闇色のダンスフロア

猫とホウキ

闇色のダンスフロア

 日々を鬱蒼とした気持ちで過ごしていた。


 社会に不満があるわけでもなく、生活に困っているわけでもない。ただ焦るように時間を消化し、そしてなにも残さず毎日を浪費していた。


 会社に行くのは週一回である。それ以外は在宅勤務。同僚との関係は悪くないし、仕事も順調である。主任候補と言われてもピンと来ず、ただ不安になるだけであった。恋人はなく、親しい友人もなく、家族と会うのも年一回だけ。SNSなんてやる気力もなく、空っぽの日常が訪れては消えていく。


 俺にはなにもない。悪くない人生を歩んでいるはずなのに、満たされることがない。どうしてこんなことになったのか。後悔しても遅く、後悔しても始まらない。

 たぶん俺は変われない。これからも。


 から電話がかかってきたのは、そんなある日の夜だった。


 会社を出て少し歩いたところである。スマホのディスプレイに映った名前に驚き、少し躊躇ってから通話ボタンに触れる。


りつくん?」


 久しぶりに聞く声に、しばし呼吸の仕方を忘れた。ああ、息をしないと。思い出して空気を吐き出す、そのついでに俺は彼女の名前を呼んでいた。


「シズク」


 その後、少し間が空く。俺からなにか言うべきだろうか。しかし久しぶりすぎて、なにを言うべきかまったく分からない。

 迷っているうちに、彼女の方から話し始める。


「元気してた? なんか声が暗いよ」

「いや、元気だよ。その……シズクは?」


 そうか、元気なのか。あんな別れ方をしたのに、元気でいてくれたのか。

 たとえ偽りでも、彼女の言葉に安堵する。少なくとも、怨みやつらみに打ちひしがれているわけではなさそうだ。


「うーん。やっぱり元気無さそうだね。というか、ずっと元気無いよね。あたしはそれが心配だ」

「いや元気だよ」

「それ嘘だよね……うん、ごめんね、実は何度もあなたのこと見てるんだ。だから分かるの」

「…………」


 俺のことを見ていたと言うなら、隠しようもないだろう。元気そうな俺の姿なんて、毎日眺めていたって見ることはできない。


「あたし心配だから。あのさ、もし嫌じゃなかったら会わない? 気晴らしに」

「会うって……?」


 もし俺が正常な判断力を有していたのなら、ここでイエスと言うはずがない。しかしいつでも自暴自棄になれる程度にはおかしくなっていた俺は、ちょっと迷うだけで、彼女の提案を受け入れていた。


「分かった。どこに行けばいい?」

「学校」

「は?」


 社会人二十七歳、その言葉を咄嗟には理解できない。


「あたしたちが通ってた高校。近くまで来たら案内するから」


 案内って……。

 どこに案内するつもりなんだ?



*****



 やはり今の俺に正常な判断力は無いようだ。電話を終えると、電車を乗り継ぎ、駅からは徒歩で母校へと向かっていた。

 彼女と再会したのは、校門の前である。住宅地を離れ、林に囲まれたような立地。すでに夜の十時を過ぎて、周囲の闇は深い。気休め程度の街灯に照らされ、彼女の影はゆらゆらと揺れている。


 校門をよじ登って突破し、校舎の裏手に回ると窓を開け、校舎内に侵入した。すでに職を失いかねない行為をしているという自覚はあったが、今更引き返そうなんて言えなかった。向かう先になにがあるのかということには興味があったが、たぶんそれ以上に、惰性で流れる日常を壊したいという気持ち──不法侵入で捕まってしまっても良いという思いがあったからだろう。


「こっちこっち。ほら、この階段。毎日のように上ったよね。懐かしい?」

「ああ」

「屋上まで行くよ」

「え?」


 屋上って、立ち入り禁止のはずだけど。今は開放されているのか?

 疑問に思ったが、どう見ても施錠されているように見えた扉があっさりと開かれるのを見て、そもそも疑問に思うこと自体がナンセンスだと気付いた。


 逸脱は、電話を受けたときに始まっていた。この程度の非常識、彼女の前には通じない。


「到着。あたしね、ここによく来るの」


 月の光と、星の光、それから辛うじて届く街灯の光。それらの光が夜を僅かに照らすからこそ、浮かび上がる。闇の中で蠢く、本当の闇が。


「みんな待ってる。スマホ、なにか音楽流せるかな」


 立ち尽くす俺に、彼女は言った。俺は「ああ」と答えた後、ポケットからそれを取り出す。


「なにを流せばいい?」

「長く流せるもの。律くんの好きな音楽で良いから」

「ボカロメドレーとかで良いのか?」

「うん! あ、光はこっちに向けないように気をつけて」


 強い光を当てると、闇の中の彼らがどうにかなってしまうのだろうか。それとも彼らを見てしまうと俺がどうにかなってしまうのだろうか。


 光の向きに気をつけながらスマホを操作し、動画をスタートさせる。ミュートを切り音量を少しずつ上げていく。

 音量を全開にした後、スマホを逆向きにして地面に置いた。静寂を切り裂いて、騒々しいメロディが空気を揺らしている。


「ありがとう! 律くん! みんな! 


