一夏の病

花端郭公

一夏の病

 夏の、真っ白い日差しに目を細める度に、中学一年生の夏のことを思い出す。あの夏は今まで生きてきて一番暑かった夏で、これからもきっと一番暑い夏であり続けるはずだ。そう思えるほどに暑い夏だった。これから話すのはあの夏休みのお話だ。

 と、このままあの夏について語るのも良いがその前に少しだけ彼女の事と、僕らの関係の事について語っておこうと思う。

 彼女は小学五年生の時に、この町に引っ越して来た。この小さな町には小学校がひとつしかなくて、彼女は必然的に僕が通っていた小学校へ編入してきた。彼女が来て、最初の頃はクラスどころか学校中から注目の的になっていた。わざわざ別の階から彼女の元までやって来て話しかけるようなやつまで居たほどだった。

 しかし、この町で生まれ育ってきた、元気が有り余っている彼らと、静かで落ち着いていた彼女とは何もかもが正反対で、一カ月もたたない内に彼女に話しかける人は居なくなっていてた。彼女は彼女で彼らと一緒に過ごすのは居心地が悪かったのか転校してきてからそれほど時間がたたない内に図書室にこもるようになった。

 そんな彼女と初めて出会ったのはその年の秋頃だったと思う。その当時、図書委員だった僕はいつものように図書室の貸し出しカウンターの中で読書に勤しんでいた。あの日も、いつもの様に誰も来ないまま下校の時間になった。夕暮れに染められた図書室で閉館の用意をしようと椅子から立ち上がろうとすると珍しく扉が開いた。入ってきたのは細く、華奢な女の子だった。この町では珍しい日に焼けていない真っ白な肌、長く伸ばした黒い髪は彼女をより一層ミステリアスな物にしていた。そんな彼女の風貌と、普段なら一切来ない来客に驚いて、僕は思わず

「えっと……どうされました?」

 と彼女に声をかけてしまった。僕の声に彼女はビクリと肩を震わせるとこちらに目線を向けた。

「……その、太宰治の本ってありますか?」

「えっと……こっちの棚です」

 このぎこちなく、あまりにも不自然な会話が僕と彼女との初めての会話だった。

 この日から彼女は毎日欠かす事なく、図書室へ訪れるようになった。最初の頃はお互いにぎこちない会話しか出来なかったけれど、少しずつ打ち解けあっていき、その年が終わる頃には好きな本について互いに語り合うような仲になっていた。こうして僕と彼女は友人と呼べるような関係になった。

 話を戻そう。その暑い夏休みは

「せっかくの夏休みなので一緒に遊びませんか?」

 という言葉から始まった。本の虫だった僕らにとってあの肌に刺さるような日差しと馬鹿みたいな蒸し暑さはまさに天敵だった。事実、これまでの夏は暑さから逃げるように町の図書館で本を読んでいた。けれど、その時の僕は暑さで頭のネジが吹っ飛んでいたのだと思う、いつもなら暑いという理由だけで断ってしまうような彼女のその誘いを深く考えることもなく

「いいよ」

 とだけ返事した。こうして僕らは夏の世界へと繰出していくことになった。


 その翌日から僕らは毎日のように外へ繰り出した。朝九時、約束の時間に近所の公園で落ち合う。そのまま僕らはこの町で数少ないお店の一つである駄菓子屋へと向かう。町中の子供たちから「ばーちゃん」と呼ばれていた駄菓子屋の店主と挨拶をして店の中からその日のお気に入りをさがしだす。中学生の少ないお小遣いをなんとか遣り繰りしながら買ったアイスの当たり外れだったり、おまけで入っているシールや玩具なんていうくだらない事で一喜一憂していた。当時の僕らにとってはそんなくだらないことがまるで、世界を変えてしまうような重大なことに思えて仕方がなかった。そうして手に入れたアイスや駄菓子を片手に照りつける日差しの中、自転車を走らせた。僕らは大した目的も無く町の中を巡った。ある日は遠くまで行こうと言って日が暮れるまでずーっと自転車を走らせたり。また、ある日は暑さに耐えかねて海へ涼みに行ったり。とにかくその日、思い付いたことを何も考えずにそのままやった。その夏、彼女は好んで神社の裏の奥にある御神木へと向かった。木陰のおかげで少し涼しく木の下で僕らはよくどうでも良いことを駄弁って居た。

