もうこの自分の部屋ですら気が抜けなくなってしまった。荒野の言動から推測すると、この部屋に盗聴器が仕掛けられている事は間違いない。もしかしたらカメラも仕掛けてある可能性もある。ただ固定電話の盗聴まではできていなかったらしい。ユウジくんとの電話での会話は、殆どユウジくんが話していたため、ボクの受け応えのみで、荒野は大体の会話の内容を推測するしかなかったのだろう。


 しかし、荒野のあの激昂ぶりからすると、過去のことは触れられたくないのだろう。


 荒野は、自分の手を汚さない、とユウジくんが言っていた。いくら人気のない場所とはいえ、あれだけの暴行はリスクがある。


 しかも荒野の暴力には殺意があった。本間たちがボクに行っていた肩パン(肩にパンチ)や関節技やフットスタンプのように痛めつける類いではなく、肉食獣が獲物の首に噛み付くように急所を狙っていた。


 そしてあの状況で荒野が冷静を取り戻すきっかけとなったボクが言った『警察』というワードに反応したんだ。荒野は『自分の手を汚さない』はずなのに、本間を殺した時、車を窃盗し、ボクと荒野は共犯者になった。何故、ボクなんかの為に荒野は自分の手を汚した?


 ボクは部屋中を見渡した。カメラはあるのだろうか。ボクは部屋を出て、あえて階段で14階へと向かった。


 やっとの思いで辿り着くと、煙草の臭いがする。欄干にはブラックの缶コーヒーが並んでいて、闇夜に煙を燻らす荒野が居た。


 溢れ出るように口から零れる白い煙の塊は鎌の眼を渋らせ、その浅黒い皮膚に染み込むようにして消えていく。煙草の先に伸びていく灰はなかなか折れずに絶妙な形を保っている。その灰はまるで生命だと思った。生命にも火が灯り、生命は徐々に短くなっていく、ただ燃えても消えているのではない。大抵の人間は灰など吹き飛ばしてしまうのだろうが、ボクには灰がぶら下がったままだ。白と黒の燃えかすは長い時間をかけ凝固して歪な形にボクを曲げていく。ボクは今後もそれをぶら下げたまま生きていくのだろうか。


 ふっと風が吹き、灰は吹き飛んだ。荒野は下を覗き込んで極端に短くなった煙草を投げ捨てた。ボクはそれを目で追った。


「あれ、俺ん


 煙草は向かいの一角にある一軒家の方に落ちていった。庭が大きくて敷地面が広い立派に見える戸建てだ。こんなにも近くにあるのに初めてその存在を知った。それもそのはずで、ボクの住む2階からは見えない角度にあるからだ。


 あの家の窓が見えるということは、向こうからも此処が見えるということ。そして階段を登るボクも見えるはずだし、盗聴器か何かで部屋を出たのを察知し、あの家から急いでエレベーターを使えば、ボクより先に此処に着くことは容易だ。いつだってタイミング良く現れるから、てっきりこのマンションの14階に住んでいると思っていた。


「なあ、コーチ。ユウジから何を訊いた?」


「あなたの名前が荒野だってこと。そして、あなたには姉がいたこと」


「他には?」


「…………」


「いいから言えよ」


「酷い虐めがあったと……」


 荒野は缶コーヒーを握った。そして振り上げ欄干に打ちつけた。甲高い音と共にスチール缶は爆発したように黒い液体を撒き散らした。無数の黒い染みがボクの服にできていた。顔にもかかっているが拭うという選択肢はなかった。動けない。


「あれは虐めか? なあコーチ、あれはただの虐めなのか?」


「……い、いえ、ボクは犯罪だと思います」


 荒野はじっとボクを見ていた。


「ヤツラは命を奪わないで心を殺すんです。楽しみながら心を殺すことができる愉快犯なんです。ただの鬼畜です」


「……集金のことも、ユウジから訊いてるだろ。俺のやってることは間違ってるか?」


 ユウジくんのことを思うと即答できなかったが、鎌の眼が同意を強要している。それにユウジくん以外のヤツラは罰を受けて当然だと思ってることに嘘はない。ボクは首を横に振った。


「お前なら……コーチなら、わかってくれると思ってたよ」荒野は安堵したように微笑んで、飲めよ、と言ってもう一つの缶コーヒーを優しくボクに放り投げた。ボクは取り損ない落っことしてしまうと、荒野が笑ったので張り詰めていたものが一気に緩んだ気がした。


「ある時、階段を登って最上階へ向かうアイツを見たんだ」荒野は何かを見上げるようしてに呟いた。「それが毎日続くようになった。エレベーターも使わずに雨の日も風の日も時間をかけて、階段を一段一段昇り、べつに綺麗でも何でもない夜景を見る。俺はその行為を疑問に思い。エレベーターを使い、アイツを背後から覗くとアイツはずっと地面を見ていたんだ」


 ミユのことだと悟った。荒野は煙草に火を着け、深呼吸するように深く煙草を吸い込んだ。吸い込んだはずの煙がなかなか出てこなくて、身体の中に消えてしまったかと思った。が、一気に噴き出た。


「アイツは欄干に脚をかけたんだ。あの時のコーチのようにな。俺が止めていなかったらアイツはこの下でぐちゃぐちゃになってた。……コーチもな」


 鎌の眼はボクを見た。その表情をボクは初めて見た。そしてすぐに理解した。これはボクに向けた表情ではない。ボクの向こうにミユを見ていると。


「アイツは涙も流さず、俺が突然現れたことにも驚かず、ただ微笑んだ。そして何事もなかったかのように俺の手を引いてエレベーターで下へ降りた。帰っても笑顔で飯食ってして、あれは何だったのかなんて、忘れてしまうくらい久しぶりに夜更かししながらポテチ食って二人でゲームをして楽しすぎて疲れて、そのまま眠ちまった。起きたら大騒ぎでよ。警察がアイツを探してるんだよ。まるで指名手配だ。アイツは包丁で複数の生徒を切りつけ逃亡中だという事だった。そしてすぐに踏切で事故があったんだ。嫌な予感がした。アイツは……」


