【3-3】

   ◇◇◇


 一体、どこに案内されているのだろう。

 人の整備した道ではない草むらに分け入っていったり、小川を跨いだりと、とにかく精霊たちの行く先は自由奔放だった。浮いているユウは大して疲れも何もないけれども。

「朝香は大丈夫なの?」

「クソこいつら……これで無意味だったらマジではッ倒す……」

「アンタは怒りすぎ」

 ユウと明がやりとりする傍ら、朝香は呼吸の切れ間に「大丈夫」と返した。聞き方が悪かったか。「大丈夫か」と聞かれれば「大丈夫」と答える他なくなるだろう。

 細い脚は先程から歩いては少しの間立ち止まりを繰り返している。

「……休みましょうか」

「賛成だな」

「……気にかけてくれるのはとてもありがたいけれど……でも本当に、大丈夫だよ」

 にこ、と笑って顔を上げる。それに、と呟いた。

「目的地はもうすぐだ、って言ってくれてる」

 え? と聞き返して、周りの精霊たちを見回した。精霊たちは視線こそ返してくれるものの、何も語らなかった。陶器のような肌をした、その口角を上げて、こちらに小さく微笑む。

 さわり、さわり、と優しく木々が揺れる。その音が、徐々に薄れていった。ふっと鼻先に、日の光の香りが触れる。


 木々が、開けた。

 その眩しさに、思わず目をつむった。


 朝起きて一番に、カーテンを開けて差し込む日の光のような温かさが頬に差し。

 それから窓を開けて吹き込むそよ風のような、涼しさが足元の草と遊んで駆け抜けていく。

 閉じた瞼の裏、這う血管が日に当たって可視化される。そこに廻っているはずの血液はもう自分に無いはずだが、赤い生命の色がチカチカ存在を示していた。

 眩しい、遅れて小さく、そう呟く。

 眩しさに慣れた後、ようやくゆっくりと、目を開けた。

「……!!」

 続いて、息をのんだ。

 今まで緑一色に塗られた場所を歩いてきたが、それが開けた、場所。中心には小さな泉がある。息を飲むほど美しかった。単純な語彙にしかならないけれど。

 小さな泉、と言っても、歩いて一周するのに十五分はかかりそうな大きさだ。青く透明に澄んだ水は、鏡のごとく光を跳ね返し、こちらに与えてくる。木が開けた瞬間やけに眩しかったのは、きっとこの泉のおかげだ。

 無意識に、一歩前へ踏み出してしまう。

「すごく……綺麗な場所ね……」

「……どう、綺麗かい?」

「えぇ……とっても、綺麗よ」

 朝香の言葉に答えてから、ユウははたと気付く。今のは自分ではなく明に向けた言葉だったかもしれない。だからと言って、どうというわけでもないが。

 朝香を見る。

 朝香は……少しだけ驚いたような顔をしていた。目が開かないので感情の色をあまり推し量ることは出来ないが、口の形が呆けているので恐らくそうだろう。

「……え?」

「え?」

「口に出てた?」

「えぇ……」

 何が何だかよく分からない。「口に出てた?」と尋ねるということは……心の中で「綺麗か」と尋ねるつもりだったのだろうか。ユウはしぱしぱと瞬きをして、何となく平静を装う。

(心の中でって……誰に?)

 その疑問を、戸惑いを、悟られないように。

 朝香も朝香で、後ろ頭を指で掻いてからふっと息をつく。それに何も意味は無かったのか、それとも落ち着こうとしたのか。しばらく口ごもった後に、朝香は「ううん」と微笑んだ。

「ごめん。何でもない。……そっか、綺麗なんだね」

 朝香は、後半呟くようにそう告げて、煌めく水面に顔を向ける。ユウは何も答えられずに、その横顔を見つめていた。水面が反射した温かい日の光。朝香の白い肌は、それすら享受せずに、反射した。反射した光はこちらの視覚に触れる。とても眩しくて……見えにくい。全ての輪郭も些細な感情の機微も、溶かしてしまう眩しさだ。

 そよ風に、睫毛が揺れる。

「僕も見えたら良かったんだけど」

 また、だった。

 目の前の美しい景色に、どこか他人事な朝香。それは、見えないから仕方のない話。しかし。

(見えたら良かった……本当に、そう思っている?)

