生と死と罪

 工業団地に車を停めた荒野はボクを見てニヤリと笑った。ボクは眼を合わせなかった。荒野は後部座席に移動して言った。


「なんだよ、この女、最高過ぎて笑えるぜ! 男だったら全員マスかいてるぜ! なあ、お前もそうだろ、コーチ!」


 ボクは真っ黒なフロントウインドウを見ていた。白っぽい何かに跨る荒野が映り込んでいる。ボクは再起動を拒否している。ただ、白い何かが、淡い光のようなものが、黒い画面の片隅で押し潰されそうになっている。


「おい! 滝沢センセーが寝てんだぞ!」ボクの座るシートに強い衝撃が加えられた。強制再起動。「緊張してるんだろ、心配すんな、田口だって最初はそんな感じだったぜ! だけど股開いて○○○見た途端に豹変しちまってよお。アレはまるで死肉に喰らいつくハイエナだったぜ。キャハハハハ!」


 振り返ると、荒野は滝沢先生の匂いを嗅いでいた。ボクと目が合うと荒野は言った。


「なあ、初めてコーチに会った時……死のうとしてた時だよ、俺、お前に言ったよな? 『全員、殺してから、一番いい女に中出ししてから死ね』みたいなことをさ……。それが今や、本間を殺して、他の奴は病院送りだ。そして今ここに、いい女が寝てるんだぞ。ちょっとやそっとじゃ起きやしないぜ。吉澤とかいうオンナを田口がやった時、お前、暴れたじゃんよ? コーチにもあの薬使ったら、ころっと眠っちゃたろ? 次の日、あんまり憶えてなかったろ? 服も下着も元通りにしてやれば、気付かれないぜ。たぶんな。ほら、コーチもこっちに来い。今回ばかりは一番手はお前にくれてやる。何たって童貞卒業の日だぜ。キャハハハハ!」


 何か言っている。荒野が何か言っている。


「テメエ! 恥ずかしがってんじゃねえよ」おどける荒野に後部座席に強引に引き摺り込まれる。滝沢先生……。ただただ綺麗だった。もうそれは秘境の地の絶景に感動して立ち尽くしてしまう程に。


 荒野はブラウスのボタンを手際良く外し、胸をはだけさせた。背中に腕を捻じ込みホックを外しブラジャーを上にずらした。


「見てみろコレ! ビーチクまでピンク色でキレイなもんだ。まるで中学生の身体だぜ」


 確かにそうだった。その白くて綺麗な乳房を浅黒い手が鷲掴みして揉みしだく。


「堪んねえなあ! コーチも触ってみろ! ほらっ!」


 ボクの腕は荒野に捕まれ、滝沢先生の胸に誘導された。頭が真っ白になって身体の真ん中だか頭の真ん中だかわからないが、ボクの中心が熱くなり何かが外れた気がした。自分の意思に反して呼吸が荒くなっていき、ボクの手は自動的に動いてしまう。無我夢中でボクの両手は滝沢先生の胸を揉みしだき無心で口に含み貪った。するとボクに異変が起きた。身体が強張り、気がつくと射精をしてしまっていたようだった。


「どうだどうだ! いいもんだろ? 最高だろ? 次はいよいよ下だな」


 荒野はボクの射精に気付いていないようだった。内腿を生温かい塊が伝っていく。それと同時にいいようのない罪悪感に襲われる。手が震えている。ボクは何をやってるんだ……。何をしてしまったんだ……。


「早くしろよ! パンツ脱がせよ!」


 滝沢先生……ボクはどうすれば……。


「ああ、もういいよ! お前がやんねえなら、俺がやるからな!」


 荒野はもう我慢ならない様子でボクを押し退け、滝沢先生のストッキングと下着を引きちぎるように取り払った。そして自分のベルトを外し、ズボンと下着を一緒に下ろして、右足に絡まったそれらを蹴り捨てた。


 荒野の股間は異様に大きかった。そして、まるで寓話に登場する悪魔の尻尾の如くドス黒く曲がっていて長かった。禍々しく忌々しく熱り勃ち、荒野のそのものを具現化していると言っていいほど、荒野に相応しいモノだった。