 鎌の眼が歪みだし、煙草を待つ指が震え始めた。煙草をギュッと握り潰し欄干を叩く。火の粉と灰が巻き上がった。


「細切れの肉片になっちまった!」奥歯の軋む音が聴こえてきそうだ。「学校も警察も理由を深く追求せずにすべて包丁で切り付けたアイツのせいにしたんだ。でもよ、アイツは俺に託したんだ。俺のベッドの枕の下にアイツのケータイがあったんだ。ロックのかかってないそれを開くと、『最後の夜、楽しかった』って打たれていた。俺は死ぬほど泣いたさ。でもよ、本当にアイツが……ミユが、伝えたかったのは、そんな事じゃなかった。日記、音声、動画、証拠の数々……。見るに耐えなかった。聴くに耐えなかった。でも俺は一語一句、一挙手一投足、目に焼き付けて、ミユに対して誰が何をしたかを頭に叩き込んだ。奴らにそれ以上の苦痛を与えるためにな。ミユが託した想い、願い、怨み、それを果たすことが、俺の使命になった。細切れの肉片になっちまったミユに代わってな」


 ユウジくんから訊いた話からは得られなかった実情は、ボクの胸の奥を突くものがある。


「葬式が終わった後もミユは階段を登っていた。そして14階から見下ろすんだ。何か言いたげな目で、此処にいる俺のことを……。だから俺も14階に行くけど、会える事はなかった。そんな事を繰り返してたら、コーチがいたんだ。きっとミユがコーチを連れて来たんだ。この子を救ってやれってな」


 自然と涙が溢れてくる。止めどなく零れる涙の理由がわからない。声を上げて嗚咽することもなく感情とは別の何かだ。でもその何かを説明できない。でも、そんなオカルトチックな話は信用できない。


 だけどなんだったんだろうと思う。田口を彫刻刀で刺し、本間を殺し、ガス銃で人間の眼に撃ち込み、藤代と岩屋を大怪我させた。普通の人間がすることではない。それをやってのけたのはボクだ。ボクが普通じゃないのか。ミユがボクをそうさせたのか。信じられない。いや、信じなくていい。ボクの脳みそに従いボクの血と肉が動いた。ただそれだけのこと。


 でも確かにわかったことがある。荒野がボクのために本間殺害の共犯者になった理由は、ミユだった。


「なあ、コーチ、お前ならわかってくれるよな? 神に代わって天罰をくだしてるだけなんだ」


 ボクは涙を拭い深く頷いた。荒野の言ったことはボクの考えていたことと、殆ど同じだった。ただ何かは違っていた。それは違和感のようなもので、具体的な何かはわからなかった。


「もうコーチを恐怖で支配する必要はなくなった。田口も調子に乗り過ぎちまってる。アイツ気になる女の生理周期まで把握してやがってよ。この日にしたい、なんて言ってきやがるようになっちまった」


 張り詰めていた空気が一気に緩んだ。


「なあ、コーチ。……お前にとっての神は何だ?」


「……神……とは?」


「コーチが信じるものだよ」


「母ですかね」


「は? 母ちゃんが神? 違えだろ? まあ、間違っちゃあいねえか。母ちゃんは親。無償の愛があって、それを当たり前のように無条件にそれを受け入れている。俺の言ってるのは信仰のようなもんだ」


「……ああ、それなら担任の先生がそれに近いです。虐められてるボクを、本気で心配してくれて、この世でただ一人、助けてくれようとした人です」


 荒野が薄く笑ったままボクに近づいてきて、彼の腕が動いたと同時に、ブラックアウトした。


「オイッ! てめえ! もう一回言ってみろ! お前を救ったのはミユと俺だ! ミユが俺とお前を引き合わせ。俺が本間を消してやったんだ! そしてお前の世界が変わったんだ。世界を変えることができるのは人間じゃない。神だ。神しかいない」


 殴られたのだろうか。わからないけど、ゆらゆらと視界が揺れている。そして誰かに肩を抱かれている。深く暖かい海の中で何か囁かれている。……神……ミユ……俺……お前……。


「もう一度訊く……コーチ、お前の神は何だ?」


 おお……神よ……あなたは何処に居る? あなたが本当にいるのなら助けてください……。神様お願いします。神様……神様……。


「……神様……あなたです」


 荒野は腹を抱えて爆笑した。


「知ってるぞお、あれはイイ女だ……。真っ白な女だ。一目見ただけでわかるぜ。一点の染みもないって感じでよお。田口から訊いてるよ。あんな、純真無垢のような美人教師が、虐められっ子を必死に守ってくれるんだってなあ」


 意識の遠くで鳴っている声はボクの中にじわりじわりと染み込んでくる。


「滝沢先生は神じゃねえぞ! あれはただの女だ。お前はただ綺麗な女に惚れてるだけだ。田口も最初はそうだった。俺にビビっちまって泣き叫んでよ。だけどどうだ。女、用意して、ヤラせてやったら、ただのジャンキーだ。女とヤるためだったら何でもするようになっちまった。例えば、松葉杖を凶器にして相手の顎を砕いちまう犯行現場の盗撮とかさ」


 もう気づいた時には荒野に抱えられエレベーターの中にいた。エレベーターが止まり、ドアが開くと、荒野はボクを小突いた。ボクは2階に降ろされドアが閉まる。そして荒野の口はこう動いていた。


 アシタヤルゾ……。

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