おはようペペロンチーノ

ささやか

おぽぽ様はお呼びでない

 地球上に生息するホモサピエンスの何パーセントだかは原因不明の偏頭痛に苦しんでおり人生の何パーセントだかを損なっている。私もその何パーセントだかのくそみたいな偏頭痛持ちに該当する。

 偏頭痛にも色々あるらしいが、私の場合頭蓋骨が収縮してしめつけられているような痛みを覚える。この痛みが続くと集中力なんて宇宙の彼方まで吹き飛んでしまう。

 有効な治療も薬もない。医学ではいまだ偏頭痛を治すことはできない。しかし対処法は存在する。起床してから十分以内に左耳の横で二回拍手し、さらには家を出て太陽を指さし「おはようペペロンチーノ!」と叫ぶのだ。これによって偏頭痛から一日解放される奇跡の発生が公式に確認されている。

 なので朝の住宅街では「おはようペペロンチーノ!」と叫ぶ住人の姿がちらほら見えるとか見えないとか。インターネットの掲示板ではこの時に出会って結婚した夫婦の話が載っていたが真偽は定かではない。ありえそうだとは思う。私だって毎朝一緒に叫ぶ男性がいたら親近感がわいてちょっと気になってしまうだろう。

 だが残念なことに山奥の研究所で偏頭痛に苦しむ哀れな子羊は私と既婚者しかいない。出会いなんて絶無だ。マッチングアプリでも始めたらどうかと友人に勧められ、正直ちょっぴり考えてしまう。

 奇跡が再現可能であるという驚愕の事実は、閉鎖病棟に入院していた哲学者、歴史学者、統計学者が意気投合し、彼らの偏執的な研究の果てに発見された。

 世界に衝撃が走った。当然だ。奇跡の発生において原因と結果に既知の科学で理解可能な関連性は認められない。少なくとも人間の理解が及ぶ範囲では。なのに再現性があるのだ。まさに奇跡に他ならなかった。

 はじまりの三人が六十六の奇跡が再現できることを発表し、それが正しいと判明した後、各国はこぞって未知の奇跡を発見すべく研究を始めた。奇跡の効果は偏頭痛の奇跡のように全く脈絡のないものが多かったが、一部には聖書や神話などを想起させるものもあった。となれば、今はまだ発見されていないだけでバベルの塔、ソドムとゴモラ、ハルマゲドンなどといった恐るべき伝承を奇跡で再現することも可能かもしれない。奇跡の研究は国家防衛の意味合いを有していた。

 この奇跡研究ブームのおかげで私も奇跡の研究所に勤めることができている。願わくは末永く続いてほしいものだ。

 研究所が山奥なのは全くもって勘弁してほしいところだがこれには理由がある。秘密保持の観点に加え、天使の顕現させる幾つかの方法のうち比較的難易度の低いものの条件の一つに顕現する場所が山奥という条件があるためだ。最近の私は主に天使の研究をしている。

 身支度を整え研究室に辿りつくと三間坂さんが学術雑誌を片手に珈琲をすすっていた。三間坂さんは私の上司にあたる研究員だ。くせっけの強いぼさぼさの髪やだらしない白衣が全力で彼の熱意の低さを主張している。

 三間坂さんは私に気づくと学術雑誌から目を離し、右手をあげる。その顔は以前よりいくぶん精悍になったように思えた。もっと直截的ちょくせつてきに言えばやせた。やせていく三間坂さんにカノジョでもできたのかと山田川さんが揶揄からかっていたのを見たことがある。三間坂さんはその時お前を倒すためにトレーニングを積んでいるのだよと答えていた。横で聞いてて何があったんだよと思った。

「おはようございます。それ今月のですか」

「おはようさん。そうだよ今月の」

「なんか面白いのありますか」

「うんにゃ。手詰まりだね」

 三間坂さんはまるで暇つぶしに読む漫画雑誌のような手軽さで学術雑誌をななめ読みする。

 三間坂さんのもとで働くようになってから二年近く経つが、彼が研究に没頭する姿を見たことがない。奇跡の研究に必要なのは狂気か適当さのどちらかで、自分は後者を選んだと三間坂さんは言う。悪くない。それなら私も後者だった。