 腰を落とした荒野は、その細くて白い両の足を持ち上げ、滝沢先生の股間に自らの唾を塗りたくり、毒針のような生殖器を突き刺そうとしている。


 やめろ……そんなモノを滝沢先生に……。


 ……結婚するのよ。これもいい機会かなと思ってね。たくさん子供産んで、自分の子供たちに囲まれることが、先生の夢なの。だから今は前向きなのよ……。


 そうだよな、君と出会ったのは、やっぱり、こういう事だったんだね。 ずっとずっと迷ってた。ずっとずっと考えてた。ずっとずっと思ってた。こうするべきだって思ってた。いつだって、どんな時だって。荒野を……悪を討て! ボクはやるよ、シロ!


 ボクは上着の内ポケットに忍ばせていたガス銃を抜き取った。荒野は現状を把握できていない。荒野はボクの眼を見ず、銃口を見ていた。ボクは鎌の眼に向かって引き金を引いた。


「あぎゃああああああああああああああああ!」


 断末魔の叫び。荒野は滝沢先生の上で激しくのたうちまわり、滝沢先生の白い肌も服も赤く汚れていく。


 やってしまった。どうしよう。もう後戻りできない。すべて終わりだ。殺される。この男に殺される。


「……なに? い、痛い……なんなの……」


「先生!」


 揉みくちゃにされていた滝沢先生が意識を取り戻した。


「先生、起きて!」


「うおああああああ! 痛えええええええ!」


 ボクは滝沢先生の腕を掴んで引き摺り出そうと試みるが荒野がボクの腕を掴んだ。とてつもない握力は肉がちぎれ骨が砕ける勢いだ。


「コオオオオチイイイイ! テメエエエエ! 殺おおおおおす!」


「離せええええ!」


 ボクは銃の柄で荒野の指を何度も打ち付けた。それでも離さない。ヤバい! ヤバいヤバいヤバいヤバい! コイツはもう人間じゃない。猪とか熊とか、そういう類いの獣だ。やらなきゃやられる。殺されるんだ。


 ボクは一心不乱に荒野の頭を何度も銃で殴りつけた。気がつくと荒野の顔が真っ赤に染まっていて、その紅い雫を滝沢先生とその白い服が受け止めていた。ボクは一瞬、滝沢先生が怪我したのかと勘違いし、我を取り戻した。


「先生! 先生! 大丈夫ですか? 起きて! 逃げますよ!」


 荒野は気を失っているのにボクの腕を強く掴んでいた。


「バケモノ! 離せええええ!」


 ボクは荒野を強引に足で引き剥がし、意識が朦朧とする滝沢先生を引き連れて車の外に出た。


「先生! 早く! 急いで!」


 滝沢先生の足取りは重く、ボクにもたれ掛かっている。ダメだ。重い。滝沢先生を抱えたままで、遠くまで逃げきれない。ここは工場地帯だし身を隠す場所がありそうだ。滝沢先生の状態が回復するまで待ってから、逃げる方がいい。物置のような倉庫がある。ここならきっと寒さも凌げる。車からだいぶ離れたし、荒野はしばらくまともに動けないだろう。その前に、荒野は死んでないだろうか。血まみれになった滝沢先生が、荒野の出血量を物語っている。赤くなった乳房が見えていた。ボクは血の色のコートでそれを隠した。


「いったい、どういうことなの? 河内くん」


「…………」


「私、下着つけてないみたいだけど、……どういうことなの?」


「…………」


「答えなさい!」


「……何から……どこから、話していいか……」


「気付いたら、男が私の上で血だらけで暴れてて……河内くんがピストルを持ってて……もう、何がなんだか……ああ、もう……訳がわからないわ……あの男はいったい誰なの?」


 滝沢先生は公園でボクと話していて、飲み物を飲んだら、血みどろの世界に一変していたんだ。何をどう話せば理解してもらえるのだろうか。いや、理解などしてもらえるわけがない。ボクと荒野がやってきた事は……。


