【3-2】

   ◇◇◇


 いわく、陽子が代行を依頼してくる理由は毎度「仕事が多忙なので癒しの写真が欲しい」ということらしい。そのため、陽子からは自然が綺麗な場所、目に優しい場所が指定される。納期は彼女が日本にいる間であったり、次に日本に帰ってくるときであったりとまちまち。今回は、彼女がこの地域に滞在する二週間後まで、とのことだった。

 スゥ、と体いっぱいに空気を吸う。一面緑、の景色が持つ新鮮さはやがて衰えたが、空気の味が持つ新鮮さだけは、衰えを知らなかった。何度息を吸っても、新たな驚きに満ち満ちている。「あ、澄んでる」という驚き。

 時に呼吸へ意識を向けたらば新緑の緑のような若い苦みが。

 時に呼吸へ意識を向けたらばせせらぐ水の音のような心地よい冷たさが。

 舌に喉に、新たな感覚を与えて去っていく。自分から吐き出される二酸化炭素でさえ、この森の色に塗られる気がした。そういった呼吸を繰り返していることで、この景色にも「飽き」を見せない。

 五感を循環させていく美しい自然。だから、人の心は美しい自然に癒されるのだろうか。

(写真だけでは、少しもったいない気もするわね)

 しかし、陽子は忙しいのだろう。

 木陰に漏れた地面の光を見つめながら歩く。

 小さい光の粒が、時折明の毛に反射して眩しかった。煌めく粒子がぷわぷわと、浮いているように見える。明が歩く度に揺れる体に合わせて跳ねていた。

「でもさすが……歩き慣れているのね」

「あ?」

「アカリは、こういう場所の出身だからね」

 隣で朝香が答える。明は寂れた神社の狛犬……だった。こういう場所、というとやはり森や山だろうか。確かに、神社には似合いの場所だ。空気が綺麗で、汚してはならないと背筋が伸びる感覚。今歩いていてぽっと神社が出てきても驚かない。

「まーな……でもあんま関係ねぇだろ」

「あるわよ、たぶん」

 そう話しながら歩く傍ら、朝香はカメラを片手で持ち上げて、片手で写真を撮っていた。


 かしゃり。ぱしゃ。しゃっ。


 よくよく耳をすませれば、その時々で音が変わっているように聞こえて面白い。本の頁をめくるような柔らかい音。

「そんなことしながら歩いていて、大丈夫? そこ、大きい石が転がってるわよ」

「ん、ありがとう」

「朝香、止まるなら言えよ。危ねぇことすんな」

 真っ当なお叱りを受ける。朝香は「ごめん」と苦笑した。

「じゃあ、少し……止まろうか。ここらへんで、少し撮っておきたい」

「何か、意味はあるの?」

「無いよ。何となく」

 変わり映えのない、木々の景色。通ってきた道と行く道以外は、全て木で囲われていた。水の音が聞こえるので、近くに川はあるのかもしれない。が、ここからは何も見えなかった。重なった茶色、幹の色彩と、幾重にも乗算された葉の緑。それだけ。

 朝香は、勘を頼りにしているのか、「どこを撮るべきか」と明やユウには尋ねなかった。

(尋ねられても……三百六十度ほぼ同じ景色だから、「どこが良い」とも言えないけれどね)

 ユウはふわっと漂って、そこにあった岩に腰掛けた。あくまで腰掛ける姿勢を取った、だけだけれども。鳥のさえずりに耳をすませながら、カメラを持つ朝香を眺めた。

 瞼を開かないまま、カメラの窓越しに世界を見つめる朝香。「目が見えない」のにも色々あるだろうが……朝香は目がそもそも開かないのだろうか。明は何か知っているのか。……気になることならたくさんあるが、まだそれを聞けるほどの距離感にはないな、と考える。

 朝香の指先は、シャッターを押した。その先に何が映るのか、彼自身では分からないままに。

『細波くんは変わらないな! 何を考えているかよく分からん!』

 なぜか、陽子の言葉を思い出した。

「……うん、ここは、このくらいでいいかな」

 朝香はカメラから手をそっと離した。安定した居場所のなくなった、首から下げられたそのカメラが、朝香のお腹のあたりでふらふら揺れる。

 ん、と返事をした明が、座った状態から腰を上げた。ユウも岩から立ち上がる。

「さて、どこまで奥に入ろうか」

 朝香は頭上で揺れる木の葉のように、楽しそうな声色で笑った。

「まー、キリはねぇわな」

「どこが、一番きれいな場所なのかは人によるしね」

 明はあたりを見回すように首を持ち上げた。ユウも何となく景色を見渡すが、なぜだろう、あまり視界情報が頭に入ってこない。変に突っ込んだことを考えてしまったからなのか。

「……ユウ?」

 名前を呼ばれて我に返った。

「ごめん、何?」

「いや……少し、ぼーっと? しているみたいだったから。僕の気のせいだったかな」

「……ううん。大丈夫よ。考え事をしていただけ」

 人の感情には、驚くほど鋭い。朝香は深くは入り込まずに、「そう」とだけ言ってすぐに明の方へと目をやった。「とりあえず、もう少し奥に入ってみるか?」と明が促し、先に進むことにする。その二つの背中を眺めながら。

