第2話 平安時代

 黒縄地獄というところがある。

 対象は生前に間違った法を説いた者、崖から投身自殺した者。燃える黒縄に縛られて、計り知れないほど高い崖の上から鉄刀が突き出す熱した地面に落とされる。その上で燃える牙を持つ犬に食い殺される。黒縄地獄にありながら、落ちる条件は「盗み」ではなく「嘘」や「邪見」にあたるのだが、理由は不明。


 建久元年(1190年) - 源頼朝上洛、権大納言・右近衛大将となる。


 同じ頃、奈良で左衛門さえもんって男が仲間からイジメられて崖から飛び降りて死んだ。

 辛い思いをしたのにまた辛い経験をしないといけない。燃える牙を持つ犬に食い殺され、再び地獄にやって来た。

 閻魔に「ここから出たいか?」と聞かれた。

「出る方法があるんですか?」

「妖怪を5匹倒せ」

 左衛門は『かなつぶて』という話を思い出した。

 かなつぶては、大和国奈良坂で金礫という武器を使って人々から略奪を働いたという化生の者。金礫、金飛礫とも。平安時代末期の治承3年(1179年)頃に平康頼が記した仏教説話集『宝物集』の中で鈴鹿山の立烏帽子と並んで奈良坂のかなつぶてという盗賊が処刑されたことが記されている。


『宝物集』で記された金礫の説話が御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』などの田村語りに採り入れられると、金礫を打つこの化生の名前として、こんざう、りゃうせん(りょうせん)などがみえる。『田村の草子』によるあらすじは次のとおりである。


 大和国奈良坂に金礫を打つりょうせんという化生の者が現れて都への貢ぎ物や多くの人の命を奪ったので、帝は稲瀬五郎坂上俊宗に鬼退治の宣旨を下した。俊宗は500騎の兵を連れて奈良坂へと向かい、良い小袖を木々の枝に掛け並べてりょうせんを待った。すると背丈が2丈(約6メートル)もある異様な風体の法師が現れ、並び立てた着物を置いていけと大笑いする声が聞こえた。俊宗が着物を渡すわけにはいかないというと、法師は三郎礫と名付けられた金の礫を打ち、俊宗は扇で落とした。続けて次郎礫が打たれるが、これも俊宗に打ち落とされ、最後に太郎礫を打つも鐙の端で蹴落とされた。りょうせんは山へと逃げはじめるが、俊宗が三代に渡って受け継いできた神通の鏑矢を射放つと7日7夜に渡ってりょうせんを追い続け、りょうせんはついに降伏する。りょうせんを捕縛した俊宗は都へと凱旋して御門に閲覧し、りょうせんは船岡山で処刑されることとなった。その首は8人ががりで切り落とされて獄門にかけられ、行き交う者たちにさらされた。


『田村の草子』では、りょうせんが金礫を打つ腕前は唐土にて500年、高麗国にて500年、日本で80年、奈良坂で3年かかって磨いたものであったという。また太郎礫、次郎礫、三郎礫という3つの金礫を使い、太郎礫は600両の金を使い山を盾にしようとも微塵に打ち崩してしまうほどの金の礫で、三郎礫は300両の金の礫である。


 平 康頼たいらのやすより(久安2年(1146年)? - 承久2年(1220年))は、平安時代の武士。信濃権守・中原頼季の子。官位は六位・左衛門大尉。後白河法皇の近習として北面に仕える。平判官入道と称された。


 明経道の家柄である中原氏に生まれる。十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となる。保盛は長寛元年(1163年)越前国の国司に任ぜられているが、18歳の康頼も越前国に派遣されて、この頃に主君から平姓の賜与を受けたと思われる。保盛は仁安元年(1166年)尾張国の国司に転任し、康頼を目代に昇格させて派遣した。