「……ボクは……ボクはあの男と一緒に本間を殺しました」


「……こんな時に何を言ってるの? ほ、本間くんは交通事故で……」


「表向きはそういう事にしてますよね。でもあれは他殺ですよね? きっと暴走族の抗争って事になってませんか?」


「ちょっと待って……ちょっと待って……そんな……」


「工業団地の道路で本間はヘルメットを被らずバイクに乗っていて転倒させられ死んでますよね?」


「え……いや……ち、違うわ……」


「違わない。こんな情報は生徒には知らせてないはずですよね?」


「…………」


 滝沢先生は口を押さえ、見えない何かを見つめている。


「藤代が学校に来なくなったのも、ボクが大怪我をさせて脅したからです」


「…………」


「岩屋にゲロをかけて階段から落ちるように仕組んだのはボクの計画通りでした」


「…………」


「ボクを虐めていた主犯は本間、藤代、岩屋、でしたよね? 虐められていたのはボクですよね? 虐められっ子が虐めっ子に仕返しをしたん……で」


 滝沢先生の瞳から涙が零れ落ちた。一粒……ニ粒……、そして、止めど無く流れ続ける。滝沢先生は鼻水も垂らし、それらを拭う素振りなどみせず、涙と鼻水が混じって唇を通り過ぎて顎から糸を引いていた。粘り気のある涙は赤く汚れた服に染み込んでいく。


 ボクは純心純白の象徴のような人を傷つけて汚してまったんだ。声をかけようとしても何て声をかけていいかわからず、瞬きもせず、涙と鼻水を垂れ流し続ける先生のことをボクは見守ることしかできなかった。


 もう終わりだ。すべて終わりだ。滝沢先生に言ってしまった以上、ボクは逮捕される。自首しよう。110番してここに警察に来てもらえば滝沢先生を保護してもらえるはずだ。


「先生……先生……?」


 滝沢先生はボクの呼びかけにピクリとも反応しなかった。ただ顎から滴る粘り気のある涙だけは動いていた。


「ボク……自首します」


  1……1……0……ボタンをプッシュした後、発信ボタンを押そうと親指が動いた瞬間、ケータイが唸りながら震えた。……母さんからだ。


「……もしもし」


「教育実習の先生から電話がきて、とにかくすぐに息子さんに今すぐ電話してください、って言われたのよ! 何かあったの? 今どこにいるの? 何してるの? また虐められてるの? ねえ! 聴いてるの! ねえ! ねえっ!」


「母さん! 落ち着いてよ! ボクは大丈夫だよ! 大丈夫だから落ち着いて!」


「だって最近、様子がおかしかったじゃない! 全然話さなくなっちゃったし」


「母さん、ごめん! 今それどころじゃないんだ!」


「それどころじゃないって! どういうことなの! なにか悪いことに関わってるんじゃないの? 最近、夜出歩いてるの、母さん知ってるわよ! 何処にいるの? 今からタクシーで迎えに行くから場所を教えなさい!」


「ちょっと落ち着いてよ!」


「今まで言ってなかったけど、GPSの機能で何処にいるか調べればわかるのよ。今すぐ行くから待ってなさい!」


「母さん、待って! 来ちゃダメだ! 母さん! 母さん?」


 電話を切られてしまった。かけ直しても電話にでてくれない。……ああ、どうしよう……。ああ……ああ! すっかり忘れていた。


 ボクが逮捕され、荒野が逮捕されても、終わりじゃない。母さんはどうなる? どうなってしまう? 荒野は別の誰かを使って、母さんを陥れるのかもしれない。いや、間違いなく、そうするだろう。キララは間接的に殺され、ユウジくんは何年経っても、男相手に売春させられている。憎悪を何倍にもして返し、さらに金に換える。きっとそれは赦される事なく、一生、続いていくのかもしれない。ユウジくんに与えられているような苦痛を……死ぬまで? ボクを産んだだけの母さんに? 父さんが死んでから、夜遅くまで必死に働いて、ボクの朝ごはんと晩ごはんを毎日、手作りしてくれている、母さんに? 


 ボクが悪いんじゃないか! ボクだけが悪いんじゃないか! 母さんは何一つ悪くない! 母さんはボクを一人で必死に育てただけなのに……。


 悪いのはボクを虐めた本間だ! 藤代だ! 岩屋だ! 集会に参加したヤツラだ! そして田口をはじめとする、机に落書きしたり、給食に汚物をいれたり、陰口、悪口を言ってたヤツラだ。ボクを無視してたヤツラだ。


 ボクは何も悪くないじゃないか! ボクがこんな事になってしまったのは全部アイツらせいじゃないかああああ!