「伊集院はさあ、神とかいると思う?」

「さあ」

「だよなあ」

 ぺいやっと学術雑誌を机上に放り投げ、三間坂さんが立ちあがる。

 奇跡と天使は現時点の人智を超えている。西洋圏では天使と奇跡の実在こそ神の存在証明だとする説が強い力を有しているが、人智を超えていること以外の根拠はない。人智を超えた存在をそれ即ち神とするのは明らかに不適当だ。そんなことなら高次存在がことごとく神になってしまう。だが世界宗教も神の存在を声高々に主張し、神がいると考えた方が奇跡や天使の存在を理解しやすいため、一般的にも神がいると考える傾向にある。

 あるいは神でないにしても凄まじい力を有する高次存在が世界を作ったのであり、奇跡や天使の存在はいわば世界のバグだとする説もある。ただ、これにしても人間がまだ把握していない法則があると仮定すればこのような高次存在なくして奇跡や天使を説明することができるため、やはり奇跡と天使が人智を超えていること以外の根拠はない。

 つまるところ、神の存在証明には奇跡と天使がなんたるかを解き明かすことが必要で、奇跡と天使の研究は既存の人智を超えようとする無謀な挑戦と言えよう。実に人間らしい。まるでイカロスのように愚かであることが許される感覚。私はそこが好きなのだ。

「さ、今日も今日とて僕らの天使様にお会いしましょうか」

「質問事項どうします?」

「あー、あれ。ランダムパターンからランダムで選んで」

「わかりました」

 私達は天使を顕現させる準備を進めていく。天使の顕現は確認されている奇跡の中でもひときわ準備が面倒な奇跡だ。この研究所で採用されている山奥式は特別な負担こそないものの時間と手間がかかる。

 天使。

 いや、あれが神の御使いであるとの証明はなされていない。天使と呼称されているのはあくまで便宜上の都合だ。天使についてわかっていることはないに等しい。

 全ての準備が整い、いよいよ天使が顕現する。

 天使の顕現パターンは様々で、光の粒が集まって天使を構成したり、空間に亀裂が生じてそこから天使が出てきたりする。当然天使の姿も一定ではない。最近の学説では、天使、悪魔、宇宙人などといった存在は全て奇跡によって顕現したものであると考えられている。

 今回の天使は天井を透過して実験室に舞い降りてきた。山羊と老婆がねじくれて混ざったような容姿をしている。今まで見たことのないタイプだ。

 天使が能動的に何かをすることはなく、その場にいる生物の行動に反応していると推測されている。聖書や神話などの記述を考慮すると、天使による積極的な干渉も想定されるが、少なくとも現時点ではそのような事例は確認されておらず、天使の主な行動は発声や身振り手振りなどに留まる。

 まず、顕現したにふれようと試みる。が、やはりふれることはできない。対話を除き天使への物理的干渉が成功した事例は存在しない。三間坂さんへ視線を向けると彼は頷く。

 私は質問を始めた。天使はねじれた声で私の問いに答える。

「あなたの名前を教えてください」

「木漏れ日色に自殺するオットセイの絶望に汝とりあえず鳥レバーを堪忍することなかれ」

“What is your name?”

