夏のバタフライ効果

瑞木ケイ

周回する、七月

 目が覚めて、ぼくは真っ先にスマホに手を伸ばす。スマホの画面は七月七日の午前五時三十二分を報せていた。


 ああ、また七月七日だ。


 いったいこれで何度目だろうか。五度目のループを数えたあたりでカウントはやめてしまった。もうため息さえ出てこない。

 学校に行く準備をしなくちゃ。

 そう思っても、身体は動かない。もうベッドから起き上がる気力すら残っていなかった。


 サボってしまえ。どうせまたループするんだ。今日ずる休みしたところで、結局何も変わらないんだ。

 なら、学校に行くだけ損だ。

 ぼくは二度寝しようと目を閉じた。疲れているはずなのに、なかなか眠気はやってこなかった。





 学校をサボりはじめてから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 その間、ぼくはずっと部屋に引きこもっていた。何をするでもなく、ベッドに横たわったままぼうっとしていた。

 両親がとても心配しているのはわかっていた。

 今まで真面目に学校に行っていたぼくが、急に引きこもってしまったのだから、その心配も尤もだと思う。


 けれど、これはどうしようもないことなんだ。

 ぼくひとりの力ではどうすることもできない、それでいて他の誰にも相談できない問題なんだ。


 ぼくがずっと同じ七月をループしているなんて、いったい誰が信じてくれるだろうか。


 時折お母さんに外出を勧められることがあった。ずっと部屋に籠っているぼくに、外の空気を吸ってみたらどうかと言う。学校に行けとは言わなかった。

 とても外に出る気分じゃなかったけど、あまりお母さんに心配かけ続けるのも気が引けた。

 気乗りしないまま着替えて、久しぶりに家から出た。

 外の眩しさに、思わず顔をしかめる。

 空はぼくが思っているよりも青かった。どうしようもなく、夏の色だった。


 ぼくは一歩を踏み出した。

 どこへ行こう。どこへ行く当てもない。でも、ずっと家の前にいるわけにもいかないだろう。それなら部屋から出た意味がない。


 どこか、ここではないどこかへ。


 学校の方や街の賑やかな場所は嫌だ。なるべく見知った人がいない場所がいい。静かな場所へ行こう。そうすると選択肢はそんなに多くない。

 そんなことを思いながら、ただ足を進めていく。

 俯いて歩いていたのがいけなかった。ぼくは前から歩いてくる人影に気付くのが遅れた。



あゆむ?」

 名前を呼ばれ、ぼくは顔を上げた。

 そこにいたのは、ぼくが今一番会いたくなかった人だった。

「……どうして」

 彼女がここにいるのだろう? 学校は?

「どうしてはこっちのセリフだよ。ずっと学校休むし、何かあったのかと心配してたんだから」


 そう言う彼女は、確かに陽葵ひまりだ。ぼくの幼馴染の楠木くすき陽葵。幼稚園の頃から一緒で、高校になってもずっと同じクラスを更新し続けている腐れ縁。


 そしてぼくが同じ七月を繰り返すきっかけになった女の子。


 彼女にだけは、会いたくなかった。



「ちょうどよかった。溜まってたプリントを持ってきたの。ついでに授業のノートも写させてあげるからさ。ここで立ち話もなんだし、今から歩の家にお邪魔していい?」

 陽葵はいたって明るい調子で話す。いつも通りの彼女だ。そのことがうれしい……はずだ。


「ほらほら。ぼうっと突っ立ってないで、行こっ?」

 そう言って陽葵はぼくの手を取った。

 その手を、ぼくはとっさに振りほどいた。

 彼女はとてもびっくりした顔でぼくを見ていた。


「ど、どうしたの……? わたし、何か気に障ることしちゃった?」

 陽葵の声は震えていた。何とか笑おうとして、全然うまくいかないといった表情をしていた。そんな顔をさせたのは他でもないぼくだというのに、なぜか心はさざ波ひとつ立たなかった。



「彼氏は?」

「へ?」

 きょとんとした彼女の顔を見て、ぼくは「おや?」と首を傾げる。


「陽葵、最近彼氏ができたんでしょう? ぼくに構う必要なんてないから、彼氏のことを――」

「ちょっと、ちょっと! 何をどう勘違いしたのかわからないけど、わたしに彼氏なんていませんからね?」

「え?」


 そうだっけ?

