第六話 三十センチ《one foot》ほどの距離

 眠れない。


 僕はベッドから出てカーテンを開けた。

 外は思いのほか明るい。

 川の水に月の光が散らばっている。


 僕は外に出ると、川岸を水の流れに沿ってとぼとぼと歩き出した。


 視線の先に、テラが現れた。

 湖のある森の外で彼女に会うのは、初めてだった。

 いつもの青いワンピースが月明かりに照らされて、真っ白に輝いて見える。

 

 彼女は僕を見つけると、唐突に話し出した。


「私ね。自分と正反対の人間になりたかったの」


「正反対?」


「そう。正反対。

 男で、繊細で、背が高くて、心より体が強い人。

 今をただ生きるより。夢を追いかける人に」


「自分が苦手だった?」


「ちょっとね」


「今は?」


「今は好きよ」


「キミは強いね」


「そうかしら。

 強いかは、わからない。

 だけど、私は私を精一杯生きていた。

 戯言ざれごとだとか、綺麗事きれいごとだと思うかもしれないけれど、誰にでも優しいところがあって、誰かを愛することができると思っていた。


 そう思うからこそ、大嫌いな世界でも必死で生きていたの。


 私は……。


 私は、毎日が長くて仕方なかった。

 終わりが見えても、時間を持て余していた。

 少し傲慢で、なんでも知っている気になっていた。

 でも……」


「でも?」


「でも。当たり前のことだけど。

 生きている間に知ることのできることは、ほんの少しのことなのよ。きっと……」



 ☆


 それから数日後、僕は動揺していた。

 どうも何かがおかしい。


 僕は、この村から自分だけ消えてしまったかのような感覚に襲われていた。


 今まで愛想の良かった向かいの家のおばさんも、道ですれ違っても、目を合わすどころか、僕に気づいてすらいないみたいだ。


 もしかしたら、僕は歓迎されていないのか。

 それどころか嫌われてる……。

 いや、憎まれて……。

 それともそれ以下か? わからない。どうして、なぜなんだ。




 これじゃあ、僕はもう、死んでるのと変わらないよ。




 翌週、この村に来て初めて隣町にある学校に行った。

 転校生の僕に誰一人目線すら向けず、教師も一言も話しかけてこない。

 自己紹介をすることもなく、教科書もなく、長い長い一日が終わった。

 授業が終わると、僕は急いで湖に走っていった。



 ☆



 彼女は大きなカシの木の下の、湖の岸から一番近くにあるベンチにうつむいて座っていた。


 ベンチの端には、何だか難しそうな分厚い赤色の表紙の本が置いてある。


「教科書すら準備されてないし。誰も僕を見ようとさえしないんだ」


「そっか」


 僕の言葉に反応して、彼女の口元がかすかに動いた。

 まるで、イタズラ好きな天使のようだ。


「でも私、アナタの親戚の人が、町の本屋で教科書を注文しているのを見たわ。

 アナタの家の机の引き出しでものぞいてみたら?

 それとも本棚かしら、きっとどこかにあるはずよ」


 彼女は僕をからかっているのだろうか?

 それでも不思議と悲しみが和らいで、その日初めて笑顔になれた。


 この村を覆っている灰色の影が、晴れていく。


「ねえ、生きるってどういうことだと思う?」


 僕は唐突に尋ねた。


「アナタはそのことを聞きに、わざわざここまできたの?」


 湖の向こう岸のほうで、聞いたこともないような鋭い鳥の鳴き声が響いた。


 それでも彼女の細く透き通るような声は、掻き消されることなく僕の耳に届いた。


「いや、特にそういう訳じゃないんだけど……。 だだ……」


「ただ……。何?」


 彼女は静かに僕の答えを待っている。


「ただ……キミなら答えてくれるかもって、なぜか思ったんだ」


 彼女は湖の向こう岸に目をやると、その目を細めるようにした。

 何かを探すように。


「そう。でも、その答えはアナタの中にもうあるんじゃないの?」


 彼女は悲しげな笑みを浮かべている。


「えっ、どうだろう。

 ただ、なんていうか、祖父も、村の人も、学校の人も……。

 この頃、誰もが僕に無関心なんだ。

 なんだかそれは、生きてるって感じじゃない……」


「だから?」


 彼女は諭すように問いかけた。


「その逆が、逆が生きるってことかも」


 風が吹く。


 それは、まだほんの少しだけ残っていた夏の焦げるような空気をかき消す風だった。


 あの後、いつ家に向かって歩きだしたのか、僕は覚えていない。

 ただ彼女はこの日、湖から家までの帰り道、ずっと僕の隣にいてくれた。


 僕と彼女の間には三十センチone footほどの距離があった。


 ☆

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