“Treqqt ghouked reerly soo hotern eqertide put”

「神は存在しますか」

「下校つつ申し訳ないアレウスこんばんはコメント環の」

「ステーキは好きですか」

「瓦?묆%�뻼걤�겍��곮üžŃ耶㋨뙑�걨�걢� ü«ňşÉ돈�」

「あなたはどこから来たのですか」

「さなんに素晴らのより都市文愛してのだ。だは川も同様った。鉄川背が高いており、ハリガ形容が浮かぶほど線の細い鏡をかけた奥にこれまた細目」

 天使は基本的に問われた言語と同じ言語で回答することが多い。だがそうであっても全く意味が理解できない。そもそも有意味な回答であるかすら疑わしい。何も知らずこれを顕現させた過去の人々は、理解できないながらも端々のニュアンスから創作的解釈を行ったのだろう。きっとそうして天使や悪魔という超常的存在が語られたのだ。

 しばらくして天使が泡になって跡形もなく消えていく。天使の消失パターンも一様ではない。また、天使の顕現前後で物理的な変化は観測されない。

 実験後は天使の容姿や回答をまとめ、共有のデータベースに登録していく。天使は映像機器で撮影できないので人間が記すしかない。

 天使のデータベースは世界中で共有されており、各国の研究者が参考にする。世界は躍起になって天使の存在を解き明かそうとしているが、三間坂さんは天使の存在に何の意味はないのではないかと嘯く。研究者の中でも少数派になる考えだが私も三間坂さんに同意していた。仮に天使になにがしかの意味が含まれるとしても、それは人智で理解できるものではないだろう。もし人智で理解できたのであれば、それはきっと神でも天使でもなかったのだ。

 記録のまとめがひと段落したところで、三間坂さんと共に食堂に行く。お昼時をやや過ぎていたので人はまばらだった。

 そんな食堂でひときわ目立っていたのが山田川さんだ。研究員とは思えぬ筋骨隆々の肉体である上、大きな声で電話をしているのだ。しかもその声の端々から彼が困っているニュアンスが余計に周りの気をひく。

 山田川さんがため息をついて通話を終えたところで、かつ丼をトレイにのせた三間坂さんは彼に声をかける。

「やあやあ山田川、事情はさっぱりわからないがお困りのようだね。同期のよしみだ。かつ丼のおかずに話くらいは聞いてあげてもいいぜ」

「かつ丼におかずいらないでしょ」

 苦笑する山田川さんの前に三間坂さんは勝手に座る。ついでに私も座る。

「それでどうした。婚約者が伝説のおっぱいを求めてブラジルにでも行ってしまったのか?」

「どういうシチュエーションだよ。んなわけないだろ。いや、なんか従弟いとこが大学の友達に誘われてカルト宗教に行ってから帰ってきてないらしくてさ。カルトから連れ戻してくれって母親から電話がきたんだ。奇跡を研究してるんだからって理由になるのかね? 参ったよ」

「カルトってどんな?」

「おぽぽ様」

「都市伝説系かあ。まあ厄介っちゃ厄介だな」

 奇跡の存在が明らかになってから新興宗教が雨後のたけのこの如くぽこぽこと現れた。これまでの新興宗教は既存の世界宗教を下敷きにしたものが多かったが、奇跡以降の新興宗教には都市伝説をベースとしたものが散見される。これは都市伝説をなぞった奇跡が発見されたことに端を発する。与太話として見向きもされなかった都市伝説こそ自分たちだけが理解している真実という設定は結構うけているらしい。  

 ちなみに都市伝説系の奇跡を研究する日本の第一人者こそ三間坂さんだったりする。最近は天使から都市伝説にアプローチできないかということで天使の研究を主として行っているが、日本の奇跡研究学会ではわりと重みのある人なのだ。普段のやる気のない言動からは全く信じられないことだが。

「それでその従弟さんどうするんですか?」

「まあ頼まれた以上どこかで時間を見つけて会いに行ってはみるつもりだけど」

 私の問いに山田川さんが言葉尻を濁す。それで解決するのだろうか、という疑念が彼の内にもあるのだろう。

「オーケイ。話はわかった。伊集院、車持ってるよな。明後日の土曜日って空いてる?」

「空いてますけど……」

 三間坂さんにやたら陽気に尋ねられ、嫌々ながら正直に答える。

「なら伊集院の車で土曜日に会いに行こう。情けは人のためならず、善は急げというじゃないか」

「じゃあどうやってその情けが私のためになるんです?」

「まー奇跡の大発見があったり運命の出会いがあったりツチノコに遭遇したりとか」

 全く魅力のない回答だった。私はとても嫌そうな顔を作って抵抗した。だが三間坂さんには勝てなかった。私はいいように丸めこまれ、かくして土曜日、私達はカルト宗教の本部に突撃することに相成った。