 確か、数ループ前から陽葵に彼氏ができるようになったはずだけど。

 今回は違うのだろうか。もう何がどう影響して一ループごとに差異が生まれるのか、ぼくにはわからない。

 バタフライ効果なんて、ループを経験してから知った言葉だ。



「もう。誰にどんなでまかせを吹きこまれたのか知りませんけど、わたし、生まれてこの方彼氏なんてできたためしはありませんよ」

 そう言ってなぜか陽葵は安堵したような表情を見せた。


「もしかして、歩が不登校になった理由ってそれだったりする?」

「それって?」

「だから、わたしに彼氏ができたとかなんとかって噂。幼馴染に恋人ができて傷心してしまったとか?」


 陽葵はうれしそうに笑う。

 なんだか久しぶりに見た気がする。彼女がそうやって笑っているところを。ぼくに対して笑顔を向けてくれるところを。


「ねえ、陽葵。今日は何日だっけ?」

「うん? 二十一日だけど」

 それがどうしたの? と陽葵は不思議そうに小首をかしげる。

 ぼくは駆け出した。

 後ろで陽葵が呼び止める声が聞こえたけど、ぼくは止まらない。


 七月二十一日。


 今日、楠木陽葵は死ぬ。

 そしてぼくはまた、七月七日へと戻る。

 この繰り返し。



 ぼくは走った。走って、叫んで、走った。

 そしていつの間にかたどり着いた先は、神社だった。小さな神社だ。ぼくの他に誰もいない。

 ぼくは膝に手をつき、乱れた息を整える。久しぶりに全力疾走した気がする。おかげで身体はくたくただった。


 もう疲れた。



 楠木陽葵は交通事故で死んだ。

 はじめて陽葵が死んだ時、ぼくは願った。時が巻き戻ればいい、と。そしてそれは叶った。

 非現実的で、リアリティのない話だ。

 誰が叶えたのか知らないけど、ぼくは確かに時を遡った。そして彼女が死なないように行動した。でも、駄目だった。何をしても裏目に出た。ある時は階段から転げて死に、ある時は通り魔に刺されて死んだ。

 ぼくがどう行動しても、七月二十一日に陽葵が死ぬ結末を変えることなどできなかった。


 これが罰だと言うのならば、これほど効果のある拷問はないだろう。


 もういいだろう。いい加減にぼくを開放してくれよ。

 いつの間にかぼくの心は擦り切れた。

 陽葵の死を前にしても動揺することもなくなってしまった。ああ、またかと落胆するだけだ。その落胆は彼女が死んだことへの悲しみのためではなく、同じ日々を繰り返すことへの疲労のためだった。


 もしここでぼくが死んだら――


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 それはとてもいい考えのような気がした。


 そうだ、陽葵が死ぬ前に、ぼくが死ねばいいんだ。


 なんだ。簡単なことじゃないか。

 どうして今までこんな単純なことを思いつかなかったのだろう。これほど冴えた解決法なんて他を探してもなかなか見つかりっこない。


 ぼくは周囲を見回した。何でもいい。何かうまく自分を殺す手段はないだろうか。でも、なかなか凶器になりそうなものは見つからない。

 どうしよう。早くしなければ、陽葵が死んでしまう。


 ぼくは鳥居のところに立った。見下ろすと、急勾配の階段が目に映る。

 ここから飛び降りれば、死ねるだろうか?

 わからない。でも、やってみる価値はある。どうせ失敗しても七月七日に戻るだけだ。戻ったら部屋に刃物くらいはある。すぐにでも死ぬことはできるだろう。


 だから、飛んだ。


 すぐに地に墜ち、急な階段を転げ落ちていく。そして、ぼくは道路に投げ出されて止まる。

 朦朧とする意識の中で、陽葵の声を聞いた気がした。

 ああ、よかった。

 彼女はまだ生きている。


 どうか陽葵に、素敵な明日がありますように――





 目が覚めた。ぼくは真っ先にスマホに手を伸ばそうとして、その時身体に激痛が走ってうめき声を上げた。


「歩っ!」


 陽葵の声が、はっきりと聞こえた。

 彼女がぼくの顔を覗き込む。陽葵は泣いていた。ぽろぽろと、彼女の大粒の涙がぼくの顔に落ちてくる。

 ぼくは割と混乱していた。

 目が覚めたのだから、今日は七月七日なのだろう。でも、それならここに陽葵がいるのはおかしい。



「もう! 心配したんだから! でもよかった。歩が生きててよかった!」

 そう言って彼女はぼくの胸に顔をうずめた。

 ぼくは痛みで身体をうまく動かせないでいたけど、これだけは聞いておきたかった。


「ねえ、陽葵。今日は何日?」

「二十二日だよ」

「……そっか」


 ああ、ぼくはループを乗り越えたのか。

 陽葵が生きていて、それでついでにぼくも生きている。身体は死ぬほど痛いけど、どうやらぼくたちには明日があるらしい。



 ああ、それって――これはいわゆる、ハッピーエンドってやつじゃないだろうか?


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏のバタフライ効果 瑞木ケイ @k-mizuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