第三話 ラベンダーハウス
あの日、森の奥に見えた湖はキラキラと輝いていた。
湖まで二十分ほどだろう。
歩き出した僕を追いかけるように、村に時報が鳴り響いた。
もう五時? ラベンダーハウスのおじいさんとの約束を思い出した。
「いけない。忘れてた」
急いで走った。数分後、玄関のベルを鳴らすとおじいさんが出迎えてくれた。
「遅れてごめんなさい」
「気にしなくても大丈夫。ここでは誰も急いでなんていないんだから」
おじいさんの言葉の意味はよくわからなかったけれど、あえて質問せずに家に上がった。
「失礼します。あれ?」
僕は驚いて思わず声をあげた。
この家には全く匂いがない。
「どうかしたかね」
おじいさんが秘密めいた表情で僕の顔を覗き込む。
「いいえ。なんでもないです」
僕は
人の家に入って何も匂わなかったことなんて一度もなかった。
風邪でも引いたかな。
「ちょっと待ってておくれ」
おじいさんはキッチンへ消えていった。
入れ替わりにクロが
「やあ、調子はどう?」
クロの目線まで屈むと頭をなでた。
「キミならその鼻で、どんな匂いも嗅ぎ分けられるんだろう?」
僕がそう言って鼻をつんとつつくと、クロは気分を害したようで、僕の元から立ち去ろうとしたので、慌てて耳の後ろを掻くと、気持ちよさそうに目を瞑って床に寝転んだ。
現金だな、キミは。
この家は天井が低く少し狭く感じるが、落ち着いた色の照明が部屋中を照らしていて心地よかった。
夏の終わりなのに、もう暖炉には火が入っている。
どうしてこんなに寒いんだろう?
暖炉の上のマントルピースには、様々な石が飾ってある。
「珍しい石ですね」
「ああ、隕石なんだよ。子供の頃から星が好きでね。天文学者になったんだ」
ポッポー、ポッポー……。
壁に掛かった鳩時計の小さな窓から木彫りの白い鳩が出てきた。
もう六時?
壁にはたくさんの古い写真が掛けてある。
その中におじいさんの面影のある若い男性を見つけた。
隣に小さな女の子が写っている。
若い頃のおじいさんと娘なのだろう。
クロにそっくりの犬が、見覚えのある庭でその子と遊んでいる写真が目に付いた。
この家ではない。
祖父の家の庭だろうか?
「どこでも好きなところに掛けてくれ」
おじいさんの声が、僕の耳に飛び込んできた。
「あ、はい」
返事を返すと同時にいい匂いがキッチンから漂ってきた。
やっぱり鼻は利いている。
グラタンかな?
柔らかな匂いが、僕に母さんの手料理を思い出させる。
おじいさんが両手に鍋を抱えてきた。
「ずいぶん待たせてすまないね。なんだ、座っていなかったのか」
「あっ、すみません」
僕はあわてて周りを見渡した。鳩時計は六時半を指している。
「キミは不思議な子だな」
おじいさんはそう呟くと、鍋を鍋敷の上に置いた。
「お手伝いします」
「それなら、コップに水を入れてくれるかな」
おじいさんはテーブルの上のピッチャーを指差して、またキッチンに姿を消した。
カトラリーの入ったカゴを持ったおじいさんが戻ってきた。
二人とも静かにテーブルの席につく。
晩御飯はグラタンではなく、チーズフォンデュだった。
チーズフォンデュは母さんの大好物だったな。
「昔は娘の友達がよく遊びにきてね。
みんなで喋りながらこれを食べたんだよ」
おじいさんは静かな部屋を見渡して、懐かしそうに目を細めながら呟いた。
クロは食事中ずっとパンをねだってきた。
僕は、パンを小さくちぎってはクロにあげた。
おじいさんからは、僕の祖父との子供時代の話を聞いた。
二人はこの村一番のトラブルメーカーだったようだ。
夕食後は少しだけクロと遊んだ。
☆
家に帰ると、家中の電気が消えていた。
祖父は明日まで帰ってこないんだった。
この村に来てからずっと、僕は眠れない夜を過ごしていた。
永遠とも思える闇の中に、一人置いてけぼりにされたように感じていた。
☆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます