【1-完】

 責めるような口調でもなく、事実を淡々と述べるような口調でもなく、諭すような口調で彼はそう言った。足元で、なぜか得意げな明がまたふんと鼻を鳴らす。

 石は『!』と一度息を飲み……黙り込んでしまう。この石自身「何も知らない」と言ったように、本当に意識的では無かったということか。

「あぁでも、生きてはいませんから生霊ではなく……いわば思念、でしょうか。心のどこかで、彼らが引っ越したことを感付いていた貴方は、きっと『自分もついていきたかった』と強く思ったのでしょう。それが、写真に写ってしまったんじゃないでしょうか。もちろんそれが悪い、ということではありませんよ。それくらい、あのご家族を愛していらっしゃったんですもんね」

 ゆっくりと、石に手を伸ばした朝香は。

 その表面に触れて、そっと撫でた。ごく普通に、人が人にするのと同じように。それは「よくやった」と、子どもを褒めるようでもあった。

 石からは、すん、と無い鼻をすするような音がする。

『…………僕は……僕は、知らない内にあなたや、「写真を撮りたい」と写真館に訪れた僕の大好きな家族に迷惑をかけていたの、ですね……』

 後悔と、寂しさが混じった声だった。ごめんなさい、と呟く声があった。涙交じりに繰り返されていく、その言葉に胸が詰まる。

 少し、少し片思いが過ぎるけれど、この石が、言葉は通じずともあの家族を好きでいたことは事実なのだ。写真に思いが映りこんでしまうくらいには。

『ごめんなさい……』

 石が、ただ一人で泣く時間が通り過ぎていく。彼もきっと分かっている。今更庭石である自分が、彼らの引っ越し先についていくことは出来ないと。石がこれほどの思いを持っていると信じてもらうことは難しいだろうし、何より家族にとって石が「必要」であればとうに引っ越し先にも置いているのだろうから。

「……僕は、思うのですけどね」

 ぽつり、と語り出したのは朝香だった。石から目を逸らして、一軒家の屋根、そしてその先に広がる春の青空を仰いでいる。

「あのご家族は、わざわざこの家を撮るため僕に代行の仕事を依頼しました。……それは、貴方の知る温かい大切な思い出が、あのご家族にもあるからだと思います。そうでなければ、引っ越し前の家の写真なんていらないでしょう」

『……温かい、思い出』

「写真に撮るとは、残すこと。『残したい』と思える価値に出会うことは、実はとても大変なことです」

 にこっとカメラを構えて、一枚。

 笑うことも泣くことも出来ない、何の変哲もない石の写真を、朝香は撮った。

「確かに貴方の思いは片方矢印だったかもしれませんが、その価値を共通で見つけられたこと、そのことに意味があると僕は思います。……あくまで人の、僕の意見ですが」

「まぁそれに、寂しいだろうがな、この家を見守っていけるのは、お前やオレみてぇなモンの特権だと思うぜ」

 朝香の話を聞いていた明も口を開く。

 明は、寂れた神社の元狛犬、だったか。朝香に出会うまで、寂れた場所をずっと見守り続けていたのだろうか。その、ゴールデンレトリーバーの琥珀色の瞳に、長い「時間」を感じる。

『特権……ですか』

「その動けねぇ体じゃ、まー何も出来ねぇだろうが。……だが、たった少しの時間に触れた家族を愛せたんだ。これからもここに住み移り変わっていく住人をまた愛していくことが、慰みにも幸せにも繋がンだろ」

 石は、黙り込む。

 もちろん、石にとってはあの家族が「唯一」だったに違いない。

(……そう思うと……)

 やはり悲しい。石の話を聞いて、朝香や明のようにうまく声をかけられないユウはそう思う。ユウだって、幽霊になってこういう声を聞かなければ全然気にもしなかったこと、だけれど。