 言うが早く、彼女は踊り始めていた。体の輪郭を捉えるのは難しいが、長い髪がふわりふわりと舞っていることはなんとなく分かった。

 闇の中の彼らも、どうやら踊り始めているようだった。彼女と同様、その姿はほとんど見えない。しかしその薄らとしたシルエットだけで、普通じゃない存在であることは理解できる。


「ぼーっとしてないで! 主賓さん!」

「シズク。俺は踊り方なんて」

「手を振って、腰振って。くるくる回って。なんでも良いの! ほら、あなたと踊りたがってる子がいるよ!」


 シズクに言われ右を向くと、闇が一つ近づいてきた。男女の判別はつかないが、俺よりも頭一つ小さい。

 手を伸ばしてきたと感じた。俺も手を出すと、


「楽しんでね。みんなあなたと踊りたがってる」

「ああ……えっと」


 シズクはその姿を他の闇たちに紛れ込ませてしまった。一方、目の前の誰かは俺の腰に手を回すと、音楽に合わせて左右に体を動かし始めた。

 スマホからは、とんでもないテンポで、まくし立てるように歌詞が流れていた。初心者の社交ダンスにはあまりにも不適合だが、そもそも相手の動きも社交ダンスのそれではない。

 なんとなく触れ合って、なんとなく揺らして、思いついたように腕を掴んで、くるりと回転させてみたり。それを相手がやるものだから、俺は戸惑いながらも、それなりに激しく動き回ることになる。


 一つだけ分かったこと。この相手はたぶん女の子だということだ。密着した際に、胸の感触があった。だからといって嬉しくもないけれど。


 一曲が終わると、相手が変わった。今度の相手は、、二足歩行するなにかだった。そいつは俺を抱きかかえると(俺は死を覚悟した)、肩に乗せたり、お姫様抱っこをしたり、ぐるぐると空中で回したりした。

 途中で肩車の姿勢になった。無数の闇たちが俺を見ながら踊っている。俺はそれに応えるように、パラパラみたいに手を動かした。流れている曲は相変わらずアップテンポの曲。このペースで踊っていればすぐに疲れてしまいそうだけど、ブレーキはもう壊れてしまっていた。


 こうなったら、一期一会を大切にする方が重要なことだろう。もしかしたら、、今を楽しめるなら、楽しんだ方が良い。


 また相手が変わる。とても小さな影だった。子供みたいな大きさ、それが二つ。俺はそれぞれに片手を掴まれ、音楽に合わせパタパタと動かされた。それから引っ張られて、抱きしめられて、くるくる回されて、そこで一曲が終わった。


