『山根 賢治』の場合・19
手に握った液晶の光が届く僅かな範囲だけという、極端に狭まった視野。その外でふたりがやおら立ち上がり、車の正面方向へ回ったのを気配と足音で感じ取った。
それからナイロン同士のこすれ合いと、金属同士が軽くぶつかる音、そして聞き取れない声量のやりとりが断続的に続く。
消えた火、遠ざかる気配、そして鳴るいくつかのノイズと小声……閉ざされた視界の中で散らばめられていく、文字通り輪郭の見えない手掛かり。その乱雑さが胸の内へ一層の焦りと恐慌が掻き立てていく。
一体崖の下で何が起き、そしてふたりは何をしようとしているのか。
考えているうちに、ひとり置いて行かれているという現状がたまらなく不安に思えてきた。碌に辺りは見えないが、居ても立ってもいられない。意を決し立ち上がるべく膝に力を込めたところで、車の脇から八柳が頭に巻いたヘッドライトのまばゆい光がこちらを照らした。
「立ち上がんないで!」
それまで兼森と交わしていたそれとは全く対照的な、鋭い制止の声がこちらの耳朶を突き刺す。
あまりの剣幕にアームレストを鷲掴んだまま硬直する私を見て、八柳は申し訳なさそうに顔の前で手刀を切った。
「……ごめんね、今迂闊に動くとマジで危ないからさ」
そう続けながら私の傍にしゃがみ込む八柳の左手には、太いカラビナのついたロープの先端が握られていた。色こそ異なるものの、先ほど兼森が腰に巻きつけ執拗なまでに結びつきを確かめていたものと同じ造りをしている。
安全帯。未だこの地形で必要な意味にも見当がつかないが、八柳の言う『危ない何か』に関係があるものだろうか。
一向に散りばめられた点と点が頭の中で結びつかず、ただ目線だけを泳がせる私に向かい、八柳は続ける。
「さっき渡したライト、持ってるよね?」
「あ、ああ……」
……そうだ、遮二無二スマホを振り回すより、よほど良い光源を手渡されていたではないか。
嚙んで含めるようなその口調でようやく、車から降りた時に兼森から手渡されたライトの存在を思い出す。しかしどこへ仕舞い込んだかが全く思い当たらない。突然の出来事に記憶までもが混乱に陥っていた。
ひとまず座っているチェアの周囲を手でまさぐると、斜め後方へ半歩分離れた地面から硬い円柱の感触が伝わってきた。どうやら火が消えた時の動揺でいつの間にかポケットから零れ落ちたらしい。
底部を押し込み、まばゆく灯った閃光が前方の宵闇を切り裂くと、渦巻いていた不透明な恐ろしさが少しだけ和らいでいく。連られるように知らない間に強張っていた表情筋が緩んでいくのが感覚で伝わってきた。
「オッケ、絶対に落とさないでね……あとはコレ」
幾分落ち着きを取り戻した私にほっとした様子で、八柳はロープの先を差し出してくる。ライトの光を鈍く照らし返すカラビナと八柳の顔を見比べ逡巡しているうちに、彼と同じようにヘッドライトを巻いた兼森が車の後方から顔を出した。
「同じように腰に巻き付けてください」
言いながら指差した彼の腰元を見ながら、見様見真似で胴を回したロープとベルトをカラビナで固定する。兼森に締まり具合を確認されながらロープの先を目で追うと、私達のハーネスの先端はそれぞれ手近な、かつちょっとやそっとの事ではビクとも動かなさそうなほど太い木の幹に括られていた。
「もしかして危険というのは、これなしに動けばどこかに落ちるとか――」
おずおずと尋ねてみるも、ふたりの首は縦にも横にも振られなかった。代わりに兼森の顎先が僅かに動き車の後方を差す。
そこで初めて気付いた。己の腰から垂れるロープを頭の中でピンと張ってみると、その限界は丁度ここから段差の淵に足を掛ける程度の距離と等しい。巻き付ける木の距離に多少の差はあるものの、改めて見てみれば兼森や八柳の巻いているそれも大体同じに思えた。
まるで3本共に等しく、いかなる不測の事態があろうと身体が段差の先へと持っていかれないようにと設えられた命綱――
「いや、まさか」
浮かんだ否定の念は、思わず声に出ていた。
その先はさっき見ている。ふたりが口をそろえる『崖』とは名ばかりのちょっとした段差に過ぎなかったではないか。それこそ、兼森ひとりで組んだ焚火の炎が見えるほど低かったはずだ。
……ならばなぜ、その火が突然に消えた?
それまで脇に置いていた大きな疑問が再び鎌首をもたげ、心の中で好奇心と恐怖心とが綱引きを始める。その結果私の身体は椅子から腰を浮かせたまま、ひどく半端な姿勢で固まった。
「な、何を――」
「一応、保険の保険ね、これ」
互いのロープ、その次に掴む腕を指差してそう言った後、ゆっくりと私の腕を引いた八柳は確かめるような足取りで崖の方へと近づいていく。
テールゲートの脇を抜け、僅かに登る勾配を数歩。その爪先が淵に掛かったところで、ぴたりと歩みが止まった。
「あんまり乗り出さないようにね」
その言葉と一緒に先導していた八柳の身体が半身を引き、前方の視界が開ける。
掴む腕こそ解かないものの、恐らく自分の前に出てみろという事だろう。僅かに引かれる腕の力に半ば従う形で同じように淵に足を掛け、彼のヘッドライトが照らす先――段差の下へと視線を下ろす。
そこに広がっていたのは、
闇ではなく、一面の黒だった。
「……ひっ」
途端に心を塗りつぶしたのは、畏れ。喉が急速に締まり、絞り出すような悲鳴が鼓膜を震わせる。
影の暗さも夜の闇も、その域には遠く及ばない。まるで風景写真の上からインクを落としたような……自然の中には有り得ない、有り得てはならないほど純度の高い『黒』。
それが段差の下、地面の禿げあがっていた範囲と同じだけ広がっていた。
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