龍の血縁

揺井かごめ

 ──そいつと目が合ったのは、五歳の夏だった。


 僕は幼い頃から、眠る前に必ず『真っ暗』を探していた。

 夜に目を閉じても、薄っすらとモヤがかった光や流動する色が見える。人間の目にも血が通っている限りソレらを消す事は出来ないのだ、と親に教えられて納得はしたものの、僕はソレらを消して真っ暗な場所を見る術を知っていた。

 目を閉じ、全身の力を抜き、瞼を少しでも開けぬように気をつけながら、眼球の底だけにグッと力を込める。運が良ければ光のモヤがすぅっと引き、『真っ暗』が現れる。僕はその『真っ暗』を見るのが好きだった。

 そいつと目を合わせてしまった日も、同じ様に『真っ暗』を探し当てた。夏虫の柔らかな鳴き声を聞きながら『真っ暗』の静けさを堪能していると、不意に視界がふるりと揺れた。

 驚きつつも瞼を開くのを堪え、じっと目を閉じていると、『真っ暗』がスッと縦に細る。その余白に広がるのは、金色の虹彩だった。眩しさに思わず瞼をぎゅっと結ぶ。普段ならばその時点で『真っ暗』は消え失せるのだが、見える景色は一向に変わらなかった。

 ──見られている。

 何故か、そんな実感だけがあった。その金色が目の虹彩で、細った『真っ暗』は巨大な瞳だったのだと理解するには幼過ぎたが、見られているという皮膚感覚だけは強く覚えている。恐怖も感動も無かった。僕はただそいつに『見られて』いた。

 その金色は暫くこちらを見つめてから、解けるように消えて無くなった。いつの間にか瞼は開かれて、田舎の月明かりに照らされた自室の天井が薄蒼く見えた。


 それから十八年。

 可愛げのある五才児からうだつの上がらない二十三歳の社会人になった僕は、未だに眠る前、あの金色の瞳を探している。見つかる確率は、どういうことか、歳を重ねる毎に上がっていった。あんな得体の知れないモノは見たくない、と思う日もある。しかし気付けば無意識のうちに探しているのだ。もう、幼い日の幻覚と片付けられる域はとうに超えてしまった。密かに巨大な瞳とお見合いする日々は、既に僕の日常だった。

 僕の話はさておき。

 十八年もあれば、社会は大きく変わる。パソコンはどんどん薄型になり、携帯電話はスマホになり、家電は喋るようになった。

 何より大きな変化は、『ドラゴン種』と『平行世界』である。十年前には鼻で笑われたような単語だが、現代社会では日常的に飛び交うようになった。


 八年ほど前の事だ。

 平行世界のドラゴンの一匹が、こちらの世界にとある鉱石を持ち込んだ。その鉱石を使い、人類は、異次元に存在する平行世界を観測する道具を作り上げた。今ではもう珍しくもない。異世界ルーター、異世界フィルタ等、まとめて異世界観測器と呼ばれる道具群である。現代の技術では異世界に直接干渉することはできず、あくまでも観測の域を出ない。逆に観測という領域の中で、視覚、聴覚、嗅覚と知覚可能範囲を広げてきた。

 異次元観測技術の発展に大きく貢献したドラゴン。本来であれば、ドラゴンが人間の住む様な低次元の世界に接触することはないという。スパコンを軽々超える情報処理能力と知性、平行世界を散歩気分で行き来する超技術、規格外の頑丈さを誇る身体。そんなドラゴンにとってこちらの世界は道端の小さなアリの巣にすぎず、人間は、そこに棲みつくアリのようなものだ。生物として完成しているドラゴンが好き好んでちょっかいを出すには、あまりにも矮小すぎるらしい。

 しかし、人間にアリを好んで観察する趣味人がいるように、ドラゴンにも人間を好む数寄者がいた。人間を研究していたドラゴンは、人間の精神構造が『ドラゴンの巣』として非常に優れている事に気付いたらしい。

 『ドラゴンの巣』についてはドラゴン側から親切な解説があったらしいが、人類にとっては難解すぎて未だ解明されていない。仕方が無いので、脳内の精神構造という緻密で複雑な場所がドラゴンの幼体を温めるのに最適である、という適当な認識がまかり通っている。ニュアンスとしては宇宙ニューロン説に近いらしい。何を並べられても、分からない物は分からないのだが。

 とかく、その発見を得たドラゴンは、すぐさま人間世界に接触した。ドラゴンは自分の身体を自由自在に変形できる。彼は人間の姿でこちらの世界へやってきて、およそバラエティやニュースと呼ばれるTV番組に片っ端から出て回り、その存在と無害さ、高度な文明性を周知させた。当然世間は大変慌ただしくなったが、人間は巣穴を、ドラゴンは高度な知力や技術力を提供するということで手打ちになった。

 以来、異世界観測器を挟んで、人間とドラゴンは共生している。


 ……と、ここまでがドラゴンにまつわる簡単な常識だ。今では義務教育で必修の内容らしいが、僕は詳しく知らない。ドラゴンについては、必要以上に知る事を避けながら生きてきた。僕世代の人間としては珍しくもない。ドラゴンが与える技術や知識は政府を通されるし、ドラゴンに巣を提供したところで人体には何の変化もない。異世界観測器を通さなければ彼等を知覚することも出来ない。極論、知らなくても問題ないのである。世間は「脳内に飼っているドラゴンと仲良く」「ドラゴンは良き隣人である」といった風潮で積極的にコミュニケーションを取ることを推奨しているが、あくまで推奨だ。