 なぜか浮かんだ、そんな、不安感のようなもの。見えたら良かった、の一般的な希望に、朝香自身の感情はあまり見えてこない。

 訪れた沈黙の中に、思考を置くユウ。中々破られない静寂の中で、スッと明が首を持ち上げた。静寂を破ったのはユウのためか朝香のためか。

「……朝香。写真撮らなくていいのか」

 低く優しく、語りかけるようにそう言った。いつものように荒い声でもオラついた声でもなく……そう、まさしく朝香が伸べていた「頼れるお兄ちゃん」のような声色だ。この場所に、あった語り方をしているように。

 その栗色の瞳が、少しだけユウを見た。

 首をゆっくりと、横に振った。

 気のせい、だっただろうか。

「そうだったね」

 朝香は朗らかにそう答えて、カメラを持ち上げた。

 精霊たちはここに案内が出来て満足したのか、散り散りに散っていく。木々の中へ帰っていくもの、戯れに泉の中へ消えていくもの、まだ朝香の行動に興味がありげなのか、そのままここにいる精霊もいた。

 ふっと息を吐くと、張り詰めていた空気が解ける。

「太陽は……真上の時間帯ね」

「じゃあ逆光は、あまり心配いらないかな」

 朝香は試しに二回ほど、シャッターを押す。

 かしゃかしゃ。

 その音を聞いた精霊が、不思議そうに真正面からレンズを覗き込んだ。「ちけぇよ」、と明はその精霊の足元を前足でつつく。

「また心霊写真になっちゃうわね」

「まー精霊っつーのは写真に跡を残すヘマしねーだろうから、この前の庭石ん時みたいに一般人にまで見える心配はねーけどよ」

 たすん、と尻尾を打つ明。

「それでも霊感のあるやつには見えるな」

 注意してこようか……とユウが思ったその時、朝香は精霊の方に顔を向けた。柔らかく微笑む。

「……よろしければ、写真に残すに相応しい綺麗なアングルを教えていただけますか? ここのことなら、貴方方がよくご存じでしょう?」

 精霊はきょとんとした顔をする。が、それから服の裾をなびかせて、頷いた。ついでに、左腕で力こぶを作って「任せろ」と言いたげにまじまじ朝香を見つめる。朝香も笑い返した。

 精霊と朝香が並んで泉のほとりを歩く、その背中にゆっくりとついていく。

「朝香はよく、あぁやって現地の精霊に尋ねて歩くんだよ」

「現地の精霊って、何かすごい言葉ね」

「寧ろ写真を撮る時は、精霊どもに頼ることの方が多いな」

 ふるっと明は黒く濡れた鼻を動かす。

 何かを語ることは無い精霊たちだが、朝香に対しては終始にこやかに見える。気に入られているのだなぁ、と思う。思って、そのまま口に出した。

「気に入られているのね」

「あぁいうのに気に入られやすいんだよ朝香は。理由は知らんが」

「アンタもその内の一匹じゃないの?」

「あいつらとオレを一緒にすんじゃねぇ!!」

 牙を向けて憤慨する明。ユウはふわっと軽く宙に浮いて「分かったわよ」と苦笑した。

 泉から反射した光が、明の黄金色の毛並みを照らして輝く。まるでその色自身、太陽のようだ。

「ここですか? 分かりました」

 ある場所で一行は立ち止まる。ユウには全く、先ほどの位置と何が違うのかは分からなかったが……精霊が言うのなら、間違いはないのだろう。朝香たちを取り巻いていた他の精霊は、すぅっと静かに消えていった。本当に、彼らは気まぐれらしい。

 朝香は泉の方向にカメラを向けた。ユウも、そのカメラが映す方角を眺める。

 透き通った青は、初夏を思わせた。揺蕩うこの波紋に入道雲を浮かべたら、この水はそのまま空になってしまうのではないか……そう感じるくらいに、透いた青だった。もっと近付かなければ見えないけれども、恐らく底に息づいているであろう水草の息吹も、憩う魚のえら呼吸も聞こえてくるようだ。静謐な命の、色がする。

 かしゃ、かしゃ。音に合わせるように、明は一歩一歩水面に近付いていった。

 かしゃ。

「明は映っていいの?」

「あぁ、アカリ映ってる? まぁ小鳥遊さんはアカリが映っていると喜ぶし、良いんじゃないかな」

 朝香は少しも角度や位置を変えることなく、案内された場所そのままに、真正面からの撮影を続けていた。少しすると、水面まで近付いた明もこちらに返ってくる。

 かしゃ。

 シャッター音と、水のせせらぐ音が、聴覚を通して体の中を濯いでいく。

 ファインダー越し、一つの世界を切り取っていく。

「……」

 朝香が、ふと指を止めた。顔の前に構えたカメラを、胸の前まで降ろす。不思議に思ってユウは朝香を見たが、朝香は視線を、水面に向けたままだった。

「撮り終わったの?」

「いや。……また誰か、いらっしゃるようだから」

 また? と思わず聞き返してしまった。静かに食物連鎖を渦巻かせる森の中、現実でない存在も、そんなにいるのだろうか。それにユウには、まだ何も感じられない。

「……泉の中からだな」

 明も呟く。ユウは、深さが増すにつれて濃さを増す、その青に目を凝らした。


『あぁ、良いのですよ。お気になさらず』


 その声が聞こえて。

 ようやくユウもその存在を認識出来た。

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