【1-2】
白い塗装の壁は、もう夕方にもなる光で淡くオレンジ色に染まっている。屋根は三角形の、そこそこ大きな家だ。庭はないようだが、なるほど家族で住むには丁度いいくらいの家に見える。まじまじ見るのはプライバシーの点を考えると良くないだろうが、まだ洗濯ものが干してある様子が目に入る。生活感が感じられた。
「じゃあ、この家の人に許可を取ってくるね」
「わざわざ、許可を取るの?」
「はぁ、テメ人の家勝手に撮っていいと思ってんのか?」
「そうじゃないけど、一枚くらいなら無断でもいいかなって思ってるだけよ」
「ふふ、でもそうはいかないんだな」
よいしょ、と、朝香は肩にぶら下げていたショルダーバッグからカメラを取り出す。少し古めのカメラのようだった。「一眼レフ」と「デジタルカメラ」、くらいしかカメラの名称を知らないユウにはどれだけ貴重なものなのかは分からない。けれど普通の人が持たないような、細々とした部位のついたカメラだった。
「一応、家の一部分でも映してほしくない場所があるかもしれないからね。あらかじめ、そういうのは聞いておかないと。あと、撮るのは一枚ではないんだ。どういう角度がいいかとか注文を受けなかったから、何枚か撮って、選んでもらうつもりでいるし」
そう言いながらも、朝香は玄関の方に向かっていく。時折、明が「ここ段差あっぞ」「チャイムはお前を中心に三時方向だ。低めだなおい」などと言っている声が聞こえる。余計な一言もあったような気がしたが、きちんと盲導犬の責務をこなしていた。
数十秒して、家主が出てくる。数分して、朝香と明が帰ってきた。
「許可を貰えたよ。お洗濯を取り込むから、少しだけ待っててって言われた」
「良かったわね」
朝香は頷く。明はというと、戻ってくるなり朝香の足元で何やらきょろきょろしていた。それから、ひくひく鼻を動かした。
それに気付いたらしい朝香が首をかしげる。
「アカリ? どうかした?」
「んや……ちょっと気になる匂いがすんな。おい女」
「その呼び方やめてくれる?」
ユウは顔をしかめたが、明はスルーだった。
「朝香を助けてやってくれや。こいつ一人じゃ何も出来ねぇからよ。オレぁちょっとこの家の周りをうろつく。いいか朝香?」
「構わないよ。あまり人様に迷惑をかけないようにね」
ユウの入る間もなくとんとんとで話が進む。明は「わーってるよ」と答えて、門の中に消えてしまった。その背中を視線で追って。
「……いいの? あれ」
「いいんじゃないかな。アカリの声は他の人には分からないし、『やんちゃな犬』で許されるよ」
朝香もそこそこ適当だった。
生前の記憶はないが、普通であればユウは霊感のない人間だったはずだ。今こうして明の声が聞こえるのは、自分が幽霊だからだろうか。
家の人間がもう一度顔を覗かせ、「どうぞ」と声をかけてくる。朝香はぺこりと頭を下げた。静かに閉まっていくドアを見送った後、朝香は家を仰ぎ見る。もちろんその姿は、目には映っていないのだろうが。
カメラの調整は手癖でやっているのか、さっさと何やらカメラに触っている。
「早速だけど、ユウ。どの辺で撮るのが良さそうか、教えてもらってもいいかな?」
「私が選ぶの?」
「いつもはアカリや、そこにいる人に教えてもらってるんだ」
「なるほどね」
写真を撮る場所は指定してもらって、朝香はシャッターを切るだけ、ということか。ユウの考えを察したのか、朝香は困ったように笑った。
「自分の生業を人任せにしているなぁ、という自覚はあるよ」
「あぁいや……」
人のためを思って自分の足でここまで来ていること、それだけで十分だ……と思う。が、それを口に出すとフォローが変にねじ曲がって下手な気遣いになってしまうような気がしたので止めておく。
誤魔化すようにふより漂って、家の塀の周りをまわった。灰色、コンクリートの絨毯にちらほら花弁。その桃色を見ると、春だなぁと、何となくそう思った。甘く爽やかな香りが鼻に触れて、自分に嗅覚があることを思い知らされる。どうやら自分に無いのは「触覚」だけだということは、幽霊になって二か月漂って分かっていることだ。
一般的な三角形の屋根を仰ぐ。二階のベランダが少々広いようだ。そこに例えば、小さなテーブルを置いて。水筒、サンドイッチ……並べたらミニピクニックでも出来そう。ありふれた家族の幸せを想像して、ユウは無意識に微笑んでいる。
「元いた家を撮ってきてほしい」と依頼するくらいだ。きっと、前の家族もここの家でたくさんの幸せを過ごしたに違いない。温かい家だ。
写真を撮る、なんて目的でもなければ、ただの家をこんなにしげしげと見つめることはないだろう。景色の向こうにある感慨を得て、少しユウの心は温かくなった。
「朝香、こっち来て」
「こっちってどっち?」
あぁそうだった。
ユウは苦く笑って、朝香の元へと漂う。
◇◇◇
(まるで……木、みたい)
カメラを構えた朝香の隣、ユウはそう思った。
