『山根 賢治』の場合・17

 それまでカーエアコンの熱を蓄えこんでいた身体が、段々と外気の冷たさに侵されてくる。

 まさか深夜の小山に連れてこられるなんて考えていなかったので、羽織っているのはせいぜいが街歩き用のコートだ。真冬やアウトドア用とは程遠い。手渡された軍手を嵌めながら白い息を漏らしていると、八柳が思い出したように目を広げてこちらを向いた。


「あぁそれとお父さん。車の後ろっかわ崖になってっから気を付けてね……

「……?」


 まだ、大丈夫……?

 補足の意味が解らないまま、フラッシュライトの光をもう一度車の後ろへ、今度は先端を下に向けてみる。

 そこに照らし出されたのは、八柳の表現がやや大げさに思える程度の、高度差1メートルにも満たない段差だった。角度こそほぼほぼ90度であるものの、街中と違って下は土だ。喩え足を滑らせたとて大事になるとは思えない――


「あれ」


 そこで覚えた違和感に思わず声を出しながら崖の上に光を投げる私を見て、視界の端で隣に立つ兼森の表情が変わった気がした。

 冬を迎える林の中だ。どこを見ても土の上には落ちた木の実や朽ちた葉が、層を成すほどに積み重なっている。しかし車の後ろ、段差の下だけはたった1枚の枯葉、ひとかけらの小石すらない。完全に禿げあがった地面がむき出しになっていた。

 どう見ても、自然の営みの結果とは思えない。明らかに人の手が入っている……いや、それにしたって徹底し過ぎていやしないか。


「まさか、ここを掘り返して……」

「いいや」


 反射的に浮かんだもっともあり得そうな仮説は、張本人である兼森達にあっさりと否定される。だったら何だって段差の下だけ草の根1本も生えていないのか。


「降りる――トシ」

「あいよ」


 そう質問を続けようとする私の頭を飛び越して短いやりとりがなされ、呼びかけられた八柳は車から指2本分ほどの太さを持つロープを取り出した。そのまま手近な一番太い幹に目を付け、慣れた手つきでロープの一方を巻き付けると、カラビナのついた先端を下手で投げる。


「……良し」


 ――また大袈裟な。天険の崖を下るわけでもあるまいに。

 思わず漏れそうになった苦笑は、カラビナのついた先端を手の中に収めた兼森の表情を見て喉奥へと戻っていった。声と同じく真剣そのものの表情を崩さないまま、カラビナを腰のベルトに通して何度も引っ張って確認し、それからゆっくりと爪先を斜面へと踏み出していく。

 今日の今日顔を見ただけの間柄だが、この場に及んで空気の読めない冗談やおどけを好む正確でないことくらいはわかっていた。

 兼森は大真面目に、そして明白に降り立つ先にある『何か』を警戒している。 


「――確認」


 何度もライトの光を剥げた地面に当ててから、段差の下へと降り立った兼森が呟いた。一拍を待って後ろから聞こえてきた八柳の大仰な溜息も相まって、まるでそれまでが一瞬の油断をも許さない緊張の中にいたかのような錯覚さえ覚えた。

 腰に巻いた厳ついロープと兼森の表情は、いったい何を意味していた。疑問の視線を投げかけるも片や答えるのは無為とばかりに軽く首を振り、方やただ意地悪さをにじませた笑みを浮かべるだけ……それから数分の間、八柳が車の後ろから雑多な荷物を下ろしていくのをただ眺める事になった。

 3脚の椅子と携帯コンロは車の傍。そして針金で縛った薪の束と着火剤、そしてライターは段差の下の兼森へやや適当な手付きで投げていく。

 その中で殊更不思議に映ったのは、兼森も八柳も荷物を出しては手渡す間、しきりに腕時計やスマホの画面で時間を気にする仕草を見せていた事だった。

 私達以外の誰かがここへ来ることでも警戒しているのだろうか。しかしそれにしては物音に遠慮する様子もない。

 幾度か続いた荷物のリレーが終わる。兼森はこちらに向くこともなくなり、段差の下でこちらに背を向けてしゃがみ込んで何やら手を動かしている。八柳は八柳で車の傍の落ち葉を適当に足で払った後、いそいそと金属製のローテーブルと折り畳みの椅子を組み立て始めていた。

 絶えずがちゃがちゃと続く、物と物との触れ合う音。この状況ならば折り重なっていく疑問を声にしたところで問題はないだろう。

 さっきから一体、君たちは何をしているのか。

 一息に伝えるべく冷えた空気で灰を満たした矢先、兼森が降り立った崖下からフラッシュライトのそれとは違う、赤く柔らかな光が立ち上ってきた。


「今日はスムーズに点いてくれた」


 降りた時とは正反対に勢いをつけて崖を登ってきた兼森が、軍手についた泥をぱんぱんと払いながらどこか満足そうに呟く。その間にも段々と光は強まり、やがてその名の通り宵闇を炙る炎の先端が見えてきた。


「焚火……?」

「さっきから薪やらスターターやら運んでたじゃん。お父さんもしかしてインドア派?」


 冗談めかした八柳の口調に、曖昧な相槌しか返す事が出来ない。

 改めて言われなくても、崖下に放ったものを組み合わせた結果くらいは分かっていた。疑問はそこではない。なぜこのタイミングで唐突に、しかも車から離れた段差の下で火を起こしたのかという、ホワイダニットの部分だった。


「うーん、目印みたいなもんかな。あるいは合図って言った方が正しいかもしれない」

「合図……?こうして火をつけた事がか?いったい誰に?」

「にひ。それも、あと……」


 またも折り重なるこちらの疑問にも、全く誠実に答える気がない。

 そんな心づもりがありありと分かるようなにやけた表情を浮かべたまま、一度言葉を切った八柳は腕時計に目を落とす。


「20分くらいで全部わかるよ――おし。こっちもオッケェ」


 受け答えしながらも絶えず動いていた八柳の手が止まる。いつの間にか後部座席のドアの脇に人数分のチェアが車座に組まれ、その中央に置かれたローテーブルの上で風防のついたコンロがしゅんしゅんと湯を沸かしていた。


「もういいだけ身体冷えちゃったっしょ。まぁ座って座って」


 紙コップと紅茶のティーバッグを提げた八柳に促されるまま布張りのチェアに腰を沈め、そこで思い出したようにスマホを見やる。

 ……表示されている時刻は『01:43』

 思った以上に夜が更けている事に軽く驚く。寝ている間に日付を跨いだことくらいは見当がついていたが、状況やら謎やらに翻弄されている間、更にこれだけ時間が過ぎているとは思っていもいなかった。

 八柳が言うにはここから20分……午前2時を回ることで、何かが変わるとでもいうのだろうか。

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