 母さん、ごめん。どうしていいかわからないや。ボクは幼児のように泣きじゃくった。そして、ふと本間の葬式のことを思い出した。あのどうしようもないゴキブリ以下の本間にも母親がいたことを。とても優しそうな母親がいたことを……。


 ボクが母さんを思うように。母さんがボクを思うように。本間の母親は、息子の本間を大切に思っていたに違いない。葬式で泣いていた本間の弟と妹。母子家庭で、本間は頼れる良き兄だったのかもしれない。ちょっとしたストレスを暴力に変換していただけなのかもしれない。たまに立派になった大人の元ヤンキーが母親に恩返しする話を見聞きするが、本間がそれに成りうる可能性もあったのかもしれない。


 大怪我した藤代や岩屋の親は何を思っているのだろう。きっとボクはヤツラの家族にとてつもない精神的苦痛を与えているに違いない。


 ボクは荒野と何ら変わらないのかもしれない……。全身の力が抜けて涙が止めどなく溢れでてくる。地面と壁にへばり付き重くなる身体。


 放心状態だった滝沢先生が何かに反応した。ボクはもうどうでもよくなっていたが、次の瞬間、この身体はギュッと縮こまり拒否反応を示した。


 木製のドアが爆音と共に吹っ飛んだのだ。背後から照らす常夜灯が男を真っ黒に染めていた。


 どうしてここがわかった? 車からだいぶ離れたし、こんな奥まった納屋のような倉庫なのに……。


 でもちょっと考えればすぐにわかった。母さんに電話した教育実習生は荒野に間違いない。母さんを使って、外部に助けを求めることを牽制した。


 GPS…….? そうだGPSに違いない。吉澤を拉致した時、ボクは眠らされた。その時にケータイにGPSで居場所がわかるようにされたんだ。そうか、母さんと電話着信音や会話をしていた事も、音で正確な位置も判別するのを手伝ったのだろう。


 カラカラと音を立て金属製の棒を引き摺り、黒い悪魔はボクの方へと歩をゆっくりと進めてくる。殺される。その棒でメジャーリーグのスラッガーのようにボクの頭目掛けフルスイングするのだろうか。頭蓋骨はスイカのように割れて、あのぐじゅくじゅした脳みそを本間と同じように垂れ流すのだろうか。きっと即死だろうな。即死なら、それも悪くないかもな。


 身体が動かない。脳と身体が分離してしまったようだ。ボクは完全に諦めて、唯一、動かすことができた瞼を閉じた。


「や、やめっ、やめなさい!」


 滝沢先生の上擦った声に、閉じたはずの瞼が上がった。滝沢先生は涙と鼻水を垂らしたまま荒野を睨みつけていた。その力強い眼光はボクのことを守ろうする意思に満ちていた。女性である滝沢先生の方が怖いはずなのに……。きっとこんな怖い思いなんてしたことないはずなのに……。滝沢先生はボクなんかのことを守ろうとしてくれている。ボクが諦めたら、生きることを諦めたら、滝沢先生はどうなってしまうのだろう。きっと……いや、絶対に、犯され、動画を撮られ、それをネタに強請られ続ける人生を送ることになる。結婚するって言ってたのに、子供すら産めなくなる身体にされてしまうかもしれない。ボクが先生を巻き込んだんだ。そんなことはあってはならない。それにしばらくしたらこのケータイのGPSを追って、母さんが来てしまう。


 滝沢先生と母さんを守れるのはボクしかいない。この悪魔を止める。殺してでも止める。荒野を殺したら、ボクも死ぬ。ボクもきっと悪魔だ。悪魔になってしまったんだ。ボクも殺す。荒野も殺す。殺す。殺す。殺す。殺さなきゃならない。


