シャットダウン
駅の改札からぞろぞろと溢れ出てくる人並みの中だと一際存在感を放っている。白く光って見えてしまうのは白いコートだけのせいなのだろうか。
ボクは距離をとって後をつけた。駅から離れるにつれて人気が少なくなっていき、公園の前に差し掛かると、ボクは声をかけた。
「滝沢先生!」
ボクの呼びかけに、滝沢先生は脚を止め、髪を靡かせて振り返り、口を押さえて動きを止めた。ボクを誰なのかを必死に認識しようとしている。制服を着ているから生徒だと判断はつくだろうが、こちらから滝沢先生の表情が見えないように、この暗がりでは滝沢先生からもボクの顔は見えてないのだろう。
バッグを前に抱え、若干、前屈み気味にボクの方へ徐々に歩みを進めてくる。
「……河内くん!」
ボクだと認識すると小走りで駆け寄ってくる。警戒心が解かれたのが分かったが、すぐに疑念を表情に浮かべた。
「でも……どうして?」
ボクが知るうえで、初めてみる滝沢先生の動揺ぶりだった。
そしてボクも動揺していた。教師ではなく一人の女性としての滝沢先生に少し戸惑っているのかもしれない。学校以外の場所では見え方が違う。それは背景や環境なのか、もしくは滝沢先生が教師であるという気概を学校以外では取り払っているせいなのか、いずれにせよ、学校とは違う綺麗な大人の女性だった。色気というものが、これなのかと勝手に解釈することにした。
ボクはそんな女性に対して、これから何をしなければならないのだろう。
「学校ではできない話があって……、先生の後を追っていたら、此処までついて来てしまいました。ごめんなさい」
「いいの、いいの、謝らないで。それより何か話したいことがあるの?」
「……はい、そうなんです」
「ちょうど、そこにベンチがあるから、座りましょうか」
公園のベンチの前で声をかけるのは荒野の指示だった。振り返れば、ワンボックス車が停まっている。駅まではあれに乗ってきた。車内で何をすればいいのか全部指示を受けた。まるで他人事のように返事をして頷けていたのは現実味がなかったからだ。
でも実際、滝沢先生を目の前にして、荒野の指示を実行しなければならないのだろうか、実行できるのだろうか。実行していいのだろうか。ダメに決まってる。なのに何故か、逆らうという選択肢はない。従うのがきっと当然の事。当たり前の事。幼児が親の言うことを信じて疑わないのと同じように、ボクは荒野の前ではただ良い子でいればいい。
滝沢先生がベンチに向かうとボクは近くの自販機へ走って、ペットボトルのお茶を2本買った。キャップを開けて滝沢先生に手渡す。
「寒いんで飲んでください」
「そんな気を遣わないでいいのに」
なにか自分が大人になったような気分になり少し照れ臭くなった。
でも滝沢先生は財布から小銭を取り出し、ボクの手の平を強引にこじ開け握らせた。黒板にチョークを走らせている時の俊敏さとは対照的で、柔らかくて細い指先はすごく華奢で、ボクの指に滑らかに絡みついた。握り返したい衝動に一瞬駆られたが、その気持ち良さがボクの身体をフリーズさせた。
「教師が生徒からご馳走になるわけにはいかないわ。でも、気持ちだけ頂いておくね」
にこりと笑う口許から白い息ふわりふわりと踊っていた。白いコートを着ているせいだろうか。肌が白いせいだろうか。街灯がその滝沢先生を背後から照らしてるせいなのか、白く淡く光って見える。この人は本当に本当に真っ白だ。改めて純真な存在なんだと思わされる。
「あったかあい」
両手でペットボトルを握り締め、緩んだキャップを外した。緑の液体がぷっくらした薄紅の唇の中に流れていく。見惚れてしまっていた。滝沢先生の流し目にドキリとし、ボクも慌ててお茶を流し込むが、気管支に入りむせかえしてしまう。
「ちょっと、河内くん! 大丈夫!」滝沢先生はボクの背中を慌ててさすった。
「だ、大丈夫です。へ、変なとこに入ってしまって……ぐふぇっ!」
「河内くん、鼻水出ちゃったね」滝沢先生は笑いながらポケットティッシュをボクに差し出した。
「すみません」
慌てて鼻を拭うボクを見て滝沢先生は声を出して笑った。あまりにも楽しそうに笑うから、ボクもつられて笑った。しばし二人で笑い合った後、滝沢先生がぽつりと零した。
「河内くんがそんな風に笑うの初めて見た気がする」
