初恋の人の弟、じゃなくて。
「ただいま」
「おじゃまします」
「梨子ちゃんいらっしゃい、会いたかったわ! 雅弥もおかえり。あんたたち仲直りしたのね」
雅弥と本当の意味で結ばれてから初めて谷上家。出会い頭のおばさんの一言に二人して言葉を詰まらせる。
「あー……別に喧嘩してたわけじゃ」
「そ、その節はご心配おかけしました……」
しどろもどろで答えるとおばさんはおかしそうに笑って、家に上がるように促してくれた。先に行く雅弥をてちてちと追いかけながらリビングへ向かう。入り口で突然雅弥が止まるものだから、止まりきれずにぶつかってしまった。
「ぶへっ! ちょ、なに」
鼻が潰れてしまったではないか。鼻を押さえて文句を言おうと雅弥を見上げる。しかし雅弥は私の視線に気づくこともなく居間に向け顰めっ面をしていた。
「何でここにいるんだよ」
ものすごく嫌そうな声を出す。
「俺の実家だから」
「そう言う意味じゃねぇよ」
「う~ん、息抜き?」
あはは、と篤哉くんが笑……って、篤哉くん!?なんでいるの!?
雅弥の背後から私はひょっこり顔を出した。
「篤哉くん、おかえりなさい。おじゃましてます」
ソファで寛いでいた篤哉くんの顔がパァッと綻ぶ。彼は立ち上がると私たちの方へ歩み寄ってきた。
「ただいま梨子、元気そうだね。また綺麗になったんじゃない?」
私の頬に手を伸ばそうとする篤哉くん。おっと、全身に鳥肌が。思わず後ずさりしそうになる。す、と。目の前が雅弥の背中で遮られた。庇われたのだと理解する。
「兄貴はいかがわしいから梨子に近寄るの禁止」
「ひどくない? 俺も梨子の幼馴染なんだけど」
篤哉くんは不満げな声を上げた。くるりと雅弥が振り返り、私を抱き寄せる。
「ダメ。梨子は俺のだから」
ふぁー!俺のって……俺のって言った! やばい、キュンとする。頬が熱い。照れつつも私も雅弥にしがみついた。篤哉くんが悪そうな笑みを口元に浮かべる。
「ふーん、くっついたんだ。一応初恋成就おめでとうって言っておくよ、雅弥」
「一応って何だよ!」
「雅弥に飽きたらいつでも俺に乗り換えてもいいよ、梨子」
私に向かってウインクをしてきた篤哉くん。篤哉くんに恋していた頃なら喜んでたかもしれないけれど、今となっては……うーん、軽い。
「あ゛? もうすぐ結婚するんだろうが」
雅弥はキレ気味である。私を抱きしめる手はやさしいけれども。
「たまには違う味も楽しみたいと思わない?」
「は???」
わぁ、チャラーい。いくら私に本性バラしたあとだからって、オープンクズ男過ぎない? いよいよ本気でブチギレるんじゃないだろうか、雅弥。しかし尚も挑発するように篤哉くんは私を誘ってくる。
「ね、どう? 梨子」
「雅弥以外はいらないので結構です」
私はバッサリ斬って捨てた。タチの悪い冗談に付き合うのも馬鹿らしいと思ったからなんだけれども。
雅弥と篤哉くんが目を丸くして私を見ている。こうして見るとこの兄弟は実は似ていないようでよく似ている。ふとした時の表情の出方が同じだったりするのだ。
雅弥が私をぎゅうぎゅう抱きしめる力を強めた。篤哉くんは両手を上げて『あーあ、振られちゃった』とかぼやきつつ天を仰いでいる。本気でも何でもなく、雅弥をからかって遊んでただけのくせに。
「あらぁ。二人、くっついたの?」
後方からうれしそうな声がして抱き合ったままの私と雅弥が声の方へと振り返ると、お盆にティーカップとお菓子を載せて運んできたおばさんが立っていた。ちょっと気まずかった。
◇
抱き合う私と雅弥を見たおばさんは大きい声で自室にいるおじさんもリビングに呼びつけると、五人でお茶会をすることになった。トークテーマは私たちである。
テーブルにはおばさんお手製の美味しそうなお菓子と紅茶が温かな湯気を上げて並んでいる。しかしいずれも喉に通らなかった。こんなことは私の『谷上家入り浸りまくり歴』史上初めてだ。
