第4話 ただ、願う。
それどころか、鬼たちは温羅以上に静かだ。
「このまま、過ぎれば良いが」
温羅の呟きは、独りで見上げる月に消えた。しかし、変わらず胸にある信じたい気持ちと疑う気持ちがせめぎ合う。
これが嵐の前の静けさだ、と温羅は知っていたのだから。
「温羅、さま?」
「来たんだ、媛。こんばんは」
「こんばんは」
ここ最近、阿曽媛は毎晩のように姿を見せるようになっていた。温羅が鬼ノ城を追い出されたことを彼女に話すと、心から温羅の身を案じてくれたのだ。
想い人と共にいられる時間は、温羅にとって信じられない掛け替えのない時間だ。だからこそ、過去を繰り返すことが辛い。
温羅は心の内を悟られないよう、蓋をした。
いつものように言葉を交わし、笑い合う。何でもないような日々の些細な出来事が、ふたりの間では淡く輝く。
しかし楽しい時間というものは、呆気なく終わってしまう。日が傾き、西の空は赤く染まっていた。
そろそろ、阿曽媛を村に戻さなければ。秋口の夜は冷える。
「阿曽媛、そろそろ時間だよ」
「……」
黙ったまま、阿曽媛は立ち上がらない。不思議に思った温羅が、もう一度帰宅を促そうと手を伸ばしかけた時のこと。
阿曽媛が、そっと温羅の手に触れた。思わず引き抜きそうになる手を懸命に動かさず、温羅は媛を間近で見詰めた。
阿曽媛の瞳は、真っ直ぐに温羅を見詰めている。美しい黒い瞳の中に、温羅の赤面した姿が映り込む。
「阿曽媛……?」
囁くような温羅の問い掛けに、阿曽媛は応じるように細い手に力を籠めた。そして、溢れ出した言葉をそのままに溢れさせる。
「……帰りたくないって言ったら、あなたはわたしを
「阿曽、媛……っ」
切なげに呟かれる媛の言葉に、温羅の喉が詰まる。なにを言われたのか理解するのに、長い時を要した。
媛が紡いだ言葉の意味を頭と心が理解して、温羅の胸の奥が大きく音をたてる。二度目の経験であるにもかかわらず、うまく言葉が発せられない。
温羅が困惑して迷惑に思っているのだと勘違いしたか、阿曽媛は辛そうに目を伏せた。そして踵を返し、無理をして出した明るい声と共に一歩村へと踏み出そうとする。
「ごめんなさい、出過ぎたことを言いました。……また、逢いま」
駆け出そうとした阿曽媛の手を、温羅が掴んで引く。体の均衡を崩した阿曽媛は、すっぽりと温羅の腕の中に収まった。
そんな彼女の耳元に、切ない青年の息が触れる。
「好きだ。きみのことが、阿曽媛のことが、ずっと」
「……っ!?」
時間が止まる。
阿曽媛は自分が背中から抱き締められているのだと、ゆっくりと理解した。頬が紅潮し、体の熱が上がる。
温羅もまた、頭の中は真っ白だった。これが過去の繰り返しであることも、二度目の告白であることも、彼の頭の中からは消えてしまう。
ただ、溢れ出す思いの丈を止めることなど出来なかった。
この一瞬だけ、過去の温羅と未来の温羅が重なった。
「あ、う、温羅さまっ!?」
「ごめん、阿曽媛。きみが好きだ。始祖の血を引く鬼のわたしが人である媛に惹かれてはいけない、そう知っているのに、わかっているのに……」
「…………いえ、わたしもその禁忌を破っています。───二度も」
「阿曽媛?」
媛の言う意味がわからず、温羅は腕の力を緩めた。その時、阿曽媛が振り返る。
「―――!」
「……お慕いしているのは、わたしの方です」
目を見開いた温羅の視界いっぱいに、阿曽媛が映る。唇が重なり、ふたりは目を閉じた。
「……」
「……」
あの時は、一度きりだった。けれど今、温羅と阿曽媛は二度、三度と深く唇を重ねる。
まるで、二度と離れないよう互いを結びつけるように。心の奥、魂の糸が結び付いて離れないように。
いつしか足の力は抜けて、その場に座り込む。
「──ん、ふあっ」
「はぁ、はぁ……」
息が切れて自然と離れ、ふたりは息を整えた。そして、互いに真っ赤な顔を見詰めて笑い合う。
