第9話 ヴァレリアを家で待つ者

 パント村にも夕暮れが迫ってきていた。背中越しに照らす夕日が作る彼女の影も、家路を我先に急がせるかのように目の前の下り坂の先まで伸びている。湖からの家路を急ぐヴァレリアはその影を追い越さんとばかりの勢いで走っていた。

 翻る外套マント端から時折のぞく彼女のすらりとした脚が夕陽の色に染まって目を奪われるような艶色香エロスを放っていたが、あいにく其れを目にする幸運に恵まれる事が出来た村人とすれ違う事は無かった。裸の肢体にたった一枚の頭巾フード付き外套マントと言う艶姿を人目に晒す事も無く済んだことは、彼女にとって僥倖だったと思う。ただ過疎の田舎村で暮らしていることに良いことも悪いこともある、と言うことにこの後つくづく気付かされる事になるとはこの時点では思うわけは無かった。

 小高い丘を下り降り、程なく目の前にリアムとふたり慎ましく暮らす平屋の一軒家が見えてきた。台所の煙突からほのかに登る夕飯支度の煙が少し霞むように彼女の目に映っていた。

 

「ただいまっ! お兄様!」

 ヴァレリアが勢い込んで家の扉を開けて入り込んだ。部屋一杯に立ちこめる焼けた鴨の肉と乾酪チーズの香ばしい匂いが彼女の食欲をそそってきた。『……ぐくっ~ぅ』とヴァレリアのお腹の虫も騒ぎ立てるが、部屋の中から漂う空気感が少し異様に感じとられてヴァレリアは訝しく思っていた。

「……た・だ・いま、帰りました。お兄様」

 もしかしたら殴った事を怒っているのでは、と一瞬不安に駆られたヴァレリアはしおらしい言葉で挨拶を繰り返す。でも待てど暮らせど其れに応える影は見当たらなかった。

「……兄さまアニサマ⁉」

 ヴァレリアはハッとして入ってきた扉から飛び出す様に家のおもてに出た。入ってくる時は気付くところではない心理状態だったが、今は良く良く見ると扉に繋がる道の上の土肌が軽く荒れていて少なからず幾人かの歩いた痕跡があった。しかも騎士が履く半長靴ブーツの足跡の様な物もそこに残っていた。

「確か、お兄様は今日はそんなのを履いていなかったはず……」

 昨日はしっとりした雨の日で夕方から晴れ始めた。依って靴跡が残るのは昨夜の夜以降の足取りのはず。リアムの朝に見た装いでは庭の畑仕事の様相だったなので足元は野良仕事対応だ。その後の外出も軽装でそれに伴い軽い履き物だったはず。つい先ほどのヴァレリア危機救出時もそんな服装のままだった記憶がある。

 今のヴァレリアは重ね重ね繰り返すが裸の肢体にたった一枚の頭巾フード付き外套マントと言う度が過ぎた軽装の状況で無論、足元は裸足であった。とすれば、やはり半長靴ブーツの跡が付くのはこの家の居住者のふたり以外の誰かがここに今日、居たと言う事になる。少なからずリアムの身の上に何事かしら災難らしきものが降りかかった事だけは確かのようであるとヴァレリアは思った。とは言え、今の彼女には事の次第が解るわけが無かったのである。

 ヴァレリアにとってこんなことは初めての経験であった。勿論、リアムの立場からすれば身の危険を伴う荒事は度々――いや、まあ頻繁にあったと言えるであろう。それでもそれらはみな魔物絡みであってヴァレリアとしては愛しき兄さまアニサマと慕うリアムが、そんな輩に後れをとるなどと言う事を考えたことは欠片かけらも無かったのである。まして自分の奥義の真聖魔治癒魔法ジェニュイン・ヒーリングを持ってすれば例え、兄が瀕死だとしても救える自信がヴァレリアには十分あった。日頃は隠してはいるがとてつもない技量レベルを彼女は持っていた、ともすれば情愛アモーレの力で人族としては禁忌の呪禁じゅごんと証される超位階魔術オーバーランクマジックのひとつ、蘇生復活リザレクションですら可能では無いかと『われ』は思っていた程である。まだ、ヴァレリアとしてはそれを試したいとすら思った事も無いであろうが。


 『……ぐくっ~ぅ』と、ヴァレリアのお腹の虫がまたも騒ぎ立て始めた、流石に限界まで魔力マナを使い切った今日はヴァレリアとしても、もはや飢えに耐えられない状態であろう。まして先ほど食欲をそそる匂いを嗅いでしまった事もさらに拍車をかける要因となっていたようである。

「作り立ての料理置いたままで、いったい何処に行ったのでしょうか? お兄様は。――今はひとまず、お腹が空いては戦にならないと申しますから……折角のお兄様の手料理ですから、先に頂いてからとしましょうか」

 そう無理矢理、自らを納得させて、ヴァレリアは踵を返す様に家の中へと戻っていったのであった。


 家の中に戻ると果たして、そこにはつい先ほどの彼女の記憶と違う情景が目の前にあった。予想だにしない事を眼前にして、ヴァレリアはその麗しきまなこをカッと見開いたまま微動だにできないでいた。

 何故だか、知らない顔の獣耳娘ケモミミムスメが家の中にいるのである。しかも勝手に食卓に座って食事をしていた。それも鴨の肉と乾酪チーズの香ばしい匂いを部屋中に撒き散らすように、そのごちそうメインディッシュに齧りついて――ヴァレリアは唖然としてまじまじと見つめるしかなかった。そんな他人に注目されている中でも、その者は口の周りをソース塗れにして一心不乱にむしゃぶりついていたのである。

 ――――なに? これ⁈

 そう思うしか無かったヴァレリアだが、何とか自らを奮い立たせて、その者とやらに問い掛ける。

貴女あなたどなた? それもいつの間にここへ入ったのかしら?」

 怒りを通り越して呆れた感情がヴァレリアの声に無論、乗っていたのはご愛敬であろう。

 と、食卓に座っていた獣耳娘ケモミミムスメが肉片を咥えたまま顔を上げてヴァレリアの事を見上げてくる。

「あちきはレクシシュでありんすぇ」

 そう言って獣耳娘レクシシュは再び食事を再開し始める。こちらも全く動じる所が無いようであった。


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