「なんか迷惑かけちゃってごめん」

「いえ、乗り掛かった舟ですから」

 申し訳なさそうにする後部座席の山田川さんに、私はハンドルを握り答える。我が物顔で助手席にいる三間坂さんはスマートフォンをいじっている。最近お気に入りのソシャゲをやっているらしい。

「それに私車運転するの好きなんで、まあドライブだと思えば」

 研究所から目的地までは片道三時間ほど。研究所の立地の悪さを思えば意外と近いとすら言える。

「伊集院さん車好きなんだ。知らなかったな」

「なんというか簡単に人を殺せる暴力装置を完璧に支配してるなって感覚が好きなんですよね」

「こいつとんでもないこと言い始めたぞ」

 アクセルを踏む。私は華麗なドライビングテクニックで三間坂さんの失礼千万な発言をスルーした。

「それでカルトに突撃して具体的にどうするんですか? 従弟くんを説得する算段はついてるんですか?」

 三間坂さんは高らかに笑い「カルトに最も効く薬はなんだと思う?」と言った。

「えー。愛とかですかー」

「違うね、暴力だよ」

「は? 三間坂さんっていつからそんなチンピラ思考になったんですか? もしかして昨日きんぴらごぼうでも食べました?」

「食べてない」

 三間坂さんはきんぴらごぼう疑惑を否定した。おかしい。いや、おかしいのは元からだった。つまりおかしくない。

「カルトに浸かった脳味噌にショックを与えて一度白紙にして隔離するんだ。そうすれば落ち着きを取り戻してちょっとは現実を見ることができるようになるのさ」

「そのショックが暴力である必要ありますかね」

「暴力が一番手っ取り早いからね。あと爆裂暗殺拳を試す絶好の機会だ」

「なんすかそれ」

 三間坂さんがまた変なことを言いだした。

「通信講座で習ってるんだが、セールスポイントによると極めれば人体を爆発させることができる暗殺拳、らしい」

「それ絶対騙されてますよ。色々ツッコミどころありますけど、人体を爆破しちゃったらどちゃクソ目立って暗殺どころじゃないですから」

「だろうなあ。実際レビュー評価は最悪だったけど筋トレに丁度いいから最近やってたんだ」

「……筋トレ?」

「ああ」三間坂さんはぐりんと後ろを向いて吠える。「お前との腕相撲対決に勝つためだよ山田川!」 

 そういえばずっと前に二人が食堂で腕相撲対決をしていたような気がする。そして三間坂さんが瞬殺されていたような気がする。そして冷静に考えるといい年して二人とも何やってんだ。

「まあ私あくまでドライバー役なんで着いてからはお二人にお任せしますね」

 三間坂さんは相変わらず適当なことしか考えていないようなので、山田川さんがきっとなんとかしてくれるだろう。いや、三間坂さんもなんだかんだで優秀な人だ。きっとメイビー大丈夫だ。私は二人を信頼して運転に集中することにした。

 そうして一度の休憩をはさんだ後、私達はとうとう目的地に到着してしまった。おぽぽ様なる存在を神として崇めるカルト宗教の本拠地は田舎の豪邸だった。三間坂さんによると教祖がいいとこのぼんぼんらしい。豪勢なことだ。

「あ、これ渡しておく」

 三間坂さんが安っぽい名刺入れを私に手渡す。中には私の名前と知らない会社が記載された名刺が入っていた。

「なんですこれ」

「おいおい、何言ってんだよ。俺達は取材のためにここに来たんじゃないか」

 どうやら三間坂さんは暴力ではなく謀略を用いる心づもりのようだ。山田川さんに驚いた様子がないので、彼も初めから知っていたらしい。道中の発言はいったいなんだったのか。やっぱり適当な人だ。

