『山根 賢治』の場合・18
バチン。
家庭用コンロのそれと比べて幾分大きく、どこか粗雑さを思わせる破裂音と共に、私達の中央で燃えていた青い火が落ちる。消えたところで元より光量としては大した働きを成していなかったし、何より私の後ろ――言い換えれば兼森たちの斜め前方で燃えている焚火のおかげで互いの認識に困るようなこともなかった。
「あいよー……粗茶、っていうかインスタントですが」
コンロのノブから手を離した八柳が手際よく支度を進め、ものの1分もしないうちにティーバッグを落としたカップが差し出される。
「まぁ、外で飲めばなんでもカクベツってことで勘弁してよ」
受け取った両手の中で立つ柔らかな湯気が顔に当たり、じわりと伝わる温もりに思わず眦が細まった。
「いいや、嬉しい。ありがとう」
バツの悪そうな謙遜に迷いなく礼を返す。そんな私に八柳は面食らったように目を丸めた後、そっかと呟き小さく笑て鼻の下を指で擦った。横で淡々とティーバッグを上げ下げしていた兼森も、私達のやり取りを見て一度だけ小さく頷いたようだった。
それから八柳は勢いよくチェアに背中を沈めて夜空を見上げる。照れ隠し、あまり見てくれるなということか。こちらも受け手がいなくなった視線を外す。
別に、世辞やおべんちゃらのつもりはなかった。ひとくち喉の奥へと送ると、まるで体の内側へと伝わっていく熱の在りかが手に取るようにわかって、それが心地良く気分をほぐしてくれる。冷え切った身にこの温かさがありがたかったのは本心であり、その評価に味の云々などは関係ない。
『01:48』
冬の入り口の深夜。寒空の下できっとそれは誰にも共通する思いなのだろう。いつもニヤついている八柳はともかくとして、変化に乏しい仏頂面ばかりの兼森の横顔でさえ、カップを傾ける度に帯びていた固さが取れていくように思えた。
「……ここは、君の山なのか」
そんな変化を見て取ったからか。あるいは半端に空いた時間と弛緩した空気も手伝ったのだと思う。チェアの背もたれに頼らず背中を丸めて紅茶を飲む兼森の顔を眺めているうちに頭に過ぎった疑問は、喉奥で留まることもなくするりと口から零れ落ちていた。
その片眉がぴくりと反応を見せ、反芻するような間を差し挟んだ後で静かに顔が持ち上がる。それまでカップの中だけを注視していた目線がこちらを向き直り、その相貌はいつも通り、何の色も宿さないものへと戻っていた。対照的に隣の八柳は聴いていなかったのか聴いていないふりを決め込んでいるのか、あるいはそれが自分に向けられたものではないと分かっているからなのか、相変わらず半端に口を開いたまま黒一色の空を眺めている。
「
そんな八柳から視線を外した私に、意外にもというべきか答えはあっさりと返ってきた。
喫茶店でやり取りした時のような四角四面の敬語が付いていないのは、兼森が『商談』としてではなく個人の『雑談』として答えてくれた証左にも聞こえる。
そう思うとちょっと回りくどいその言い方も、彼の人となりを垣間見たような気がして、悪くは思えなかった。
『01:52』
とはいえ、ここが八柳やほかの誰かの土地でない事は半ば予見していた。いわば今の質問は答え合わせと言い代えても良い。
最初から質問を兼森にだけ向けたのも、その一環。
あくまで偶然とはいえ、接触から大まかの骨子を決める第一次商談まで、その全ては八柳ひとりのコンタクトによるものだった。その上で『どこに捨てるか』という問題へのソリューションまで彼が持っていたなら、兼森がここに存在する理由がなくなる。
八柳は彼の事を冗談でもなんでもなく「うちのボス」と
「いつから、こんな商売を」
ならばともう一歩、核心に踏み込んでみる。
――もっとも気掛かりな『どのように』という点はこれから見せられるだろう。