かしゃ。シャッターが切られる。
肩幅より少しだけ開いた脚。そこに根を張るようにしっかりと安定した姿勢で立っているが、何だかしなやかで、ゆったりとしているようにも見える。
肩の力を抜いて。
ここに流れる空気に身を任せて。感覚に乗せて、カメラを構えている感じ。
(木……というより花かしら)
風に揺れる花。
朝香はシャッターを切る度、臨機応変に片足をずらしたり、背中を逸らしたり。吹く風に柔らかく対応する花のようだ。
何も見えていなくとも、その景色を優しく捉えている。
人差し指ひとつ、その一点に今、世界が集結しているのだと思うと。
背中がピリピリとして、熱い、不思議な感覚だった。強く、撮影する彼自体が一枚の写真のように、引き込まれてしまう。
「……うん、このくらいでいいかな」
呟いた、朝香の声で我に返る。シャッターの音を聴く限り、十枚は撮っただろうか。
朝香はカメラの画面を見つめる。もちろん見えていないのだろうから、チェックは出来ないだろう。改めて、目の見えない人間がカメラマンをすることは大変なことに思う。
ユウはカメラを隣から覗き込む。代わりにチェックするためだった……が、そこに液晶画面は無かった。
朝香はユウの方にしっかりと顔を向けて、苦笑いをこぼす。幽霊だけは、やはり空気だけで捉えているらしい。
「撮った写真を、確認出来たりしないのね。全く気付かなかったわ」
「フィルムカメラ、だからね。現像するまでどんな写真が撮れたか分からないんだ。どっちにしろ僕は確認が出来ないから、それほど困ってない。最初の内は、写真がボケるわフィルムの扱いを間違えるわで大変だったけれど」
くすっと朝香が口元を緩ませる。そして、ふと思い立ったように「そうだ」と呟いた。
「ユウなら、霊的な存在だから視えたりするのかな」
「え?」
「少し、失礼」
「な、なに……?」
朝香はカメラを持ち上げ、ユウの額にそっとくっ付けた。思わず、目を瞑る。
その瞼の裏に。
静止画のような家の風景が、次々と浮かんできた。
「え……!? なに、これ」
「あぁ、視えた?」
「視えた……って、これ、今撮った写真?」
驚いてすっかり目を開けたユウ。目を開けても、脳裏には家の……写真が浮かんでいる。そう……目の前で見ている景色とは別の景色を、脳内で思い出し、浮かべているような、そんな感覚だった。視覚情報と、脳内の景色が食い違っていて混乱してしまう。再び目を瞑った。
「どうして? どうして、写真が浮かんだの? ……このカメラにも、何かいるの?」
「まぁ、そんなところかな。それより、写真はどう?」
朝香が尋ねる。と、同時、ふっと脳内に浮かんだ写真が消えた。ユウは目を開ける。
突然のことに驚いたが、写真自体はとても素敵なものだった。今度は自ら、頭の中で写真のことを思い浮かべる。
「……そうね、大丈夫だと思うわ。ボケていなかったし……」
──あったかい風景の写真は、温かさがそのまま映るかのようだ。十数枚の内の一枚、ユウが気に入っているのは二階ベランダが中心に映っている写真。家族の談笑が聞こえてきそうな空気感が伝わってくる。
思わず、そっと透けた指でカメラを撫でた。
「温かい感じもする。きっと気に入ってもらえる……と、思うわ」
「そう。感情が見えてくる写真が一番だからね、それなら良かったよ」
朝香はふわっと笑った。優しさをたたえながら、それでいて、どこか他人事な。そう。きっと朝香にはあの写真から湧き上がる「感情」を少しも受け取ることが出来ないのだ。
それは、少しだけ寂しい。
当人ではないから、そう思うだけなのか、それとも。
「……ねぇ、目が見えなくて写真なんて、色々リスクもあるでしょう。仕事なら他にもあるでしょうに、どうしてこの仕事を?」
ユウの問いに、朝香は小さく息を飲んだ。しかしそれから、穏やかに髪を揺らして、また微笑む。いつも微笑みを絶やさない、その口元。そこに少しだけ、ほどけないりぼん結びのようなもどかしさを感じた。それは、ユウのもどかしさか、朝香のもどかしさ、なのか。
朝香が口を開く。
「朝香!!」
ワンワン!! と吠える犬の声があった。閑静な住宅街に響き渡るくらいの声量で、ユウは思わず顔をしかめる。ご近所迷惑だ。
「あの犬、もう少し静かに呼べないの……?」
朝香を見ると、先ほどの哀愁は無くなっていて、そこには楽しそうな顔があるだけだった。
行こう、と言う朝香の後を追う。声の場所はどうやら玄関先のようで、家の周りを囲う石垣を回っていくと、玄関の扉の前に明が堂々たる様で座っている。ここで吠えたのか。さぞこの家に迷惑がかかったに違いない。
「朝香、分かったかもしんねぇぞ」
「アカリ、あまり大声で吠えたら駄目だよ。……で、何が?」
朝香の静かに問いかける声に、明は得意げに返した。
「あの心霊写真の正体が、だよ」
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