【2-5】
チヨが長い話を終えて、ふっと息をつく。疲れと、安心。語り継げた、そのことに深い安堵を得ているようだった。
表情を見て、分かる。
ユウも媒介として彼女の言葉を語った。言葉が止み、そっと口を抑える。痛い……痛い。触覚のない今のユウには久々の感覚で、それがなお、痛かった。痛くて、仕方がなかった。
チヨはふっと笑う。
『貴方は、とても優しいお嬢さんね』
「……っ、…………だから、この家の周りにタヌキが、たくさんいたのね」
ユウが懸命に言葉を紡ぐと、チヨは「えぇ」と優しく言った。
『でも、それもおしまい』
「え……?」
『なるべく人に見られないようにこの家を見守り続けてきた私たちだけれど……ある日、ここに来た人たちが話をしているのを聞いたの。この家、取り壊されるみたい』
かたかた、と。吹いた風で障子が揺れた。
何も言えなくなるが、当たり前のこと。この世界にあるものは流動的で、そのままの形を残して生きることが出来ない。持ち主のいない「人のためのもの」ならば、尚更。
チヨは悲しんでいる風でも、恨んでいる風でもなく、ただ移ろいゆく季節でも眺めるようにゆるやかな双眸をしていた。
「……まぁ、この家自身も限界だろうな」
後ろから、ぼそっと明の声がする。
「手入れは最低限のものしかされてねぇ。そもそも人のためにあるモンは人がいなきゃ成り立たねーんだわ。……この家は悲鳴を堪えながら、それでも生きてる状態だ。役目を終えたと、もう安心しきっているから『その』方が楽にもなる」
ユウは天井を見上げる。木目が人の顔に見える天井。キシキシと、風が吹くたびに鳴いていた。人の温度のない床には、埃だけが転がっていく。
『私はこの家が好きだった……でも、明さんの言う通りよ』
ひゅう、ひゅう。
風の音、かと思ったが……これは、チヨが呼吸をする音だった。喉に穴が開いたような、不自然な音。ユウはチヨの鼻先を撫でようとしたが、空を切った。
ひゅうひゅう。すぴすぴ。キシキシ。
共に慰め合う音。
『写真を撮っていただくことは一向に構いません。……ですが、その、写真を使いたいという子らには、届くでしょうか』
チヨの声は穏やかで静かで、それでいてひどく感情的なような、縋るような。そんな響きを孕んでいた。写真を撮ることに、少しだけ心を悩ませたのは、きっとこれが理由。写真を撮ったところで、どれだけ伝わるだろうかと思ったのだ。
この畳の傷にはこんな思い出があって。
縁側に差す光はあの日こんなに辛いものだったんだよって。
眠れない夜、天井の木目を視線でなぞりながら、泣いた日があったって。
もう誰もいないこの家に、「人が住んでいたんだよ」と。
どれほど。
「……朝香」
ユウでは、何も答えられなかった。チヨの言葉を借りて語ったユウ。だからこそだろうか。チヨの心とユウの心が共鳴して剥がれなくなり、泣きたくなる。疑問に、思う。
あの中学生たちは、そこまで考えて歴史を見るだろうかと。
チヨの疑問をユウ越しに再び聞いた朝香は、少しだけ黙り込んだ。それから、指先で手に持ったカメラを撫でて、息をつく。
「正直、届くかどうかは分かりませんね。写真は言葉の無いメッセンジャーです。『言葉が無いからこそ届く感情がある』と言う人もいますが、絶対では無いでしょう。半分は事実で、半分は希望を込めた綺麗事だと思います」
半々です、と告げて。
それでも、朝香はカメラを持ち上げて、いつものように微笑んだ。
「この写真、あなたも映りましょうか」
「え……?」
『……?』
「届くかどうかは分かりません。けれど、残したい想いはあるのでしょう? だからあなたは、僕らにその話をした」
チヨが、息を飲む音。そう、きっとチヨは、誰にも知られず、タヌキたちの内だけで、この記憶が消えていくことが寂しかった。
残したいと思っていたから。
『けれど……こんな老いぼれタヌキを映しても……』
ユウが伝える。
朝香は、受け取る。
「想いは乗るものですよ。……ただ、それを受け取れるような心の余裕を持つ人が、少なくなってしまっただけ。見えなくなってしまったんですよ。でも、時折写真を食い入るように見つめる人は、いる。何かに取り付かれたように、立ち止まって」
「見えなくなった」、という言葉にどきりとした。朝香は、どんな思いでこの話をしているだろう。
チヨは、少し鼻先を持ち上げた。ちゃぶ台から顔を出して、閉じかけた瞼で朝香を見据える。ひくひくと鼻が震えた。朝香は、気配で察したのか、その一匹の動物に手を伸ばした。
触れる。
撫でる。敬意を払うように、優しく。
「……! 朝香、時間がねぇな。あの男、家に入ってくるぞ」
「あぁ。すっかり長話になってしまったね」
明が玄関先を見て吠えた。朝香は、特に慌てる風でもなくゆったりと立ち上がる。チヨを含めた部屋全体をなるべく写真に収めるために、下がらなければならない。
ユウも朝香を誘導しようと立ち上がった。すると、後ろから『お嬢さん』と声を掛けられる。
「どうしたの?」
『いいえ。……ありがとうね』
ユウは、少しだけ目を見開いた。
眩しそうに目を細めて笑んだ後に、頷く。
「ちょっくら時間稼ぎしてくるわ」
黄金色の大型犬は、そう言うと玄関へと走っていった。廊下の遠くから、「うわっ、何だよ」という渋田の不服そうな声が聞こえてくる。
ユウは部屋の端まで朝香を誘導する。朝香はカメラを構え、「行きますよ」と呟いた。
カシャ。
合図もなしに、切られたシャッター。
チヨは当然、ポーズをすることも、あえて何かするわけでも、なく。
ただちゃぶ台から少しだけ顔を出した状態で、映りこんだ。そこで生きているだけの姿を。家と最期まで寄り添っただけの姿を。
すると、ふと、スゥ……と、この部屋の空気が少しだけ軽くなった感覚がした。重い荷物を降ろして、改めて深呼吸をするような清々しさ。それでいて、清々しいのにやけにその空気が冷たくて、何だか寂しくて咳こんでしまうような。勝手に嗚咽が漏れる、明け方のような。
ユウが、半透明に透けた手でそっと目尻を拭う。この世の森羅万象に何ら影響を与えない彼女の雫が、虚空に消えていく。
「…………あなたがチヨさんですか」
隣で、朝香の微笑む気配。
「やっとお会いできた」
ゆっくりと伸ばされた、その手の先で、掠れたような『ありがとう』が聞こえてきたのだった。
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