 巨大な犬みたいな相手とも踊った。猫みたいな相手を頭に乗せたりもした。うにょうにょとしたよく分からない個体と腕を絡ませたりもした。


 そして、シズクとも踊った。



*****



 教室にいた。窓からは明るい光が差し込んでいる。


 あれ、なにしてたんだっけ。俺は頭を掻きながら、横を向いた。

 クラスメイトたちの姿が見えた。そして隣の席にはシズクがいた。


「どうしたの?」

「いや、なんか夢を見たような」

「夢? どんな夢?」

「屋上で踊ってた」


 シズクは「そっか」と言って、笑った。


「ところで、律くん」

「なんだ?」

「あたしのこと、好き?」


 シズクは笑顔のまま。

 一方、俺は露骨に狼狽えた。


「おい、ここ教室だぞ」

「誰も聞いてないし、聞かれても困らないよ。ねえ、律くんはあたしのこと好き?」

「それは……まあ、好きだよ」

「じゃあ、あたしが付き合ってって言ったら、付き合ってくれる?」

「ああ」


 俺は周囲をきょろきょろと見渡しながら言った。照れと焦りで顔が熱い。


「じゃあ、今ここでキスしてって言ったら、キスしてくれる?」

「いやだから、ここは教室だって! こんなに人が……」

「誰もいないよ?」

「え?」


 また周囲を見渡してみる。相変わらずの教室、でも窓からは夕陽が差し込んでいる。生徒は誰もいなかった。俺とシズクだけが隣合って座っていた。


「ほら、誰もいない。ねえ、キスしてよ」

「あ、でも。ほら、まだ付き合っているわけじゃないし……」

「嫌なの?」

「嫌じゃない……」

「じゃあ、しよう」


 シズクが立ち上がる。遅れて俺も立ち上がる。シズクが目を瞑る。俺は彼女の腰に手を触れる。


「やるぞ」

「早よ早よ」

「…………」


 ムードもへったくれもない。ただ俺は彼女の血色の良い唇に吸い込まれるように、顔を寄せた。

 ぴたりと。想像と違い、それは冷たい感触だった。数秒。もう良いよと合図するように背中をポンと叩かれて、少しずつ顔を離した。


「名残惜しいけど、これ先はやめておこうか」

「これ先って、どこまでやるつもりなんだよ……」

「あーあ。律くんとお付き合いしたかったな。キスしたかったな。エッチしたかったな」

「いやだからどこまでやるつもり……待て。キスは今しただろ?」

「してないよ。


 いつの間にか、教室の外は夜の闇に満たされていた。教室の中もどんどん暗くなり、シズクの姿を消してしまう。



*****



 相変わらず、屋上には闇が蠢いている。


 俺はシズクと踊っていた。流れていたのはロマンチックの欠片もない、間の抜けた不思議系のメロディだった。


「俺を怨んでないのか?」


 闇の少女は首を横に振った。僅かな輪郭の動きも、いつの間にか捉えられるようになっている。

 それでも表情までは分からない。彼女のことだから、笑っているのだろうけど。


「律くんを怨むのは筋違いでしょ。だって律くんは青信号の横断歩道を歩いていただけなんだし。暴走した車がそれを避けて、あたしの方に突っ込んできた」

「ああ。でも、ちゃんと注意してたら横断歩道は渡らなかった」

「悪いのは車だよ」


 シズクは俺の両肩を掴んだ。それからさわさわと、なにかを要求するように腕を揺らす。


「お姫様抱っこ」

「そりゃ、無理だ」

「頑張って! 大丈夫、落っことしても死なないから。というか、もう死んでるからね」


 俺は……言われるままにした。彼女の腿のあたりに腕を当てると、倒れ込ませるようにしながら、彼女の体を持ち上げる。


「わわ」

「これで満足か?」

「満足なんかしないよ。ほら、踊って、回って、くるくるしてよ」


 また俺は言われるままに動いた。彼女はキャーキャー騒ぎながら、俺の顔に手を触れた。


「あたしはね、律くんに幸せになって欲しい。毎日笑っていて欲しい。誰かを好きになって欲しい。結婚して、子供を作って欲しい」

「それが上手くいかないんだよ。たぶん、俺は欠損してしまったんだ。そこにいるはずのシズクがいなくなって」

「あはは、あたし、そこまで好かれていたのか。つくづく惜しいことしたなー」

「だからさ、ここから帰りたくないんだ。シズクとずっと一緒にいたいんだ」

「律くん。ダメだよ。そんなこと思ったら、本当に連れていかれる」

「ここに連れてきたのはシズクだろ。責任取れよ」


 俺は闇に顔を寄せた。さっき教室でやったのと同じように、唇に触れようした。


「本当に……いいの?」


 しっかりと頷く。それから、またあの冷たい唇の感触を確かめようとして──



*****



 電車の中で目を覚ました。


 慌てて立ち上がる。この車両に乗客は自分しかいない。外が明るく、夜ではないことが分かる。

 電池切れしそうな──スマホで時間を確かめる。午前5時30分。おそらくこの電車は始発だろう。


 夢だったのだろうか?

 自問しても分からない。確かなのは、この路線は通勤では使わないということだ。そして、あの学校から自宅を目指すとすれば、この路線を使うということも確か。


 なにか痕跡がないかと、スマホを弄る。通話記録……無い。動画の再生記録……これも無い。録音……無い。


 写真……あった。撮影した記憶はないけれど、そもそも途中からの記憶がないのである。


 ただ闇を写しただけの写真が何枚も、いや何十枚もあった。顔も見えない、形も見えない。輪郭も、なにも無い。そんな写真を一枚ずつ見ていく。丁寧に一つずつ画像を確認する。


 そのうちに、とある一枚で手を止めた。他の画像と変わらず、暗闇を写しただけの写真である。


 俺は──闇に舞う彼女の髪を思い出しながら、呟いた。


「もしかして、ずっと泣いていたのか?」


 たぶん彼女の涙は──

 闇色のダンスフロアに溶けて、


 消えた。






<Fin>

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