第35話 不条理に恋して ※
雨はアッと言う間に上がった――
しかし、その名残を拭いさることは不可能だった。
雨の匂い。水たまり。濡れたアスファルトの上で揺らめく街の灯り。
そんな街並みを見て、幻想的と思うのか。
はたまたサイバーパンクと思うのか。
それでも散文的な広大はこう思うだけだ。
こんな風な感情に訴えてくるはずの景色を前に、自分の感情をゆるがせず、
「涼しくならない」
と。
確かに夏の夜の夕立となれば、冷却効果を望んでも良いはずなのに、不快指数が上昇したようにしか思えない。広大が愚痴の一つもこぼすのも仕方が無いだろう。
実際、コンビニに出かけた広大が選んだのは炭酸がきつめのコーラ。
「あのねぇ。何だかこの辺も……」
「
後ろをフラフラした足取りで付いてくる多歌の疑問に、広大はあっさりと答えた。
多歌はレジ袋込みで、昼に手を出したものとは別の味のカップアイスを手に入れている。
そのレジ袋を振り回すものだから、まるでその遠心力で歩調が定まらないようにも見えた。
だが、そんな足取りでは危ないのだ。アスファルトが継ぎ接ぎだらけのこの道。雨に濡れて、どこで滑るかもわからない。さらに現在、午後八時。
当たり前に視界も悪い。街灯の数もまばらだ。
その危うさの原因はどこにあるのかと言えば、当然行政となるだろう。
そうなると思い出されるのは――
「この市の……ああ、この話したのは二瓶だったかな」
「コーダイくん、大丈夫なの?」
ピタリと足を止めた多歌が声を掛ける。
広大は猫背のままクルリと振り返った。
「理屈で考えれば、大丈夫なわけが無い」
「ちょっと」
「だけど、ただ四日多いだけだし、しっかり寝ているという理屈も成り立ちそう」
「どっちなの?」
「つまりどっちでも良いんだ」
「結論がそれで良いの?」
その質問には答えずに、広大は歩を進めた。
カラン、と下駄の響きが聞こえてきそうな風情である。
そんな雰囲気が、多歌のフラフラした歩みを復活させた。
「あのね、コーダイくん」
「溶けるんじゃないか?」
「融点が低い――とか、こんな話は……私たちらしいのかな?」
「すまなかった。話を進めて」
「謝らないで……フフ……アハハハハ」
突然笑い出す多歌。
さすがに立ち止まって振り返る広大。
まるで、この世の不条理を目撃したかのように。
「今、すっごく同棲してる気分!」
人通りが少なくて幸いだった。
少ないだけで、いないわけではないことが不幸――そんな叫びを聞かされた通行人が。
広大が呆気にとられていると、多歌はさらに続けた。
「一緒に帰れる場所があって、簡単に二人でコンビニ行けるってシチュエーションが、もう!」
「大……げさな事だけはわかった。落ち着け」
「ほら、そういうのが良いの」
多歌が踊る。
笑いながら。
「昼間に話してた話も、良かったと思うのよ」
「昼……何だ? というかどれだ?」
自分が准教授がキーマンでは無いか? と、考えた時だろうか、と広大は考える。
だが、そこをフィーチャーすると多歌と准教授の関係性も同時にフィーチャーせざるを得なくなる。
それを多歌はわかっているのか? と広大はこの時点でパニックになりかかった。
「ほらあれよ。フェルマーの最終定理とモジュラー曲線の話(※注1)」
「……どこに良かった要素が? 確か元は“さめない夢”(※注2)の話がおかしくなった話だろ」
広大は、再び前を向いて歩き出した。
この話は最初からおかしかったのだ。
“きこえるかしら”を聞くことを我慢する事に決めた多歌。
そして、これがアニメの曲であるなら、終わりの歌もあるはず、ということであっさりと“さめない夢”にたどり着く。
正解に辿り着いたように見えるが、そもそも前提が間違っている。
いや、それ以上に正誤の判断が出来るような思考の流れでは無い。
もちろん、その時も広大はツッコんだのだが、ここで会話に出現したのが「フェルマーの最終定理」である。
多歌が、
「『最終定理』だってさ」
と切り出したのだが、その瞬間に広大が、
「“さめない夢”がモジュラー曲線になるとでも?」
ピンポイントすぎる突っ込みを行ったのだ。
内容だけを考えるなら、広大の突っ込みは的確すぎるだろう。
“きこえるかしら”の代わりに“さめない夢”が代用品になるという発想がまず尋常では無いのだが、それを受け止めて尚、多歌の発想にダメ出しを行える。
これはもう、多歌以上に広大も普通では無い。
知識の積み重ね方も。
その使い方も。
そういった広大を一言でまとめるなら、それは「不条理」になるのではないか?
甚だ、主観的な判断ではあるが多歌がそう感じた瞬間――いやずっと前から多歌は気付いていたのだろう。
広大こそが、自分が探していた「
もちろん、そんな事を広大に告げれば、逃げられるかも知れない。
だからこそ口に出せなくなってしまったモノもある。
だけど、多歌は期待してしまうのだ。
広大の、未だ全てが見えない不条理が自分をさらっていく事を。
その時、自分は――
「ヒバリさん、どうかした?」
「ん? 大丈夫なんでもないよ。この『林檎のカラメリゼ』を食べるまでは」
「……イヤな予感がする。シナモン臭くなるんじゃ?」
「本当に好き嫌い多いよね。目立たないところで」
「そこだけは運が良いのかも知れない」
広大はいつものように諦めているようだ。
さて、こんな相手にどう立ち向かうべきか。
多歌はまず「
いつまでも「ヒバリ」と呼ばれるのは、何だか――効率が悪い。
その時、広大のスマホが鳴った。
躊躇いなく広大は、通話を選ぶ。
その連絡こそは広大が待ち望んだもの。
相手は二瓶。
そして、その内容は――
「ああ。ああ、わかった。人並みな言葉で申し訳ないがさすがだ。嫌いな京都……ではなかったんだな。ああ、寝る前にわかって良かった」
それを興味深げに見つめる多歌。
この広大の作戦については、多歌もキチンと説明されている。
だからこそ、何を訊くべきを間違えない。
「――なんて名前?」
「
いつも通り、広大は簡潔に答える。
しかし、その声に滲む響きには、わずかな興奮が感じ取れた。
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※注1)
詳しくは「フェルマーの最終定理」を読んでいただくとして。
いや、この本、もの凄く面白いからネタバレしたくないんですよ。
実にドラマチックですから。
※注2)
日本アニメーション「赤毛のアン」のエンディング。
いきなり始まるピアノの戦慄が美しすぎて圧倒される曲。
だが、身体全体に伝わる響きとしては「きこえるかしら」に及ばないか? という観点。
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