 逡巡したユウに対して、石は二人の言葉を飲み込むように黙り込んでいた。

 柔らかい春の風が、夕方を運んでくるように一度吹く。

『……すぐには、難しいかもしれませんが…………そうですね』

 やがて、彼は口を開いた。

『僕は、幸せな思い出のつまった、この家を見守っていこうと思います』

 表情は見えなくとも、それはとてもしっかりとした声色だった。真っすぐと前を向いた、固い意思。

 ふっとその場の空気も緩む。それは庭石である彼が、微笑んだからに思われた。

 すると、ふとカチャリと控えめに、玄関のドアが開いた。

「……あ、どうも~」

「あ、すみませんこんな玄関先で。そろそろ帰りますので」

 玄関から顔を覗かせたのは、三十代ほどの女性だった。その手には、エコバッグが握られている。朝香の言葉に、女性は「いえいえ」と首を横に振った。

「これから幼稚園のお迎えついでに、買い物へ行くんです。気にせず、いてもらって構いませんからね」

「ご親切に、ありがとうございます」

 女性は、誰もいない家の中に向かって、「行ってきます」と呟くように告げた。それから、ドアの鍵をしっかりしめて、橙色に溶け始めた空へ歩いていく。

『行ってらっしゃい!!』

 ユウたちの足元で、そう答える、一つの存在があった。


◇◇◇


「さっきの質問の答えだけれどね」

「?」

 その帰り道。

 朝香と、ハーネスに繋がれて悠々と盲導犬を熟す明、それからユウの三人で並んで歩いていた。単位を「人」とするには、少々異質過ぎるけれども。

「何で、この仕事をしているか、って話」

「あぁ……何か言いにくい理由があるのなら、言わなくても良いのよ」

 ゆっくりと、朝香は首を横に振った。その表情が、わずかに寂しさをはらんでいる……気がする。そう、先ほども見た、もどかしい感情の、表情。朝香の瞳は、開くことが無い。その「目が開かない」理由が、「その奥にあるものを隠したいから」だと、なぜか今はそう感じられた。春の夕暮れの寂しさが、そう思わせただけなのか。

「……写真は、そこにいなくても世界を覗くことが出来るものだろう?」

「……」


「僕は、世界を見ることが出来ない誰かのために、色々な世界を見せてあげたいんだよ」


 それは、一見ごく普通でシンプルな「理由」に思えた。

(でも、なぜかしら……)

 ユウは朝香の表情を眺めながら。

(その「誰か」に、特定の何かを滲ませているように感じるのは……)

 それが目の見えない朝香の役割。朝香本人こそが「世界の見えない」人間であるはずなのに。二人の足元にいる明はちらっと視線だけユウに寄こした。が、何も言わない。

 これ以上、ユウも深入りする気は無いが。

「……そう」

 区切りを付けるように、そう言ってから。

「ねぇ、しばらく私、あなたたちの所にいてもいいかしら」

「は!?!?」

「あぁ、僕もそう提案しようかなと思っていたよ」

「はぁ!?!?!?」

 事を進める人間と幽霊に対して、吠える犬(狛犬)が一匹。

「朝香!? オレは許さねぇぞ!!」

「何でよ。私は幽霊だし、生活上で迷惑はかけないわ」

「存在が迷惑だ!!」

「ほんとアンタ失礼な犬ね。さっきは良いこと言うなと思ってたのに」

「犬じゃねぇぇぇぇぇ!!!!」

「どうどう」

 やはり言い合いの絶えない二人に、朝香が割り入る。もう既にこれが恒例化したようだ。朝香に気苦労を負わせないかという点だけ、たった今不安になった。

「アカリ、ユウは記憶が無いみたいだし。いさせてあげてもいいんじゃない? ユウ、あんまりアカリを弄らないであげてね。仲が良いのは良いことだけど」

「「良くない」」

 三人の道の先に、写真館が近づいてきた。

 そよ風すら包み込んでしまうような、静かな建物。そこに新たな賑やかさが加わることを、優しく待ち構えているかのようだった。




《家族と心霊写真・終》

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