『山根 賢治』の場合・16

「……さん」


 頭の遥か上から響く声に覚える、どこかへ遠ざかっていた自分がゆっくりと引き戻されていくような心地。

 しかしなかなか明瞭としてこない思考の中、まるで自分の輪郭すらもあやふやになってしまったような錯覚を覚えながら、しばらく夢と現の間を彷徨う。

 ここはどこで、今は何時で、どうして意識を手放していたのか。

 何より、私を呼び戻すこの声は、誰のものなのか……いくら思索の枝葉を伸ばそうとしても、真っ暗な泥濘に先端を呑み込まれてしまい、考えがまとまらない。


「……到着だよ。お父さん」


 到着?いったいどこに着いたというのか。

 私をお父さん、と呼ぶならば、声の主は綾香か?


「おーい、お父さん」


 やがて数度目の呼びかけと一緒にぐらぐらと身体が横揺れし、急速に受容した情報のディテールを取り戻しつつある五感がはっきりと告げる。

 その声が綾香にしてはあまりにも低く、太いものだという事を――


「うわぁ!」

「うわびっくりしたぁ!」

「わぁっ!」


 そこまで至った考えが、半ば本能じみて身体を突き動かしていた。

 熟睡のあまり身体は沈み込み、首だけを背もたれに残してほぼ全面を座面に着けていた背中を反動だけで跳ね起こした私。運転席から腰を浮かしウォークスルー越しに覗き込んでいたせいでその異様を目の当たりにしてしまい、思い切り仰け反った八柳。

 そしてこちらを向いていなかったせいで心構えの間も与えられず、突如上がったふたり分の声量に肩を跳ね上げた助手席の兼森。ワゴンの車内には三者三様の叫び声が響き亘った。 


「ん、んっ」

「ぃいー……耳痛ぇ……」


 どこかわざとらしい咳払いの後にルームミラー越しにこちらを伺う兼森と、渋面を広げながら耳に人差し指を突っ込む八柳の顔を交互に見比べるうちに、ここに至るまでの経緯と記憶が脳裏に蘇ってくる。

 八柳の家から冷蔵庫とレンジを運び出し、車に乗り、コーヒーを飲みながらうつらうつらと舟を漕ぎ――


「……寝てたのか、私は」


 いくら慣れない肉体労働の後だったとはいえ、信用しきれんと啖呵を切ったばかりの相手を前に、こともあろうに今の今まで無警戒な鼾をかいていた――そんな自分があまりにも情けなく、誰に向けてかわからない恥ずかしさすら覚えていた。


「そりゃもう、気持ちよさそうに……疲れてたんじゃないの」

「どれくらいだ」

「まぁ、1時間弱ってところかなぁ」


 しかし同時に意識を取り戻した今、身体は縛られていたり轡を嚙まされていたり……といった、喫緊の危険に晒されてはいないという事実に、僅かながらの安堵を覚えてもいた。

 重ねたこちらの問いかけにもあっさり答えるあたり、少なくとも現時点でふたりはこちらをどうこうしようという心づもりはないらしい。


「ここはどこだ」


 車の中を照らすのはルームランプと計器類のLEDだけで、外から光が入っては来ていない。起こした身体が僅かに後ろへ引っ張られるような感覚を覚えている……という事は、今この車が止まっているのは平地ではなく傾斜のある場所らしい。 

 そしてひとたび3人ともが口を閉じれば、耳が痛いほどの静寂がたちまち満ちていった。少なくとも、住宅街や幹線道路に路駐しているわけではなさそうだ。無理な寝姿で悲鳴を上げ始めていた腰を回して、後部座席の窓から外を伺う。 


 ――暗い。


 ひと目見た途端、心の奥底から喩える言葉が見つからないほどの原初的な恐怖が膨れ上がってきた。窓の外には星明りひとつ届かない、一面の漆黒が広がって……いや、外にある風景の輪郭ひとつ捉えられないほどの、あまりに完全な暗闇のせいで。目に映るのは光を吸収する塗料を窓一面に塗り付けられていると言われたほうがまだ信じられるような、ひらすらまでの黒一色。そう表した方が正しかった。

 ぶるりと、肩が震える。

 40数年生きてきて、今まで一度もこんな夜には居たことがない。上司を追って歩いた宵の口の奥多摩、全ての始まりとなったあの廃倉庫の前だってここまでくらくはなかった。


「じゃ、そろそろ始めるべぇ」

「そうだな」

 

