怒り

 相変わらず集金活動は続いている。ユウジくんと電話で話してから、集金相手の顔を見るようになった。どの人もまさに死んだ魚の眼をしていた。彼等には贅沢するような金はないし、恋人もつくれない。きっと娯楽なんて殆どないのかもしれない。


 ただ同情はできなかった。何故ならボクはミユと似た立場だからだ。ヤツラは本間や藤代や岩屋と同じ人種だ。正直いうと自業自得だと思う。だから荒野に対して共感に似た感情を持ち始めたことは否めない。


 結局は『いじめ』なんて軽くいうけど、やってることは犯罪。もしもボクやミユに行われていた行為が、成人が勤める企業で行われていたら、名誉毀損、傷害、暴行、婦女暴行……。社会的に抹殺される。


 学生生活の犯罪行為は『いじめ』という言葉に変換され、人が死んでも『過ち』とか『悪ふざけ』ということで忘れさられる。


 ただ、この人の顔を見ると心が居た堪れなくなる。ユウジくんだ。彼の場合は虐めてはいない。キララのガセネタにより躍らされ、ミユを貶める発言をしてしまった。


 他のヤツラなんてどうでもいい。だけどユウジくんだけは、赦してもらえないだろうか。本気で荒野に懇願してみようと一瞬考えたがやめてしまった。横顔を覗き見ただけで、怖い、ただ単純に荒野が怖い。それだけの理由だった。


 ユウジくん……改めて見ると昔の面影は残っているが、ユウジくんだと知らなければ、何処かですれ違ったとしてとも気がつくことはないと思う。最後に見た小学六年生の彼は明るかった。誰からも慕われ、ボクは憧れていたんだ。


 だけど、今のユウジくんからは当時と同じ印象はない。ユウジくんも例に漏れず、死んだ魚の眼で、ボクを見て何かを訴えていた。


 助けを乞う捨て犬のような眼でもあるが、この前の電話の内容を訴えるような眼でもある。つまりはどうしようもないし、何もわからない。でも何か一言だけ言いたかった。


 頑張って? 負けないで? 諦めないで? 応援してる? ファイト? ……どれも当てはまらない。でも……。


「ユウジくん、一緒に耐え抜こう」


 ボクがそう言うと、ユウジくんは奇声を上げた。えっ! ボク、何かした? 


 すると凄まじいタイヤのスキール音と共に熱い風圧がボクの後頭部と背中を押した。慌てて振り返ると荒野が運転する車が目と鼻の先に止まっていた。ボクはあまりにもの近さに腰を抜かし尻を突いた。殺す気だったのだろうか。ボクの身体は硬直してしまった。だが目玉だけは動いた。荒野はハンドルを握って突っ伏し、肩を震わせている。そして、ただならぬ雰囲気はウインドウ越しでも容易に感じ取れた。


 荒野はゆっくりと車から降りて、ドアも閉めずボクに向かって来る。なんだ! なんだ? なんだ⁉︎  今度こそ殺される! もうダメだ。怖い……怖い怖い怖い! ボクはギュッと眼を閉じ固まった身体を小さく丸めた。


 だけど足音はボクの横を呆気なく通り過ぎていった。


「オーイッ! おまえ、コーチに何吹き込んだああああ!」


 荒野は縮こまるユウジくんに顔を近づけ怒鳴りつけた。


「何とか言ええええ!」


 痺れを切らした荒野はユウジくんの首の辺りを踏み付けた。ボクは声を上げて止めようとしたが、喉も身体も動こうとはしなかった。ユウジくんの顔は地べたに押し付けられ苦痛に歪でいる。


「……な、なんのことらろ」


 押し潰された頬では上手く口が動いていない。


「しらばっくれてんじゃねえぞ! オラッ!」


 まるで空き缶を踏み潰すようにユウジくんの頭と首を容赦なく踏み付け、その度にひしゃげる首はテレビや動画の格闘技でも見た事がなく、首が変形する様がユウジくんの生命危機だと本能が察知した。死んじゃう……。死んじゃうよ。ユウジくんが死んでしまう。ボクは決死の覚悟で発声した。


「……け、警察が、き、き、来ちゃいますよ……」


 荒野は足を止めてボクを見た。蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事だ。……ああ、今度はボクが踏まれるのか……。チビりそうだ、漏らしそうだ、穴という穴から液体が吹き出そうだ。


「積み込むぞ」荒野はユウジくんの襟元とベルト掴み引き摺り始めた。「おい、コーチ、何やってんだ、座ってないで早く手伝えよ」


「……え、あ、はい」


 ボクは手脚を地面についたまま這いつくばるようにして、ユウジくんにすり寄った。


「……すみません、腰が抜けちゃって」


「仕方ねえな」荒野はクスッと笑って、ワゴン車の後部のスライドドアを開け、ユウジくんを放るようにして投げ入れた。そしてボクは脇を抱えられ助手席に誘導される。


 なんだ、この男は……? ガソリンに着火したように燃え広がった爆炎が、波の無い静寂の海へと、まるで景色が変わってしまったようだ。ボクの手が震えている。


 荒野は人気のない場所に車を止めると、ユウジくんを引き摺り下ろした。そして意識が朦朧もうろうとしているユウジくんの鼻を摘み、開いた口に飲みかけのブラックコーヒーを流し込んだ。ユウジくんは黒い液体を吹き出しながら、酷く咳き込んだ。どうやら完全に意識を取り戻したようだ。


「おい、よくも勝手な事してくれたな」荒野はユウジくんの髪を掴み、低い声でのその耳の穴にそっと注ぎ込むように口を動かす。「お前、罰として今月10本追加な。今度、こういう事があったら、どうなっても知らねえぞ」


 10本追加? 男相手の売春を10人追加……だろうか。そして今度、この男を怒らせたら、キララのように殺されてしまうのだろうか。ユウジくんは力無く頷いた。


「立てよ。ハードな客、用意しておくから覚えておけよな、今日は帰ってゆっくり休め」


 ノックアウト負けした試合後のボクサーのようにヨロヨロと立ち上がるユウジくんをトレーナーのように荒野が優しく介抱し立ちあがらせた。


 言ってる事とやってる事がチグハグだ。違和感がありすぎて気持ち悪い。でも、とにかくこの場は収まった。ユウジくんは死なずに済んだ。そう思った次の瞬間、荒野はユウジくんの背中を蹴飛ばした。


 ユウジくんは吹っ飛び、ボクが乗る助手席の窓に激突し、窓ガラスに黒い飛沫が付着した。


 ユウジくんは虚ろな瞳でボクを見た。なんだよ、その眼は? 何を言いたい? ボクは荒野に何も言っていないよ……。ユウジくんが歪んでいく。ボクの頬を熱い液体が走り落ちると、ユウジくんは手の平で黒い飛沫を塗り伸ばした。唾液で汚れ曇ったガラスはボクとユウジくんを遮断した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る