 三間坂さんが先陣を切って我が物顔で豪邸に入る。住居としての気配が薄いことと盛り塩があることが目についたが、それ以外は普通の内装だった。

 用向きを尋ねる信者に三間坂さんが堂々とアポイントメントがあることを告げると、庭に面した大きな和室に案内される。丁寧に手入れされた日本庭園の向こうには黒々とした山が見えた。

 私達を迎えてくれた教祖はいかにも田舎で村を仕切っていそうな中年の男性だった。教祖っぽく和服を着ている。

 三人で名刺を渡した後、三間坂さんと山田川さんは教祖に取材する。その様子は手慣れており教祖は本当に私達が取材にきたライターだと勘違いしたことだろう。さてはこいつら初犯ではあるまい。一方の私といえば愛想笑いを浮かべながらどうでもいい教義を聞き流し、それっぽく適当にメモするので精一杯だった。

 しばらくしたところで三間坂さんが他の信者にも話を聞きたいと言い出し、山田川さんが適当な信者を私が聞いてくる流れを作る。おかしい。私はドライバー役だと断ったじゃないか。なんて文句を言うわけにもいかず、私は例の従弟くんを探しにいった。

 従弟くんの顔写真は事前に山田川さんから事前に入手済みだ。おかげで邸内を探してからほどなくして彼を見つけることができた。

 適当に呼び出し、二人きりで話せる場を作る。そして従弟くんに両親が心配していることを伝えると、彼の童顔に暗い影がさした。

「そうですよね、心配してますよね。そりゃそうか……」

「だから一緒に帰ろう。大丈夫、何か言われて止められても一緒に来てる詐欺師の親戚がなんとかしてくれるから」

「いや、でも、おぽぽ様ってマジでいるんすよ。マジで神様かも。だからここにいれば自分もなんかできるかもって」

「そんなの何も意味ないよ」

 私はあえて強く否定した。従弟くんの手を握り、彼の目を見つめる。私達は天使と違ってふれることができる。意味のある関係を築くことができるのだ。

「そりゃあ奇跡があって天使もいる世の中になった。神様だっているかもね。でもおぽぽ様がいようが本当に神様だろうが、そんなものに私達が左右される必要なんてどこにもないんだよ。もっと自分を生きなよ」

「わ、わかりました」

 従弟くんは視線をそらし、小さな声で言った。

「ぜんぶは納得できないけど、一緒に帰ります」

「うん。あとで考えてやっぱり納得できないなら天使の研究でもしてみればいいから。あいつらマジで意味ないからね。少なくとも人類には理解不能だから」

 やったぜ、従弟くんの確保に成功した。今日のMVP候補は間違いなく私だろう。焼肉とか奢ってもらえないだろうか。そんな益体もないことを考えながら和室に戻ると教祖と二人がにこやかに会話を続けていた。本当に巧言を弄するのがお上手な二人だ。なんで詐欺師になってないんだろう。

 だが本当に目を向けるべきは彼らではなかった。最初にそれに気づいたのは従弟くんだった。従弟くんは震えながら庭を指さす。

「おぽぽ様……」

 そこでようやく私達も庭に視線を向ける。庭先につばの広い白い帽子をかぶり、これまた白いワンピースを着た大きな女が立っていた。優に二メートルは超えているだろう。これがおぽぽ様か。

 庭のどこかしらを見ていたおぽぽ様だが、突如としてぐりんと首を回し和室に顔を向ける。美しいかんばせだった。

「お……ぽ……ぽぽっ……ぽ」

 おぽぽ様は意味不明な言葉を発し、近づいてくる。三間坂さんに視線を向けると頷く。私も頷く。おぽぽ様は天使だ。条件は不明だが、奇跡によりおぽぽ様が顕現したのだろう。

「おぽぽ様! おぽぽ様が!」

 興奮した教祖は叫びながら庭に降り、おぽぽ様へ近寄っていく。天使にふれることはできない。意味のない行為だ。そのはずだった。だがおぽぽ様が教祖の頭をわしづかみした。

「は?」

 教祖の疑問は皆の疑問そのものだった。ありえない。天使が人にふれられるはずがない。ありえないことが目の前で起きていた。

 混乱のあまり抵抗すら忘れた教祖をおぽぽ様は無造作に放り投げる。空飛ぶ教祖は物理法則に従い綺麗な放物線を描いた後、池に墜落した。汚い悲鳴をあげたので命に別条はないようだ。

