第3話 常連と風景写真
【3-1】
地元では知られた、小さく温かい場所。季節は瞬きをする間に、いつの間にか「夏」にも近いような気温へと変わっていった。建物のガラスが、一層張り切り出した太陽の、その輝きを切り取って反射する。
『うぐいす写真館』。
生前の記憶が無い幽霊の少女・ユウと、「目が見えない」のにも関わらず「霊的な存在は視える」という特異体質を持った青年・
◇◇◇
しかし今、その写真館を離れてユウたちは。
「……見渡す限り……木ね……」
別の場所を歩いていた。ユウに限っては、当然「浮いている」のだけれども。
ユウは頭上を仰いだ。本来ならば、気が遠くなるくらいの青で満たされたはずの空。しかし今はその八割を、涼しげな緑が覆っていた。注ぐ光を全て吸わん、とばかりに両腕を広げた葉っぱたちは、初夏のそよ風にさわわと音を立てていた。風が吹いているだけ、今日は涼しい気候、だろうか。
自分の両手を見つめる。木漏れ日で肌の色が柔らかく透かされていた。
「はー……そりゃそうだろ。森だからな」
「改めてそう思っただけよ」
何だか呆れられたようなので、ユウは少しむっとした声で返す。呆れ声の主は、少し先を歩くゴールデンレトリーバーの
多少整備はされているものの、足元が悪いので、チラチラと後ろを振り返りながら歩いていた。そのリードの先に、目の見えない朝香がいるからである。
「朝香、大丈夫か?」
「問題ないよ」
もう何度目かも分からないその質問。朝香もまた変わらずに、涼しげに微笑んだまま頷いた。あまりにも涼しげなので、白い輪郭をつたっていく汗が不自然なくらいに感じる。つー……とそれが顎にまで到達したところで、朝香はハンカチでそれを拭った。
目が見えないのに、この足場だ。必要以上に神経を使うので疲れはあるだろうに。
「本当に……そろそろ休んだ方がいいんじゃないの?」
「平気だよ。アカリのことは視えているんだ。アカリの歩いていった道を辿れば、そんなに困りはしない。……だから、ちゃんと前見て歩いてねアカリ」
朝香の言葉に、ビクン!! と明の尻尾が立った。今現在進行形で、後ろを振り向きながら歩いている明である。
「アカリが転んだら僕も共倒れだからね」
「へいへい……ったく、朝香には敵わねぇな」
ふいとこちらから目を逸らし、明は前を向く。ユウと朝香は顔を見合わせて、笑った。
チロロロ……とどこかで鳥が鳴く。さわりと木の葉は風に揺れ、どこかでは野生動物がじっと見定めるようにこちらを見ているかのような……美しくも、そんなほんの少しの不気味さに包まれた、場所。今回、朝香が代行写真家として受けた以来の場所だった。
ここは、「うぐいす写真館」から電車で一時間ほど離れた場所にある、とある森だった。
◇◇◇
「だぁぁぁぁっっっ!! や、め、ろ!! このやろ!!」
「よーしよしよしアンタは相変わらずやんちゃだなぁ、うりっ!」
「マジで!! オレがマジの犬だったら噛みついてっぞ! わしゃわしゃすんな!!」
「…………何事??」
その「女性」がやってきたのは、数週前のことだった。
すらりと脚の長い長身の女性だった。見た目は三十代ほど。目はきっと吊り上がり、しかし威圧感や恐怖感はまるでなく、ただただ生命力に満ち溢れた瞳をしている。威圧感がないのは、敵意が無く「オープンだ」と纏う空気が告げているからだろうか。とにかく、人を無防備に信頼させてしまいそうな溌溂さを備えている。髪は短く切り揃えられていて、学生時代、相当同性からモテたのではなかろうかなんてことを考える。つまるところ、いかにもな「格好いい女性」だった。服もシュッとしたパンツスーツを着こなしている。
そしてその女性が、明をひっくり返しお腹を撫でまわしの好き放題やっていた。明の抗議に聞く耳持たずなあたり、きっと視える人ではない。
しかし明はどうやら見知った相手のようだった。
「お? 次は頭か? お?」
「だぁから! 耳持つなっつってんだろが!!」
「吠えるなぁ」
明がどれほど吠えようが朗らかに笑うだけだ。「何か……大変そうね……」と他人事に呟く。するとゴールデンレトリーバーの鋭い瞳がこちらに向けられて。
「おい女」
「いつまでその呼び方なわけ?」
「何とかしろ!!!!」
「いや無理よ、私幽霊だし」
ユウは肩をすくめた。惰性でその女性に手を伸ばす。すかっ。当然、彼女の脳天を貫いていく手。明は小さく舌打ち(犬が?)をする。そして、天井を仰ぐ。
「何とかしろ朝香ーーーーーーっ!!」
「遠吠えじゃ~ん。すごいねアカリ」
女性には明の抵抗が何もかも糠に釘だった。
ユウが苦笑したところで、ようやく店の奥から朝香が出てくる。その左手には、写真を入れる長封筒が握られていた。それに気付いた女性が「おっ」と声を上げて、これまたようやく明から手を離す。
「賑やかですね」
「細波くん! いやぁ相変わらずアカリは元気な犬だね!」
「犬……じゃねぇっつの……」
「アンタ、それ息切れしながらでも言いたいこと?」
床にへばりつき、犬らしく舌をだらりと垂らした明の隣にしゃがみ込む。あんなに無茶苦茶な撫で方だったものの、黄金色の毛並みはボサボサではなかった。一応、計算の上で撫でていたらしい。
朝香は女性を出迎え微笑む。「ここだ、ここ」と女性は朝香の右手を取った。
「ありがとうございます。
「細波くんは変わらないな! 何を考えているかよく分からん!」
「それ、あなた以外から言われたことないんですけどね……これは、前回の依頼分です」
朝香は苦笑し、女性に向けて封筒を差し出す。少し、膨らんでいた。写真が十枚ほどは入っているのだろう。女性は満足げに頷いて、それを受け取る。そっと開けて、中身を数秒確認すると、持っていたカバンから財布を取り出した。
「きちんと確認しなくていいのですか?」
「細波くんは仕事が出来る男だと分かっているからな」
親し気に二人が話す横で、床にしゃがむ二人。ユウは明に目をやった。
「この方は?」
「小鳥遊
「へぇ、若いのに」
「あの女、もうすぐ五十を迎えるぞ」
「嘘!?」
思わず声を上げてしまった。それにしてはあまりにも若く見える。彼女から溢れ出る生命力がそうさせるのだろうか。三十代にしか見えないし、大げさに見積もったところでせいぜいアラフォーだ。……なんて、女性の年を見積もるのは少々失礼かもしれないが。
「朝香の目のことは半分しかしらねぇ」
「半分……というと、『見えない』という方だけ?」
明は頷いた。ここ、「うぐいす写真館」の店主であるおじいさんは朝香の目の全てを知っているし、何なら明がただの犬でないことも知っている。何か、彼らの中で線引きがあるのかもしれない。
「そして、時折帰ってきてはここに顔を出すんだ。……そして朝香に仕事を依頼する。いわば、代行写真家の『常連』ってやつだよ」
常連、とユウは復唱した。
それとタイミングを同じくするように、女性……小鳥遊は、甲子園の空を貫くトランペットの音の如き快活な声で、朝香に告げた。
「また細波くんに写真を依頼したい。ここから北の、県境にある森をな」
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