その次に気になる点を訊ねるには、まだ間合いが遠い気がする。なので投げかけたのは、その次に気になった
しかし今度は返答がすぐ返っては来ず、口を結んだ兼森が僅か目線を逸らしてどこか遠くを眺めるような表情を浮かべる。
『01:55』
それから続いた短くない沈黙の間、漂う気まずさから数度喉を鳴らして一度カップから離した口を空に向け、溶けていく白い息を見送る。しばらく星を探して夜空を目でなぞるが、一面にかかった分厚い雲によってそれは叶わなかった。
「結構長いよ。俺と知り合う前からやってたみたいだから――」
「おい」
唐突に差し挟まった、どちらへのものともわからない八柳の助け舟。潜める眉根で先に反応した兼森がその先を制し、軽い溜息と共に脚を組み直し、アームレストで頬杖を突く。
そうして中空を睨むその頭の中で行われているのは躊躇か計算か。いずれにせよ続けたところで大事はないと悟ったのだろう。諦めるような軽い嘆息の後、兼森は改めて口を開いた。
「……本格的に商売としたのは、16で2輪の免許を取った時か」
つまりはその前から、今のスタイルの前身として活動は始めていた、という事か。完全な答えではなくともこちらにある程度の納得感は与える、上手い返しといえた。
それでも一応、切れた言葉の先をしばらく待ってみる。だが兼森は伏し目がちな目をカップに戻したあと、それきり口を開く素振りを見せることはなかった。本当は更にもう一歩先、Whyの部分まで答えてくれることを期待していたが、あくまで問われたことにしか話す気はなさそうだった。
『01:58』
苦学生……にはどうにも見えない。むしろ出会った時にはその小奇麗な身なりや凝った意匠の小物使いから
そもそも都下とは言え東京の、そして近くに街並みが一望できるこの山一帯が自分のものだと
だとすると学業の他、私生活の部分でよほど金が必要な問題を彼もまた抱えているのか。
実は更に上にいる『誰か』に命じられるまま、イリーガルな商売に手を染めているのか。
あるいは金を得る事が目的ではなく、この仕事をすること自体に意味を見出しているのか――?
いずれにせよ、次に尋ねる文言は決まっていた。
「……どうしてそんな若いうちから、この仕事をしようと――」
兼森という青年の実像そのものへと迫るその問いは、しかし途中で遮られる結果となってしまう。
突然、本当になんの前触れもなく、対面するふたりの顔が見えなくなったからだ。
「え……っ」
視界は再び、一瞬にして月も星も窺えない完全な夜の闇に覆われる。それまで彼らの背中越しで煌々と燃えていた薪の火の明かりが失われたからだった。
だが、そんな事は有り得ないはずだ。
まだ火を灯して30分と経過していない。数度に分けて運んでいた薪の量は、素人目に見えてもそんな短時間で燃え尽きるほど少なくはなかったはずだ。何より衰える兆候すらも見せないまま、いきなり火が消え失せるなんてことがあるだろうか。
そうして放り込まれたのは起きてすぐに見た車の窓に張り付いていた、恐ろしい程の暗闇。なんの気構えもないままだった心臓が早鐘を鳴らし始める。
「今日も時間通り、ね」
「ああ」
暗闇の中、兼森と八柳の短いやり取りが聞こえた。表情は見えないものの、その声色はどこまでも平静を保っている。
彼らにとっては慣れた光景なのかもしれない。だが対照的に、私は理解できない事態と閉ざされた視界がもたらす本能的な恐れのあまり半ば混乱に陥っていた。明かりを求め、焦りに覚束ない指先で必死にポケットをまさぐり、スマホの感触を探し求める。
そうしてどうにか、やっとのことで点けたディスプレイの液晶には――
『02:00』
後に思い知ることとなる、わたしの全てが動き始めた
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