 その日の昼下がり。僕らは何かをする訳でもなくその大きな木の下で駄弁って居た。なんて事のない会話の後で彼女は少し悩んだ後で終業式の日と同じように僕のことを誘った。

「明日の夏祭り……一緒に行きませんか?」

 その誘いの僕はあの日と同じように

「いいよ」

 とだけ返した。


 翌日、彼女は午後六時を少し過ぎてから待ち合わせ場所の公園にやってきた。

「浴衣、近所のおばちゃんに着付けてもらったんだけど……どうかな?」

 そう言ってその場でくるりと一周、回って見せてくれた。彼女の細い体躯に浴衣の花が映えて、妙に艶かしく見えた。

「……似合ってると思うよ」

 僕がぎこちなく返すと

「そっか、ありがとう」

 と言って顔を隠すように彼女はそっぽを向いてしまった。それから夏祭りの会場までの数十分はお互い黙って歩いて行った。

 会場の通りは町中の人でごった返していて、僕らは人波に揉まれながら色々な屋台を巡っていった。綿飴やりんご飴、たこ焼きに焼きそば、金魚掬い、射的――とにかく目についた屋台は周れるだけ周った。そうして、夕暮れに染まっていた空がすっかり真っ暗になった。その頃には僕たちは疲れてしまって神社へ上る石段の途中に腰かけて休んでいた。腕時計が指す時刻はちょうど夜の八時。突然、夜空に大輪の花が咲いた。それに続いてひとつふたつと色とりどりの花が夜空で開花する。毎年のように打ち上がる花火だけれど、彼女と一緒に見ている花火はこれまでのどんな花火よりもきれいに感じた。花火を見ていると無意識のうちに彼女のほうへ手を伸ばしていた。その伸ばした僕の右手は彼女の左手と触れ合う。僕らは示し合わせることなくその手をつなぐ。色とりどり、たくさんの花火と、彼女の左手の仄かな温かさ。そこにあったのはその二つだけだった。ふと、彼女が口を開く。その刹那、これまでで一番の大輪が空を彩る。彼女が発しようとしていた言葉はその花火の破裂音によってかき消された。その大きな大きな花火は空を明るく照らして、そしてその花を散らした。

「さっき、何を言おうとしてたの?」

 そう彼女に問いかけたけれど

「なんでも、ないの」

 そう言って彼女はそっぽを向いてしまった。そうこうしている内に祭りは終わった。別れ際に、公園で彼女は

「また明日」

 とだけ言って帰って行った。

 その次の日、彼女は約束の時間を過ぎても公園に現れなかった。違和感を感じながらも門限まで公園で待ったけれど結局彼女が僕の前に姿を表すことは無かった。

 町が夕焼け色に染まり、防災無線から夕焼け小焼けの音色が聞こえてくる。門限の時間が近づき、家へ帰るとパトカーが止まって居た。家の中に入るとどこか険しい顔をした大人たちが待ち構えて居た。何が起こったのか、考える間も無く僕のもとへと訪れた警察官から彼女が失踪した事を告げられた。彼女は夏祭りの後、家に帰る事なくそのまま姿を眩ましてしまったらしい。警察の人は家に帰るまでの間に誰かに連れ去られてしまったそうだ。一通り昨日の彼女との行動を話すと彼らは

「また、何か思い出したら話して欲しい」

 と言って帰って行った。僕はご飯を食べる事なくそのまま眠った。

 翌朝、たった一人の親友が居なくなったと言うのに僕の目覚めは恐ろしいほど爽やかなものだった。昨夜、早く寝たおかげで妙に頭が冴えている。いつもよりも早い時間に朝ご飯を食べた僕は昨日までそうして居たように公園へ出掛けようとしてふと彼女が消えて無くなってしまった事を突きつけられた。今の僕には遊んでくれるような友人が誰一人として居なかった。何もする事がなくなってしまった僕は彼女を探し出す事にした。

 その日から僕は町中を探して回った。とにかく彼女と一緒に行った場所にもう一度向かった。彼女と共に過ごした場所を巡る内にこの夏の思い出が一つ一つ、鮮明に湧き上がってくる。

 それから僕は毎日のように町中を探し回った。


 彼女が居なくなってから数日経ったある夜、僕はふと目を覚ました。そして、あの御神木の存在を思い出した。居ても経っても居られなくなってしまった僕はそのまま家を飛び出した。真夜中の町を一人、自転車に乗って駆け抜ける。家から十数分、神社の石段へと辿り着く。自転車を放り出すように止めて石段を何も考えずに駆け上がる。

 毎日の様に遊んでいた神社、その裏手の森のさらに奥の方。舗装もされて居ないような荒れた道ずっとたどっていくと大きな木が一本、静かにたたずんでいる。そして、彼女はその木の根本にいた。森の奥で静かに眠っていた彼女は傷ひとつなく、ただただ美しかった。月明かりは彼女の旅立を祝福するかの様に木々の間からその体を照らし出していた。こうして夏は終わりを迎えた。

 後になって彼女の祖母から彼女が両親からの虐待と同級生からのいじめを受けていたことを聞かされた。あの夏祭りの日、彼女は僕に何を伝えようとしていたのだろうか。僕が彼女の事をもっと知っていれば、彼女の手を引いて一緒に逃げ出してやれれば、もっとしてやれた事があった筈なのに。けれどもあの頃の僕は結局、無知で無力な一人の少年だったのだ。


 あれから七年がたった八月十二日。結局彼女は見つかることなく、彼女の両親が失踪宣告の手続きをすることであの夏の話は幕を閉じた。地元にいる知り合いから彼女の墓が建ったと連絡がきたのはすべてが終わってからから半月後のことだった。

 彼女に墓は実家近くの墓地に建てられて居た。空っぽの墓に花を供えて手を合わせる。しばらくの間、感傷に浸りその墓地を後にした。

 帰り際にあの駄菓子屋で当時は苦手だったラムネを買った。炭酸の強いラムネは涙の味がした。

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