 ボクは銃を抜いて黒い悪魔に銃口を向け、引き金を引いた。


「荒野おおおおおお!」


 荒野は咄嗟に身体を横に向け上着で頭部を覆い隠したままボクに突進してきた。体当たりを受けたボクの手から銃が離れる。


「同じ手、二度もくらうかよ!」


 そう叫んで荒野はボクを殴った。キーンという音が鳴った後、ボクは殴打され続け、痛覚はすぐに薄れ、意識を失いかけていたその時、震えた声が響いた。


「う、撃つわよ! 河内くんから離れて!」


 滝沢先生が銃を構えている。


 荒野はムクッと立ち上がり、滝沢先生の方へ向かっていく。ボクは声にならない声で、やめろ、と言ったが、まったく届いていない。


「撃てよ。さあ、撃てよ。殺さねえと、俺は止まらねえぞ。殺ろしてみろ!」


 どんどん近づいていき、荒野は滝沢先生の構える銃口を咥えた。怯える表情の滝沢先生は銃から手を離し腰を落とした。そして荒野は滝沢先生の頭を蹴り飛ばした。滝沢先生は横に倒れ、ぐったりとして動かなくなってしまった。


「ああ! 先生! 先生!」


「お前は自分の心配してりゃあいいんだよ!」


 荒野の顔は赤黒くなっていた。血が変色し固まり始めているり左目は銀のアルミ玉が減り込んでいるのだろうか。でも右の鎌の眼は鋭く光りボクを捉えてつづけている。そのおどろおどろしい顔面は人とは到底思えない。コイツは地獄に棲みつく本物の悪魔だ。


 そして荒野はボクを蹴り続けた。意識を失いかけると腹を蹴り、気絶しないようにしている。でももうダメだ。眠りたい。でもすぐに息苦しくて目を覚ます。温かい。臭い。荒野は気を失っていたボクの顔に小便をかけていたようだ。抵抗する気力もない。


「コーチ! 起きろ! 眼を開けろ! 俺の顔を見ろ!」


 赤黒い悪魔の顔がすぐ側にあった。冷んやりした硬い金属が左目に押し当てられた。


「お返しだ」


 パシュッ! という音と共に異物がボクの右目に減り込んだ。


「あぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!」


「もっと叫べええええ!」


 荒野は高らかに笑い、残りの玉でボクを撃ち続けた。


「ああ、もう飽きた」玉の出なくなった銃でボクを殴り付ける。「お前の母ちゃん、ここ来るの? 来る前にヤることヤッておこうっと」荒野はズボンを脱ぎ捨て下半身を露わにし、滝沢先生の足首を持ちボクの方へ近づけた。「コーチには特等席で大人のセックスを見せてやるよ」滝沢先生の股を開く。


 やめろ……やめろ……先生に手を出すな。先生にそんな異物を刺すな。やめてくれ……。身体が思うように動かない。顔面の痛みがボクの意識を遠のかせる。視界は霧が濃くなるように真っ白になっていく。その霞がった世界に女性の人影が……。


「……みゆ……みゆ……が……きてるぞ……おまえを……みてる……いま……そこで……おまえを……みてる……ないてる……みゆが……おまえをみて泣いてる」


 荒野は慌てて辺りを見渡した。


「テメエ、いい加減なこと、言いやがって」


「ほんとうに……いる……うしろ……ほら……みえないのか……」


 荒野は立ち上がり後ろを振り返る。


「どこだ! どこだ! ミユ! ミユ!」


 あれ……? 懐かしい感触た。ボクの指先をざらついた舌で舐める猫。シロ……? シロじゃないか? どうしたんだシロ! ボクがシロの存在に気付くとシロが慌てて逃げ出していく。どうしてだよ、シロ! ボクは全精力を振り絞り上体を起こした。閉じていた瞼を開けると、ボクは絶句した。


 本間がボクを覗きこんでいたのだ。なんだ……ボクは死んだのか……。地獄の底でボクのことを待っていたのか。でも、もうお前なんか怖くないぞ。何故ならボクは本物の悪魔と対峙したからだ。オマエもその悪魔に殺されたんだ。でも、ごめんな、ゴキブリみたいなオマエでも殺した事は間違ってたよ。オマエにも家族がいたんだよな。本当にごめんな……。


 本間はボクを覗き込んだまま、無表情だったが、ボクから視線を逸らし違う方向見始めた。テメエ、ボクがこんなに真剣に謝ってるのにシカトかよ。おい! 本間! なんとか言えよ! ボクの呼びかけに反応はしないが、本間の表情が変わっていく。悲しそうだ。ボクは本間の見てる方向に目をやった。