 尾張国知多郡野間荘には平治の乱で敗走の途中に相伝の家人であった長田忠致によって湯殿で非業の死を遂げた源義朝の墓があったが、誰も顧みる者もなく荒れるに任せていた。もちろん、国司・保盛の許可を得てしたことであろうが、康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田30町歩を寄進した。この噂は京にも伝わり後白河上皇の耳にも達して、平康頼なる人物は目代ながら、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者との深い印象を与え、近習に取立てた。また清盛はじめ平家一門の人々からも、敵将の墓を修理して保護した康頼を、武士の鑑として一門の名を高めたと好評判であった。任官と同時に上皇の近習にとり立てられ半月もたたない仁安4年(1169年)1月に行われた、後白河上皇12回目の熊野参詣には、早くも近習として供を命ぜられている。また嘉応元年(1170年)4月に後白河上皇は平清盛と同伴で東大寺に参詣したが、康頼を含む7人の衛府役人が随行している。また、後白河上皇は今様を非常に愛好し、多くの公家や官人にも教えていたが、康頼も門弟の一人で、美声で声量もあり抜きん出た歌い手であった。その点でも、上皇から特に目をかけられていたようである。承安4年(1174年)北面の武士から検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称した。


 安元3年(1177年)6月に康頼は藤原成親・西光・俊寛らとともに鹿ケ谷の山荘での平家打倒の密議に参加。しかし、多田行綱の密告により策謀が漏れて康頼も捕縛され、俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された(鹿ケ谷の陰謀)。康頼は配流途中の周防国室積で出家入道し性照と号した。信仰心が厚く、もっと早く出家しなかったことを悔やんで、以下の和歌を詠んでいる。


 🔖つひにかく 背きはてける 世の中を とく捨てざりし ことぞくやしき

 

 配流先で京を懐かしむ日々の中、康頼は成経と熊野三所権現を勧請して帰洛を願ったという。また、成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の歌2首を記し海に流すことを思い立つ。


 🔖薩摩方 沖の小島に 我ありと 親には告げよ 八重の潮風

 🔖思ひやれ しばしと思ふ 旅だにも なほ古里は 恋しきものを

 一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。治承2年(1178年)に赦免船が来島し、成経と康頼は赦免され京へ戻るが、俊寛は許されなかった。帰京後、康頼は伯母が尼となって身を寄せていた東山の雙林寺で、仏教説話集『宝物集』を編集執筆する。


 平家滅亡後、文治2年(1186年)かつて源義朝の墓を整備・追善した功により、源頼朝によって康頼は阿波国麻殖保おえのほの保司に任ぜられた。 康頼は京より3人の家人を伴い森藤の地に下向した。康頼はすでに41歳になっていた。


 承久2年(1220年)頃に康頼は自らの生涯75年間におきた出来事を記録し、一通を京都の雙林寺へ送り、一通は玉林寺に残し、その年に大往生した。方一丁の土地通称一町地で火葬される。遺言により、家人の鶴田氏が康頼神社を建て主君を神として祀り代々祭司を務めた。康頼神社の脇に墓がある。遺骨は分骨されて、京都東山の雙林寺にも埋葬された。康頼神社の脇に三基の五輪塔があるが、康頼の母、康頼、俊寛の3人のものという。清盛の怒りが解けず、鬼界が島に一人残された俊寛は、数年後に都から、はるばる訪ねて来た弟子の有王の世話をうけながら、自ら絶食して生命を絶った。有王は主人を火葬して骨を持ち帰り、高野山に埋葬したが、康頼はその分骨をゆずり受けて、壇の下に葬ったとも言われている。


 地獄の街を左衛門は彷徨い歩いた。

 左衛門はある妖怪を思い出した。

 加牟波理入道かんばりにゅうどうという厠に現れる妖怪だ。確か、口から鳥を吐く入道だった。

 厠にやって来た。

 左衛門は入道の吐き出す烏に啄まれて死んだ。

 骸骨と化していたので簡単に死んだ。

 再び閻魔のところにやって来た。

 弓矢を渡された。

 厠の前で待っていると入道が現れ、またもや烏を吐き出した。

 烏を矢で射抜いた。

 が、入道に食い殺された。

 3度目は入道を射抜くことが出来た。

 😈残り4匹

 

 

 

 

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悪逆輪廻 鷹山トシキ @1982

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