【2-4】
渋田が、「タヌキがよく出入りする」と言っていたが、彼女もその類だろうか。今にもこんな……命の火が揺れて吹きこぼれ、消えてしまいそうな彼女が、どうしてこんなところにいるのだろう。
すると、ユウの視界の端に朝香の脚が映る。ユウの気配を辿って近付いてきたらしい。後ろを振り返ると、明は部屋の入り口で静かに待機していた。
朝香はユウを見て、そして真下を見下ろす。
「ユウ、ここに誰かいるのかい?」
「えぇ」
朝香は、何も見えていないようだ。チヨの声も聞こえていない。……それは確実に、「チヨがまだ死んでいない」という証だろう。どうしてユウに声が聞こえるのかは定かでないが……それは彼女が「死に近い」からだろうか。
「タヌキのチヨさん。……ここで休んでいらっしゃったみたい」
チヨはすぴ、と鼻を鳴らした。朝香を確かめるように、その顔を上げる。ちゃぶ台の天井に、ギリギリぶつかるかぶつからないか、というところでまた頭を伏せてしまった。
朝香はユウの位置を確かめながら、膝をついてしゃがみ込む。「少し手前にちゃぶ台があるわ」と声をかけると、それに触れた。そして、正座する。
「……初めましてチヨさん。朝香と言います。本日は所要があって、この部屋の写真を撮りに来たのです。……よろしいでしょうか?」
なぜチヨに許可を取るのだろう、と思わず朝香を見た。朝香はチヨのいる方向を見つめたまま、何も言わない。チヨは少し首をかしげると、ユウを見た。
『写真……なぜ?』
「私たちが使用するのではないの。でも、そうね……『歴史を調べて纏めたいから、それに使いたい』と言っていたかしら」
女子中学生たちの顔を思い返す。
(何か、まずいことがあるのかしら)
チヨは否定しているようではなかったが、どこか浮かない顔をしていた。ここの家主でもないだろうに、と不思議に思う気持ちが湧き上がる。しかしチヨはこの家の、部屋の、畳の色も傷んだ跡も何もかもを知った顔をして、瞳を揺らしていた。
そんな一匹の老狸はユウを、そして朝香を見比べた後に、口を開く。
『お嬢さん、よろしければこのおばあちゃんの話を聞いてくださらないかしら? 出来れば、この朝香さんという方にも、後ろの明さんにも……』
「えぇ、私が代わりに話すわ。明は多分、聞こえているから大丈夫よ」
明の方を振り返ると、彼は返事の代わりに、しっぽをたすんと床に打ち付けた。ずっと会話は聞こえていただろう。明の瞳に、真剣な色が乗っている。
チヨは語って聞かせる。物語のように。そう、それこそ、お年寄りが今の若い子どもたちに、反省と希望を込めて昔話を語って聞かせるように。
◇◇◇
『私は九年前、この家の近くの山で生まれました。私がこの家を初めて訪れたのは、そのすぐ後の話です。というのも、私の家族は……先祖代々、この家に通い、この家を守ってきたのですよ。
いや、「守っていた」というのは
ここの家のご家族は、ヒョコヒョコやってきた私の先祖に餌をやってくれたり世話をしてくれたりと、動物に情が深い方だったそう。戦時中も、タヌキがここを訪れたらば、親切にしてくれたとのことでした。
『あ! また来たのかお前たち。よしよし、今何か食い物持ってきてやるからな……』
『困りますよあなた。私たちも食いつないでいけるかいけないかの瀬戸際ですのに』
『固いことを言うな』
『ふふ、冗談です。ほら狸さんたちおいでなさい』
ほいっほいっと軽い調子で言葉を交わす夫婦お二人。タヌキたちはお二人が大好きでした。生きるか死ぬか、勝つか負けるか、で世界が包まれていた時代、穏やかな時間を過ごしたと言いますよ。空襲で……戦火に巻き込まれた先祖もいたようですが……。
そんなここの家の主も、徴兵の時がやってきて家を空けます。私の先祖タヌキたちは、家主の奥さんと、彼の帰りを待ちました。二人の間には子どもがありませんでしたから、彼がいない間は奥さんが一人ぽっちになってしまいます。せめてと、タヌキどもが隣にいたのです。時に食べ物を分け合い、時に暖を取り合いました。
じとり、
生きて帰ってきたのです。
それはもうお祭り騒ぎの喜びようであったとか。家主が帰ってきたことで奥さんも安心でしょうから、先祖タヌキたちはそれからしばらく、彼らの家に通わない期間がありました。タヌキもタヌキで、新たな住処や、食料を得る場を探さなければなりませんでしたから……。
それが落ち着いて、また家に通い出したのが戦後から約半年後だと言います。
タヌキたちが彼らを訪れない間、とんでもないことが起きていました。
家主が、自殺したというのです。
その当時タヌキたちの間に走った衝撃を、私も伝えられています。奥さんと共に心中しようとしたが、奥さんは生き残ったと。私も聞いた話なのでそれほど鮮明にお伝えすることは出来かねますが、奥さんが精神的に錯乱することも、何度かあったと。
おそらく家主の彼は、戦争を生き抜いた罪悪感に耐えかねてしまった。
彼は、仲間と、それから「敵」と呼ばれた人々の死を、沢山見送ったのでしょうから。
タヌキも共に悲しみました。微笑みながら頭を撫でた手、「子どもがいるみたいだ」と楽しそうに接してくれた声、「大丈夫」と言って戦地に赴いた寂しそうな背中、全て、覚えていました。
ですからタヌキは、この家を守ることにしました。奥さんの心を始めとして、この穏やかな場所を皆で寄り添い守ると決めたのです。年を経るごとに奥さんは落ち着き、長く生きました。晩年も最期も、一人……いや、タヌキたちが見守る中、この家で迎えました。
私も、晩年の彼女には会ったことがあります。私はとても小さい頃でしたが……温かい、掛け布団のような方でした。
そよ風が花に揺れるようにそよそよ笑い、それでいて、瞳の奥にいつも遠い寒空を待ち望んでいるかのような……時々その危うさを垣間見せるような女性でした。が、彼女はあくまでこの地に足を付けたまま、空を見上げていました。青い青い、空を、穏やかな面持ちで見つめていました。
縁側に腰掛けた彼女の隣に私が座ると、彼女はたくさん、世間話をしてくれました。
『あらあなた、まだ小さいのね。新しい赤ちゃんかしら』
『時って経つものね、こんなに可愛らしい子が産まれるのだから……そうよねえ、わたげもあんなに大きくなったんですもの。ふふ、「わたげ」というのはあなたのママよ。ふわふわしていたから。私が勝手にそう呼んでいるだけだけれど』
『庭を歩き回るのは、楽しい? そう、良かった。今の子どもを見ていても思うけれど……危険の無いお外で遊んでいる様子を見ると、私とっても嬉しいの』
『こらこら、兄妹分け合って食べなさいな。たくさんあるのよ。……たくさん、食べてふくふくと、大きくなってね』
私の両親も戦時中には生きていないのですから、両親から聞くお話よりも彼女から届く言葉は重たく、深く、そして些細な幸せに溢れていた……。私もこの人のために、思い出を守りたいとそう強く願いました。彼女が亡くなったのは、それからすぐのことです。空き家となったこの数年間も、私たちタヌキは、この家を守り続けていました──……。』
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