 しかし。

 そんな命あるものならば等しく委縮してしまいそうな暗闇にも、ふたりは一切躊躇う様子なく、間延びした声だけを交わしてドアを開ける。


「で、出るのか?」

「そらぁ車ごと……つうか、俺達ごと処分する訳にもいかないですし」


 思わずたじろぐ私を見て苦笑と冗談を浮かべた後、八柳は何か思い当たったように小さく頷く。そして腕だけを運転席に戻しハンドルサイドのレバーを摘まむと、ヘッドライトの鮮烈な光が二眼ぶん、宵闇をくり抜いた。

 そうして出来た光の輪郭の中に浮かび上がってきた外の景色は、冬の始まりにも関わらず未だ葉を残す木々の連なりと、寒さに耐え切れず落ちた枯葉の振り積もる緩やかな坂。

 どうやら私たちがいるのは、どこかの小山の中腹らしい。


「ごめんごめん、慣れないとちっと怖いよねー」

「足元は、これで」


 八柳の声に頷きながら私が座る側のドアを開けてきた兼森が、カラビナのついた掌大のフラッシュライトを手渡してくる。

 促されるままに光源の反対側を軽く押してみると軽く驚くほど強い、それこそ範囲こそ狭いもののワゴンのハイビームにも劣らない光量が目の前を照らしてくれた。

 進む先を未知から既知へと変える事で意を決して、車の外へと降り立つ。積もる枯葉の柔らかな感触が靴底を伝わってきた。

 正面の構えたライトの光と一緒に視界を一周ぐるりと回すと。車の向いている向きとちょうど反対側に位置する木々の隙間から、遠くにぽつぽつと人の営みを示す明かりが灯っているのが見えた。

 とはいえ米粒大とまで極端に離れているわけではなく、また遥か眼下に望むといったほど角度もない。ここは山というより、すこし角度のある丘陵と喩えた方が正しいかもしれない。

 ……もしかして彼らは、ここに冷蔵庫とレンジを廃棄していくつもりなんだろうか。

 ここまでの情報を整理する頭に過ぎった、そんな疑い。その想像の正しさを後押しするように、軍手を嵌めたふたりはテールゲートを開く。


「お、おい……」


 目の前のふたりには届かないほど小さく、狼狽えた声が勝手に喉から登ってきていた。

 これまでの言動からして、これから彼らが私に『処分』のデモンストレーションを見せようとしているのは明白だった。

 来週に控えるドラム缶の廃棄本番に向けての予行演習を行う事で信用を勝ち得ようという目算だろう。しかし存分に勿体ぶった先に待っていたのがこんな乱暴なやり方とは……

 ここにきてこれまでとは逆の意味で予想を裏切られてしまった。

 遠いとはいえ灯りが見えるのだから、遥か人里離れたとは言い難いロケーションに、何の芸もなくただ放棄するつもりなのだろうか。

 とてもじゃあないが、これでは誰にもバレやしないなんて断言できる手法とは言い難い。

 むしろ全く逆……あぁ、つまるところ『安かろう悪かろう』という事なのか。やっぱり、話が美味すぎると思ったんだ――


「そんな目で見ないでよ、お父さん」


 そんな失望と疑念が顔に出ていたのだろう。一向に動かない私を気にして戻ってきた八柳が、これまた何かを察したように意味深げな笑いを投げかけてくる。


「しかし、これでは――」

「早計は損の元だぜ?がっかりするのはこれから起きる事を全部見終えてからでも遅くない、そうだろ?」


 相変わらず、この男の口は良く回る。しかし今度という今度は迂闊うかつに流されてしまうわけにはいかなかった。

 なおも解けない私の半眼に八柳の眉がハの字を描き、そこに乾いた笑いが添えられる。そんなやりとりを見兼ねてか、今度は兼森が口を挟んできた。


「もしこちらのやり方を全て見て、それでも不安が残ったならば――」


 声の方へ向けた視線に移る彼の表情は、決裂しそうな交渉を押しとどめる必死さも窺えない、その口調と同様ただただ淡々としたものだった。


「その時は責任を以って、別の業者を紹介します。委託料も半分持ちましょう。ですから結論を下すのは、もう少し待ってもらえますか」

「……そこまで言うなら、まぁ」

 

 しぶしぶといった口調で引き下がる私を見て兼森はただ頷き、その影で八柳が胸を撫で下ろしているのが見えた。

 本来全く払う道理のない保障を付け加えた上、よしんば上手くいったところで彼らにとって全く得のない譲歩。裏を返せばこれから私に見せる手法ものに、それだけ絶対的な自信がある、ということだろう。

 一旦舌鋒を納める事にしたのは、ここから単なる不法投棄ではないを見せようというのか――

 言い換えればその根拠。やり方を見せさえしてしまえば、こちらが断るはずはないという確信。その根拠がどんなものなのか、強く興味を惹かれたからだった。

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