小さなさざ波のような笑い声が途切れると、阿曽媛はそっと温羅の肩に
「阿曽媛……」
「ずっと、この時が続けば良いのに。そう、思っていました。でも……運命とは残酷ですね」
「何を、言って……?」
「……」
温羅の問いには答えず、阿曽媛は温羅の背に手を回した。全て覚えておこうとするように、決して忘れてなるものか、と懸命に。
どうか、と泣きそうな声が温羅の
「どうか、幸せに。生きて、ください……っ。どんなに凄惨な過去があったとしても、あなたには今、彼らがいますから」
「彼らって……! もしかして、きみは……」
呆然とした温羅から体を離し、彼の頬に両手で触れた阿曽媛が微笑む。その笑みは、過去の彼女のものではない。
涙に濡れた顔を、温羅は綺麗だと思ってしまった。
「きみは、阿曽の……」
「はい。……あなたを過去に送ってくれと頼んだのは、わたしです」
「どうして……?」
魂を共有する阿曽の中で、眠っているはずの阿曽媛。彼女が須佐男と話せたことも驚きだが、それ以上に、温羅を過去に
温羅の問いに、阿曽媛は頷いた。
「我儘な願いです。──もう一度、あなたに触れたかった。共に生きる夢を見たかった。そして……生きてと伝えたかったのです」
「生きる……」
「はい。あなたは、少し、自分を
そんなことはない、と温羅は反論しようとした。しかし、泣き濡れて笑みを湛える阿曽媛を間近で見詰めていると、その気も失せてしまう。
努力するよ、と温羅は呟いた。
「今は、きみの心を持つ阿曽もいる。須佐男と大蛇も、わたしの友だ。……だから、いつかきみのもとへ行くまでは、大丈夫」
「──はい」
心底嬉しそうに、阿曽媛は微笑んだ。
その時、温羅の頭に須佐男の声が響いた。
──温羅、時間だ。
「……わかった」
未来にいる須佐男に返事をし、温羅は媛に悲しげに微笑む。
「もう、戻らなければ」
「ならばわたしも、再び眠りましょう」
ふたりの影が、重なる。阿曽媛の柔らかく丈の長い衣がふわりと風に
彼女の指先が震えていることに気付き、温羅は姿勢を低くして阿曽媛の顔を下から覗き込んだ。
「阿曽媛? どうし……」
「もう一つだけ、我儘を言います」
「……うん」
「──っ、わたしを」
塞き止めていたはずの、我儘。もう伝え切ったと思っていたのに、阿曽媛の中にはもう一つだけ残っていた。
これを伝えたら、重いかもしれない。嫌われるかもしれない。そうなったら、もう目覚めたくない。
だとしても、もう閉じ込めていることは出来なかった。大切な、たった一人の愛する人に──
「──わたしを、忘れないでいてください。そして、生まれ変わったら、もう一度、あなたの傍に居させてください」
「……忘れないよ。忘れられるわけがない。そして、必ず来世でも、きみを見付けてみせる」
「───はいっ」
あと一つ、そう思っていたはずなのに、阿曽媛の願いは二つに増えていた。増やしてしまったことで気恥ずかしくなり、阿曽媛は温羅の胸に顔を埋める。
華奢な体を抱き締め、温羅は誓う。次に阿曽媛に会った時、彼女を笑顔にする一生を送ろう、と。
そして必ず、何処にいても阿曽媛を見付けて想いを伝えようと。
「……時が、来たようですね」
「そうだね……」
ふたりを、半透明な霧が包み込もうとしていた。森は消え失せ、いつの間にか白んだ世界に
指を絡め、ふたりは世界の変容を見守った。徐々にそれぞれの体が透けていく様を見詰め、最期の挨拶を交わす。
「愛しています、温羅さま」
「わたしも、阿曽媛を愛してる。──必ず、きみを見付けるから」
「はいっ」
どんな宝石よりも輝く笑顔を浮かべ、阿曽媛は消えた。頬を伝う何かを感じながら、温羅は意識を手離した。
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