウの背に泉水が手をあて、優しく撫でる。泉水の方に顔を向けると、彼女の青い瞳が微かに揺れるのが分かった。泉に浮かぶ波紋のように、ゆうらり。澄んだ色が、揺れている。
泉水はユウに向かって頷いた後に、木々に囲まれた暗闇へと向かっていった。
優しい陽だまりの空間から、木陰の闇に身を投じる。触覚はないが、視覚的にも寒々しくなった気がして、ユウはぶるりと震えた。
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