ご両親共にめちゃくちゃに喜んでくれた。それはうれしいのだけれど……でも何だろう、この居た堪れなさは。すでにこのお家の子感があったので、余計そう思ってしまうのかもしれない。
一頻り会話をしてからお茶会はお開きとなり、篤哉くんとおじさんとおばさんはそのままリビングに残り、私と雅弥は雅弥の自室に上がることになった。リビングを後にする際にすすす、と篤哉くんが寄ってきて小声で『避妊はしろよ、面倒臭いことになるから』と言ってきた。余計なお世話だ。私は真顔になった。雅弥は兄の鳩尾に本気の腹パンをお見舞いしていた。
階段を上がり、雅弥の部屋の扉を開ける。窓は開け放たれていた。空気の入れ替えをしていたようだ。シンプルなレースのカーテンが揺らめいている。
ここにに入るのは雅弥大捜査線したとき以来だ。あの時と同様にやはり大物家具以外にはほとんど物は置かれていないけれど、清掃はきちんとされていた。雅弥がいつ帰ってきてもいいようにしてあるのだろう。
雅弥がベッドに腰を下ろす。入り口に立ち尽くす私を見て自分の隣に座れとポンポンとベッドを叩いて促してきた。私もベッドに歩み寄り、雅弥の隣に腰を下ろす。すると雅弥に肩を抱き寄せられた。
「梨子」
私の頭に雅弥の頬が擦り寄せられる。想いが通じ合ってから雅弥は時々こうして甘えてくれるようになった。
「さっきの、うれしかった」
「ん?」
「俺しかいらないって言ってくれたやつ」
「だって本当のことだし」
改めて繰り返されると非常に照れ臭い。
「兄貴に向かってそう言ってくれたことがうれしかったんだ。だって兄貴はお前の……」
言いかけて口を噤む。
「初恋の人だって?」
「……そう」
「うーん……」
まあ、その事実は変わらない。幻想であっても勘違いであっても、私の初恋は篤哉くんだった。そして私は雅弥の前で篤哉くん好き好き言いまくってたわけで。雅弥的にはトラウマというか、きっとそんな感じなのかもしれない。だけど私がキッパリと篤哉くんを拒絶したことで、少しは安心できたのかな。もうちょっと思っていることを伝えておかないといけないのかもしれない。
「ねぇ、雅弥」
「ん?」
「私ね、あの日私を抱いてくれたのが雅弥でよかったと思ってるんだ」
「……!」
「勘違いで迫っちゃったけど、きっと雅弥以外は無理だったと思ってる」
手が、声が。私を大事にしてくれる人のものだって感じたから安心して身を委ねることができたのだと今ならわかる。それにあのことがなければ、私は自分の心の片隅にあった小さな想いに気づけなかったかもしれない。
「私の初恋は篤哉くんだったよ。でも篤哉くんからだと思ってたやさしさは、雅弥からのものだった。だからね、雅弥も初恋の人なんだと思う。初恋の人の弟じゃなくて。でもね、それはいいの。もう、どうでもいいの。今、私が好きなのは雅弥だから」
「……うん」
雅弥の手がするりと私の頬を撫でる。
「お嫁にもらってくれるんでしょ?」
その手は顎へと移動し、私の顎を軽く上向かせた。
「婿入りでもいいけど。……一生大事にする」
雅弥の顔が近づいてくる。
「私も大事にするね。……喧嘩はすると思うけど」
「するな、大喧嘩」
「アンタが折れてよね」
「お前もちったぁ折れる努力しろよな……」
雅弥が半眼になった。
「「…………」」
しばし無言で見つめ合って、プッと同時に噴き出す。
恋人という形になっても、きっと私たちはお互いに意地を張ってたくさん喧嘩するだろう。この関係は昔から変わらない。けれど違うものも確かにある。
「互いに善処するということで」
「そういうことで」
クスクスと笑いながら、私たちはキスを交わし合う。変わらないようで新しい関係を二人で築いていくのだ。
ー終ー
【完結】初恋の人の弟。 鳥埜ひな(とりひな) @cnrw12
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