 オマエも滝沢先生にだけは弱かったよな。助けるよ。死んでも助けるよ。


 ニャーと鳴きながら擦り寄ってくるシロ。シロはボクの胸に前足を置いた。そうだ、シロから授かった銃は一つだけじゃない。もう一つある。


「ミユはボクの後ろにいるぞ」


 荒野はボクを見た。


「荒野……オマエ、ミユに惚れてたんだろ? ミユが言ってるぞ。姉弟なのにずっと気持ち悪かった、って」


 荒野は何か叫び頭を抱え天を仰いだ。本間がボクに歩み寄り消えた。不思議と身体に力が入る。そしてボクは身体を起こし荒野の股間に向かって、引き金を連続で引いた。


 荒野の股間から血飛沫が上がり、呻き声を上げそのまま蹲った。ボクは立ち上がり、荒野が持ってきた金属の棒を手に取った。


「ボクが見送ってやるよ。もう終わりだ、荒野。地獄の底でまた会おう」


 ボクは荒野の頭に棒を振り下ろした。何度も……何度も……。そして、頭から何かが飛び出してきて、ようやく、荒野は生きていないと判断した。


 ボクは荒野を引きずって倉庫の外に移動した。倉庫には一斗缶のストックがたくさんあった。火気厳禁の物を選び、荒野にその液体をかけた。そして荒野の上着の内ポケットから煙草とジッポライターを抜き取った。ジッポライターは冷たくズシリと重かった。


「一度やってみたかったんだよな」


 ジッポをチンッ! と鳴らし煙草に火を着け、大きく吸い込むと、盛大に咳込み涙を流した。よくもこんなものを旨そうに吸っていたもんだ。ボクは泣きながら笑った。


 荒野……オマエもある意味で被害者だな。オマエのような悪魔を生み出したのはミユに危害を加えていた悪魔だ。じゃあ、その悪魔を生み出したのは誰だ? どこから生まれた? きっと悪魔は誰にも棲みついているのかもしれない。人は誰だって悪魔になり得るってことかもな。


 荒野……オマエだってミユに何もなければ、オマエという悪魔は生まれなかったかもしれない。


 人は自分より下だと思う人を見つけると蔑んだり貶したりする。その心が悪だ。ボクだって心の中で他人を蔑んだり貶したりしたことはある。人間、誰しも根本は悪魔なのかもしれない。いや、きっとそうだろう。神はこの地球上に75億もの悪魔を創った。そして悪魔が悪魔を産み育て悪の連鎖は止まらない。


 この世界は最初から終わってる。希望も何もない。自分の私利私欲を何もよりも優先し、楽しくなりたいという理由だけで、他人を傷つけ、笑い者にし、欲求を満たす生物。それを悪魔と呼ばず何と呼ぶ?


 そして、その悪魔たちに虐められていたが人間が悪魔を殺し、悪魔を傷つけ、ボク自身も悪魔になった。


 だからもうボクは自分を殺す。


 ボクは荒野に煙草を投げた。すると一気に燃え上がり、悪臭が立ち込めた。悪魔が焼かれグロテスクに燃えていく様を見つめていると不思議と心が穏やかになっていった。黒い煙は闇夜に溶けるように消えていく。


 このガス銃でも喉に打ち込めば死ねるはずだ……。死ねなかったら嫌だから、その時は荒野と一緒に燃えよう。ボクも液体を頭からかぶり、銃を咥えた。


 クソみたいな人生だったなあ……。何一つ良いことなんてなかった。あったかもしれないけど、全部忘れちゃったよ。それくらい、辛いことだらけの15年間だったよ。しかし、なんでこんな辛い思いまでして生きてきたんだろう。どうしてボクという人間が生まれてこなきゃいけなかったんだろう。どうして悪魔になっちゃったんだろう。もういいよ。こんな世界……。


「河内くん!」


 引き金を引こうとした指が止まる。空耳だ。引き金を引け! さあ! ヤれ! 殺せ! 自分を殺せええええ!


「ダメよ」


 いいから、早く! さあ早く! 殺せ! 何もない! 誰もいない!


「きゃああああああ!」


 叫び声と同時に熱い真っ赤な液体がボクに吹きかかった。振り返ると火だるまの荒野が血飛沫を撒き散らしながら上半身を起こし腕を上げているではないか。


「うああああああああ!」


 堪らずボクも叫び声を上げた。咄嗟に逃げようとするが腰が抜けて動けない。


 死んでなかった。殺される。脳みそをぶち撒けたはずの荒野が蘇ったんだ。道連れにするつもりだ。荒野に捕まれたらボクも燃えてしまう。


「河内くん!」


「先生……」


 滝沢先生は液体まみれのボクに覆い被さるようにして抱きついた。血飛沫が遮断される。滝沢先生の背中越しに聴いたこともないような呻き声が鳴る。ボクは錯乱して叫び声を上げた。


「落ち着いて! 河内くん! 落ち着きなさい! 私を見て」


 滝沢先生はボクの顔を掴んで自分の方へ向けた。血の雨を背に潤んだ瞳は真っ直ぐにボクだけを捉えていた。赤黒い血飛沫で汚れた美しい顔は儚げで脆くて今にも壊れそうなのに、その表情には、この地獄の悪魔からボクを必死に守ろとする強い意志が宿っていた。


「私に捕まって!」


 滝沢先生はボクを引き起こし、血飛沫と呻き声と連続する破裂音を背に、命からがら火だるまの荒野から引き離した。


「大丈夫?」


 ボクは泣いていた。安堵したのだろうか。死ぬつもりだったのに、生きることにしがみついてしまった。死にたかったんじゃないのか? こんな世界、こんな人生、これ以上生きてたって何もないのに……。あの悪魔に燃やされればよかったはずなのに……。


「遺体を燃やすと、ああやって動いたりするって聞いたことがあるわ」


 荒野は黒くなって丸まり横たわって燃えていた。


「ねえ、河内くん、あなたなんてことをしたの? わかってるの? 自分が何をやったのか!」


「……もう先生を守ることしか頭になくて……それで荒野を殺して……それで……もう、ボクも死ぬしかないと思って」


 滝沢先生はボクの言葉を遮った。


「逃げるの? 自分が悪いことしたからって逃げるの? 死んでも逃げれないわよ!」


「…………」


「卑怯よ。自分が犯した罪から逃げるの? 罪を償いなさい! 一生かけて死ぬまで償いなさい!」


「償えるわけないじゃないですかああああ! ごめんなさい、辛いです、生きているのが辛いんです。やっぱり死ぬしかないんです。ごめんなさい」


 ボクは立ち上がり悪魔の火へ近づくと滝沢先生は慌てて駆け寄ってボクを抱きしめた。


「離してください!」


「ダメよ! 離さない!」


「離れないと、先生も燃えちゃいますから!」


「やりなさい! 一緒に燃えてあげる! 焼け死んでやるわよ! 河内くんが全てをかけて私を救ってくれたのなら今度は私が命懸けで君を救うの!」


「何言ってるんですか!」


「だって河内くんがこんな事になったのは先生のせいだもの。私がもっと全力でいじめを無くせていたら、河内くんが罪を背負わなくてよかったんだから」


「先生のせいじゃない! ボクが悪いんです。ボクだけが悪いんですよ。ボクはただの人殺しなんですよ!」


「もう河内くんだけの問題じゃない。河内くんをこんなにさせてしまった。私の罪でもあるの。罪は何をやったって一生消えないの。だから私もこの罪を一生一緒に背負う。河内くん一人に背をわせない。だから約束する。私は逃げない。罪から逃げない。河内くんから逃げない! 信じて! 信じなさい!」


「……口では何とでも言えますよ……ボクはいつだって独りだ。信じたってきっといつか裏切られる」


「そうかもしれないわね。でもそうじゃないかもしれないわよね?」


「…………」


「生きて確認しなさい。私の言ったことを河内くんが証明してよ!」


 ボクは泣き崩れた。


「神様とか、他は何も信じなくていいから、私のことだけは信じなさい!」


 深く頷いて子供のように泣きじゃくるボクのことを、滝沢先生はいつまでも強く抱きしめてくれていた。






 完

 2021.11.27


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自分を殺す前にすべきこと 大堀晴信 @horiharu

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