【2-3】

◇◇◇


「……さっきからタヌキをよく見かけるな」

 玄関扉から家に入る間際で、明が呟いた。「タヌキ?」と朝香が首をかしげる。

 家の門に入り、庭へ回り、家の外観を一枚撮った後だった。庭もそれなりに広く、十分な広さがあったために家の全体を写すことが出来た。依頼の半分は、完了である。

「あぁ、私も庭の隅っこで一匹見たわね。でもそんなにいた?」

「僕は全然気が付かなかったな」

「朝香はそりゃあな。……ざっと敷地内、外で七匹くらいいたな。こちらの様子を伺っているようだったが、何なんだか」

「……住みついているのかしら?」

 そう呟きつつ、不思議に思う。空き家、と言えど人の管理は入っているはずだ。この近くに山はあるが、近くと言っても徒歩で二十分はかかるはず。本当にタヌキが住みついているとしたら、なぜだろう。

「タヌキが人里に降りてくること自体、珍しいことだと思うけれど……」

「あーあの迷惑タヌキか?」

 突然渋田が割り行ってくる。朝香の声だけに反応したらしい。

「ご存じなんですか?」

「時折姿を見せんだよなぁ、ただでさえ空き家は管理が大変だっつーのに、踏み荒らしやがって」

「なるほど……」

「特に群れを率いてる老いぼれタヌキだ。あいつぁ追っ払っても追っ払っても湧きやがる。とっとと誰か撃ち殺しゃ良いのによ」

 背筋に冷たいものが走った。落とした言葉がひどすぎる。何よりその言葉の軽さが恐ろしかった。立場はわかるが、そこまで言うのは、とユウは思う。

 朝香は「……それは頂けませんが」と前置いてから。

「では、家の中にタヌキがいる可能性も?」

「あんな」

  渋田はがちゃがちゃと家の扉の鍵を開けると、面倒くさそうにこちらを振り向いた。

「三十分……もうあと二十分くらいか? 経ったら呼ぶから好きにしろ」

「同行しなくて、よろしいんですか?」

「こんな家、盗るもんもねぇだろ」

 渋田はしっしと片手を振る。何だか知らないが、完全に厄介者扱いを受けていた。明は機嫌悪そうに地面を足で削る。

「……まぁ、この人にずっと見られているなんてこっちから願い下げじゃない?」

「そうだけどよ」

 そんなわけで、三人は家に敷居を跨ぐ。

 玄関は建付けの悪い引き戸だった。「腰の位置に取手がある。引き戸だ」と言う明に、朝香は取手を手探りに探し、横に引く。ガタ、ガタ、と何回か上下前後に揺さぶってようやく引き戸が開いた。

「段差がある。軽く跨げ」

「そこも段差があるわ。さっきよりも足を上げて」

 明とユウで朝香を誘導する。朝香が廊下に足を踏み入れると、木の軋む音がする。家が悲鳴を上げているようだ。古いがためにこの家は、「家」という姿を取り持つだけで精一杯なのではないか……ふと、そう感じられた。

 一人分の人間の重さと、一匹分の犬の重さを受け止めて、廊下は奥の暗がりへと伸びている。

(私も幽霊だけれど……確かにこれは、ちょっと不気味ね)

 女子中学生たちが「お化け屋敷」と呼ぶのも頷けた。そこのちょっとした暗闇の塊、そこに転がるほこり、ふと視線をやったときに目に入る「隙間」、その全てが恐怖を掻き立てている。

「一番広い部屋……というのはどこなの?」

「これ、あの人から受け取った家の地図なんだけど」

 朝香はユウに地図を渡す。それを覗き込むと、朝香は照れたように笑った。

「点字対応してないから、全く分からなくて」

「嫌がらせじゃねぇか」

「照れるとこじゃないわよ」

 明は一旦立ち止まる。ユウは物が触れないため、朝香に持ってもらったまま地図を眺めた。二階建ての家の見取り図だ。なるほど、広い。全体的に一部屋一部屋が広かった。そこはやはり、昔ながらのお屋敷という印象を受ける。

「一番広い部屋……はすぐそこね」

「そこの廊下の突き当りか?」

 ユウの指さした方向を追った明が、そう尋ねてくる。ユウは頷いた。

「えぇ。和室ね。家族が集まる場所のようだから、広いのかも」

 後ろの朝香を気遣いながら歩く明。ユウはその横をすり抜けて、一足先を行くことにした。薄暗い茶色一色、木の床を少しも軋ませることなく。

 家の奥に進むにつれて増す暗闇。そこに飛び込んでいくように、前へ前へ漂っていく。襖は、全て開けられていた。手招きでもされているかのようだ。

(突き当り……は、ここね)

 ユウは、そろりと、その部屋を覗き込んだ。

 間取り通り、そこそこの広さはあるようだ。部屋の電気は点いていないので、外の光だけが、ぼんやりと畳の目を露わにしている。年数を孕んで渋い色を放ったが、妙な香りを運んでいた。部屋の四隅は、影で黒ずんでいる。影たちは、部屋の真ん中でくつろぐ日光に、端っこへ追いやられたかのようだった。

 部屋にはちゃぶだい、一つ。こんなに広い部屋なのに……と思ったが、最後の住人がいなくなった時、本人か親族か業者が、少し片づけたのだろうか。

 一通り視線を巡らせた後、ユウはふと気付く。

「……?」

 ちゃぶ台の下に、何かいる。

「何……?」

 自分は幽霊だ。何があっても害はないだろう。そういった考えもあって、ちゃぶ台に近付いた。黒い……茶色い? 何か。ちゃぶ台の下を、ゆっくりと覗き込んでみる。

『だぁれ……?』

「おい、どうした」

 明と「それ」の声が重なった。ユウは目を見開く。女性の声だ。それも老いた女性の声で、皮のぶあつい手が優しく頬を撫でるような、そんな声色だった。

「どうかした?」

 後ろから朝香の声も追いかけてくる。二人もこの部屋に入ってきたようだ。「それ」はもぞもぞと動いて、顔をこちらに向けてくる。

『犬……? 犬がいるの? 野犬かしら……あぁいやだ……』

「……おい女」

「キレなかったのは褒めてあげるけど、それ以上近寄らないで」

 明はいつものキレ芸が喉まで出かかっていたようだが、抑える。その代わり、ぐるるると喉を震わせていた。ユウは、改めてその存在を見る。

「怯えているみたい。まぁほぼ明にでしょうけど……初めまして、私の声が聞こえる?」

 ユウが近付いた時、このちゃぶ台の下の「彼女」は「誰?」と尋ねてきた。彼女は、幽霊であるユウを感じ取っている。彼女は今にも閉じそうな目をしばしば瞬かせたと思うと、吐息のような声量で告げた。

『えぇ。えぇ聞こえるわ……貴方は?』

「私は……ユウ。後ろにいる人間は朝香、繋がれてるのは明よ。危害は与えてこないわ。安心して」

『そう……ユウさん。こんな可愛らしい幽霊のお嬢さんが見えるということは、やはりそろそろなのかしらねぇ』

「そろそろ」。ユウは口ごもる。彼女は、続けた。


『私はチヨ……ただの、老いぼれタヌキよ』


 彼女……タヌキのチヨは、そう言った。

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