(きっと、こんなに不思議な気持ちになるのは……)

 ユウは、この違和感を「怖い」とは表さなかった。

(朝香と私の見ている景色に、ほんのささいなズレがあるから、なのかしらね)

 目が見えない代わり、朝香は何か他のもので世界を捉えている。あるいは、目が見えないことで自分から世界と一つ壁を隔てているような……そんな感覚。

 首を横に振った。人の事で勝手にあれこれ考えるのはよそう。優しさと押し付けは別のものだ。

「……?」

 そこで、ふと気付いた。

 木の葉にくりぬかれた粒状の日の光……それとは何か別の光が、視界の端で舞ったような気がしたのだ。それは蝶の鱗粉のような、ダイヤモンドダストのような、そんな細かいチリのような光。どこか、タヌキのチヨを見送ったときの光にも似ていた。

「おや」

 朝香も何かを感じたのか、小さく呟いた。明にも当然見えているのだろう、胡散臭そうな目でその光を見つめていた。


 その粒たちは、少しずつ少しずつ、凝縮して形を描いた。キラキラとした輪郭がところどころで弾けて、波のように揺れ、安定したように収まる。ぱちぱちと視界を眩しく焼いたのは、彼らの瞬きだった。

 光の粒子が完全に一つの「形」を成し完成されてようやく、眩しさは収まった。視界が落ち着き、戸惑って四方を見渡す。脚のない、人型の生命体数人に囲まれていた。その誰もが見た目が中性的、白い布一つの貫頭衣を着た、人間。


 いや、脚が無い点で言えばユウも変わらないのだけれど。

「これは……」

「こんにちは」

 戸惑っているユウとは裏腹、朝香は臆することなく笑った。視えている。

「精霊の方たちですね」

「……精霊……?」

 彼ら……精霊? たちは、朝香の言葉に満足そうな顔をした。静かな微笑をたたえながら、何も言わずに朝香の腕を持ち上げる。そのまま、くいくいと引っ張っていった。

「お……っとっと」

「おらテメェら!! 勝手に引っ張っていくんじゃねぇ!!」

 明が吠える。精霊は明を見下ろした。言葉は彼らにもきちんと通じているようだが、それから……んべっ、と舌を出す。

 ぷち、と小さく何かが切れたような音が聞こえた気がした。

「テメェらこんのっ……!! ナメてっと締めんぞゴルァ!!!!」

「アカリ、道案内してくれるだけだから別にいいじゃない」

「朝香!! テメェは!! 何で!! 危機感がねぇんだ!!!!」

 さっきまで静まり返っていたこの森に、明の声が響き渡る。精霊たちは声こそ出さないものの、肩を揺らしぱたぱた透けた足を動かし、くすくす笑っていた。完全に遊ばれているというのは隣から見ても分かる。

「ねぇ、朝香は目が見えないのよ。あまり急がないであげて」

 ユウがそう発する。精霊たちの澄んだ瞳が一斉にこちらを向いた。ぎくり。自分の体が強張る。普通に見られているだけなのに、小さい何かまでも全てを見透かすような……電子顕微鏡のレンズを思い出した。邪念は持つことが出来ない。と思う。持つ気はさらさらないけれど。

 そして同時に、理解した。

 この瞳で、きっとこの精霊たちはこの森を守っている。

 数秒見つめ合った後に、精霊は少しだけ口元を緩ませた。朝香を取り巻いている内の数人が、ユウにも寄ってくる。何の躊躇いもなく手を握られたので驚いてしまった。

「……! 私に触れるのね……」

 そのまま。ユウもふわふわ漂うように連れていかれる。少々やんちゃに見えるが、悪意は感じない。

「アカリ、この子たち、悪意は無いみたいよ」

「わーってるけどよ!! はぁ……どいつもこいつもオレの話を聞かねぇなおい……」

「ごめんってアカリ。僕だって全然警戒してないわけじゃないから大丈夫」

 本当か……? とでも言いたげにジト目で朝香を見上げる明。朝香は苦笑いして、明と繋がっているハーネスを握り直す。

「本当だって。あの時のことは忘れてないから」

 あの時。ユウは不思議そうな顔をする。それに気付いたのか気付いていないのか、朝香が補足するように告げた。

「アカリと出会った時に、少しね。丁度こんな森の奥だったな。そこにいた精霊と一悶着あって」

 精霊は、その話には興味なさげに朝香の腕を引いている。ユウも手を引かれていた。ついには、明の尻尾を持ち上げて遊ぶ精霊も出てくる。明は面倒くさそうにそれを見つめると、「分かった」と頷いた。

「ったく、自分を棚に上げるつもりぁねぇけどよ、精霊なんて狛犬より格下の存在なはずなんだがな」

「自分のテリトリーにいる存在じゃなければ、関係ないのかもね。等しく『侵入者』だよ。いい意味でも、悪い意味でも」

 精霊たちの導く方へ、足を伸ばしていく。朝香の足元で、小石や枝をせっせと拾って避けていく精霊もいた。

 どこかへ、案内されている。

 パノラマのように横へ流れていく景色を見ながら、まだまだ緑以外が見える気配のない獣道を歩いていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る