優しい瞳がボクを包み込んでいた。ボクは母親以外で初めて人の視線に温もりのようなものを感じた気がする。白い息が出るほど寒いのに胸の中が暖かい。
「最後に河内くんのそんな笑顔が見れてよかったわ。……なんていうか、私……。河内くんを助けてあげられなくて。辛い思いさせてしまって……。教師失格よね」
「そんなことないです! 先生は、滝沢先生はボクにとって最高な先生です。いつもボクを気にかけてくれて、守ってくれたじゃないでか!」
「そうかな? いじめはなくなったみたいだけど、それは河内くんをいじめてた子が学校に来なくなったからからよね? 私は何もできなかった」
「違います。そんなこと言わないでください。ボクは滝沢先生に救われていたんです。ボクを必死に守ろうとしてくれてたのは伝わってました。だから自信を持ってください。今後もボクみたいなヤツを助けてやってください!」
滝沢先生の瞳から大粒の涙が幾つも溢れ落ちる。白いコートはその雫を何度も受け止めてはすぐに消してしまう。その雫を止めてあげたいけど、染みは広がっていくばかりで、無力で情けないヤツだと自分を責めるしかなかった。
しばらくして滝沢先生はティッシュで目許を押さえ、気持ちを落ち着けようとペットボトルのお茶を長めに傾けた。ボクもお茶を飲む。温くなっていた。
「本当は生徒には言わないつもりだったけど、内緒にしてね。先生……河内くん達と一緒に卒業するのよ。つまり辞職するの。少し、色々とありすぎたしね……。それに結婚するのよ。これもいい機会かなと思ってね。たくさん子供産んで、自分の子供たちに囲まれることが、先生の夢なの。だから今は前向きなのよ」
本間が死に、藤代は不登校になり、岩屋は大怪我で入院、そしてボクへの虐めが明らかとなり、担任教師として、何らかの責任追求があったのは想像できる。でも考えようとしていなかったから、今更、気がついた。
全部、ボクがやったこと、関わったことで、滝沢先生を追い詰めていたのかと思うと、居た堪れない気持ちになった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさいボクなんかいなければ、滝沢先生が教師を辞めなくて良かったのかもしれなかったのに……」
ボクは堪えきれなくなり、涙を零した。ボクの復讐が、たった一人の恩人の職を奪った。未来を奪った。人生を変えてしまった。そして何より滝沢先生の心に深い傷を負わせたのかもしれない。ボクが本間を殺さず、藤代や岩屋に危害を加えず、暴力を受け続け、便所味の給食を食べ続け、卒業していれば、滝沢先生は教師を辞めずに続けていたのかもしれない。
隣で大きな物音がした。滝沢先生の足下にペットボトルが横たわっている。
「……滝沢先生?」
「……ほんなほとより、あれ……ごめんらさい……なんか、きゅうにねむく……な」
滝沢先生の身体の力は抜けていき、首は折れ曲がりぐったりと背もたれにへばりつく。徐々に身体は傾きボクの肩に体重がのし掛かる。
本当に……本当に、あんなに小さな薬が効いた。半信半疑だった。さっき自販機で買った時に手渡す前に指示通り仕込んでいた。
何か背後の方から風のようなものを感じた。それはそよ風のように気持のいいものではなく、どんよりと湿った粘り気のある悪臭のような澱んだ嫌悪の圧だ。
「時間かかり過ぎだぜ」
知らぬ間に荒野は背後に立っていた。滝沢先生の背後から両脇に手を入れて、いとも簡単に持ち上げた。ベンチの背もたれに白くて細い足首が引っかかる。ペットボトルのお茶が黒い水溜りを作っていた。
「何やってんだよ。早く脚持てよ」
小声だが怒りが滲んでいる。黒いワンボックスの後部のドアが既に開いている。震える手でその細い両脚を抱えると滝沢先生の身体が車の中へ吸い込まれていく。落とさないようにボクも引き摺られていく。
……ああ、滝沢先生! 起きて! 滝沢先生! 滝沢先生! 心の中で連呼しても滝沢先生はぐったりとしていた。
「早く乗れ!」
鎌の眼にボクの身体は従順だった。考えるよりも先に行動していた。そしてボクは脳をシャットダウンした。
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