 周囲に異世界観測器が普及していく中で、僕は頑なにドラゴンの情報をシャットアウトし続けた。

 その報いが目の前にあった。

「……解雇、ですか」

「退職金は十分用意したし、以前からずっと警告していたはずだよ。悪いとは思うが分かってくれ」

 解雇通知と書類を握らされて事務室から追い出された僕は、気の毒そうな顔をした同僚達に餞別を渡され、肩を叩かれ「お別れ会は今週末な」と告げられてから、トボトボと六畳一間のアパートに帰宅した。なけなしの気力でスーツをハンガーに掛け、安物のベッドにダイブする。

「僕が何したってんだよぉ……」

 職を失うのは二回目だった。まだ二十三歳なのに。二回も解雇。つらい。ちょっと生きていく希望が薄れてしまう。

 解雇理由は二回とも同じである。


 僕はどうやら、巨大なドラゴンに付きまとわれているらしいのだ。


「僕はなんっっにも悪くないのになぁ……」

 先述の通り、異世界観測器はかなり普及している。スマートフォンよりちょっと少ないかな、くらいの割合で生活に浸透している。異世界ルーターなんかは脳波に干渉するという恐ろしげな代物にも関わらず、開発にドラゴンが関わっているので大人気だ。トクホよりドラゴン印が安全性の指標になっている現代では致し方ないのかも知れないが、僕はそういうのは少し怖い。

 そんな社会なので、僕の勤め先には、常に苦情が殺到するのだ。

(あの白くてデカいドラゴンは何なんだ)

(社員の誰かに“住んで”いるドラゴンですか? え? 違う? 怖いんですけど)

(コントロールもコミュニケーションも出来ないドラゴンが人間世界に居座ってるなんておかしいだろう! どうなっているんだ!)

 ドラゴンは無害と周知されたんじゃなかったのか。

 結局僕の管理不十分にされて適当に追い出された。看板娘ならぬ看板ドラゴンにするには、巨大で不気味すぎるらしい。現状は触れられもせず会話もできない幻影のようなものだが、事実そのドラゴンが道路に立ち往生しているせいで交通事故が起きたりしている。運転中に異世界観測器なんかを付けている方が悪いので訴えられたりはしなかったが、何も悪くない勤め先の評判はみるみる悪化した。

 なまじアットホームな職場だったので、尚辛い。

 それでも僕は、そのドラゴンを知りたくなかった。

 ──否。

 僕は、とっくにそいつを知っている。きっと毎晩会っている。その白く巨大なドラゴンの目は、同僚曰く「眩しいくらいの金色」なのだ。

 そいつを知っているからこそ、僕がそいつと知り合うのは良くない気がした。知り合ったら逃げられない。そして逃げられないのは、きっと、僕だけではない。

「……もういいか」

 僕は同僚に貰った餞別を一瞥する。中古品の異世界ルーター。2000円程度の安物だと言っていた。黒縁メガネの形をしたそれは、ツル部分に蔦のレリーフが施されている。リムのカットも洒落ていた。デザインは嫌いではない。

 パッケージから取り出し、周囲を見渡す。ドラゴンは物理法則ガン無視で何処にでも立てると聞く。

 ──『彼女』がその瞳を置くとしたら、何処だろうか。

 僕は少し迷った末に、クロックスを突っ掛けてベランダに出た。夏の夕暮れにしては涼しく、少し風がある。

「初めて会ったのも、確か夏だったなぁ」

 独りごちてから、眼鏡をそっと掛ける。

 途端、風が強く吹いた。少し伸びた髪が巻き上げられて暴れる。

 眼前には、白く、大きく、美しい龍の顔があった。金の瞳は、射竦めるように真っ直ぐこちらを見つめていた。

「はじめまして、人間の貴方」

 涼やかで深みのある、不思議な声だった。

 僕は応える。

「はじめまして、ドラゴンの貴女」


 ──ああ、もう戻れない。

 ──ごめんよ。


   ◆ ◆ ◆


「わー! お爺ちゃん若いね! 白スーツ似合わなくて笑っちゃう」

 小学校に上がったばかりのユウコは、引っ張り出してきたアルバムを指で辿った。隣に寄り添って、当時に思いを馳せる。

「似合わない事ないって。かっこいいかっこいい。そういえばお婆ちゃんさ、この頃たまたま美女と野獣にドハマりしててね、絶対黄色のドレスが着たいってゴネたんだよ。それがこれ」

「わー! 凄い! 綺麗だねぇ……でも」

 ユウコは僕を見下ろして、不思議そうな顔をする。

「なんでユズくんがそんな事知ってるの?」

「なんでだろうね」

 そのうち分かるよ、と、今生での姉を見つめて目を細める。

「変なの」

「そうだね、変だね」

 五歳になりたての体を揺すって立ち上がる。中身は人生幾周目でも、体はまだ覚束ない。

「ユズ、今日は役所で転生の書類書くから一緒に行くよ」

「はぁい、お婆ちゃん」

 お婆ちゃん、と呼ぶにはあまりにも若々しい女性の呼び声に応える。彼女は人の形に化けられるけれど、生きる年月は人間の比ではない。

「お婆ちゃんって呼ばれるの、やっぱ嫌だね」

「仕方ないよ、僕が育つまで待ってて」

「早く育ってよ、貴方」

 僕は『彼女』に抱えられ、キョトンとした姉を振り返って小さく手を振った。

「行ってきます、お姉ちゃん──」


 呪われた血筋。本当ならばただの「可愛い弟」だったはずの命。

 理を外れた、龍の家系。

 全部、僕が始めてしまった。


「──ごめんよ」

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