「ぽ」

 教祖を投げ捨てたおぽぽ様が再び近づいてくる。長い手をのばした先には従弟くんがいた。従弟くんはおぽぽ様に魅入られたように動かない。危ない。おぽぽ様の指先が彼にふれようとした瞬間、私の体が勝手に動いていた。従弟くんを抱き寄せ、おぽぽ様から遠ざける。

 僅かの間動きを止めた後、おぽぽ様の美貌が私に向けられる。奈落よりも暗い瞳。見られた。はっきりとそう感じた。背筋が泡立つ感覚に体がぶるりと震える。私は怯えていた。恐怖に耐えかねて叫ぼうとしたとき、三間坂さんがおぽぽ様の懐に入りこみ、鋭い掌底を顎に打ちこんだ。するとおぽぽ様は針で突かれた風船のように破裂して、あっけなく姿を消した。

 いったい何が起こったんだ。

 またしても起きた信じられない事態にしばし言葉を失う。いち早く回復したのは掌底を打ちこんだ体勢のまま硬直していた三間坂さんだった。

「うおおおおおおおおおおおおお、なんじゃこりゃあああああ! 俺がすげええええええええ!」

「爆裂暗殺拳が本当に爆裂してるんですけどおおお!」

「爆裂暗殺拳すごい!」

 物理的干渉が可能な天使、おぽぽ様の顕現と消失という衝撃と興奮にすっかりのまれてしまった私達は爆裂暗殺拳を称えるのだが、もちろんそんなことはなかった。

 教祖の協力のもと正式な研究として地道な試行錯誤を重ね、おぽぽ様の顕現条件を発見した結果、おぽぽ様は恐るべき怪力を有するものの極めて打たれ弱いことが判明したのだ。つまり爆裂暗殺拳だろうが単なるチンピラパンチであろうとおぽぽ様は消失する。破裂して消失したのも消失パターンの一つでしかなかった。

 とはいうものの物理的干渉を行う天使の実在はまぎれもない大発見だった。しかもおぽぽ様は必ず同じ姿で顕現する。これまでの天使は同じ方法で顕現させても同じ姿をとるとは限らなかったので、この点も大きく異なっていた。

 おぽぽ様騒動で私達三人は天使研究の先駆者としてたちまち有名になった。そのせいで給料は上がらないのに気疲れする仕事ばかり増えてうんざりする。だがこれで天使研究が進むことは間違いないだろう。学問の徒として喜ばしいことには違いない。人類がイカロスよりも太陽に近づくときがもしかしたら訪れるかもしれない。

 そしてもう一つ、大きな変化があった。従弟くんのことだ。おぽぽ様騒動の後、従弟くんと連絡先を交換した。最初はおぽぽ様騒動に関する必要な連絡をしていたのだが、やがて彼から就職活動の相談などもされるようになり、山田川さんの取りなしもあったので、そのままなし崩し的に交流を続けていた。

 そうしてそのうち一緒に映画を観たり食事を取ったりするようになり、なんか普通に仲が良くなった感じが続いた。そして従弟くんが就職してしばらくした頃、私は彼から指輪を差し出されていた。

「ねえ、どうして私を好きになったの?」

 尋ねると、彼は顔を赤くしながらも答えてくれた。私の答えは聞く前から決まっていた。従弟くんは私の夫くんになった。

 幸せに神様なんてお呼びじゃない。私達は毎朝一緒に「おはようペペロンチーノ!」と叫んでいる。

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