『山根 賢治』の場合・15
「あーお父さん!横じゃなくて縦!」
毛布で包まれた冷蔵庫を挟んで飛んできた八柳の声に、慌てて倒しかけた重心を元へと戻す。その拍子に上腕が軋むような嫌な音が体の内側から巡り、ひとりでに顔が歪んだ。
「あとその持ち方じゃ腰イワすって!」
「……と、言われて、も……っ!」
時間帯を考慮してか声量こそ抑えられているものの、そこには不慣れな私に対する多大な呆れと同じくらいの心配の色が見て取れる。
とはいえ荷物越しの彼はこちらの姿が見えている訳ではなく、また具体性のある助言を伝えてもくれなかった。
「じゃ、行くよー」
結局数秒の猶予だけを与えられた後、掛け声とともに冷蔵庫が玄関の外へと向かって引っ張られ始める。
何も状況が好転していないままどうにか懸命に数歩足を進めて見るものの、早くも
「腕は前に伸ばさず、なるべく身体をくっつけるといい」
いよいよ玉の汗が額に浮かび始め、苦悶に歯を食いしばる私の後ろから、対照的に冷涼な声でアドバイスが届いた。
「上半身全体で支えるイメージ」
捻る首と視線だけで振り向いた先には、私達と同じく軍手を嵌め、両腕でギリギリ収まるくらいの段ボールを抱えた兼森がいた。
さすがに私と八柳が運ぶ冷蔵庫よりは数段軽そうだが、それでも時折運ぶのに難儀するように腕のポジションを変え、その度浅く息を吐いている。
「こう、か」
言われるがままに肘を曲げて身体を冷蔵庫に密着させてみる。するとそれまで腕だけに掛かっていた重量が分散され、いよいよ小刻みに震え出して限界を告げていた腕もいくぶんか落ち着きを取り戻してくれた。
これで細かに休息を挟めさえすれば、どうにか車まで体力が保ちそうな展望が見えてきた。
「うん。エレベーターとか共用部分は養生してないから、慎重に」
「頼むよ。バレたら修繕費自腹になっちゃうからさぁ」
そんな安心もつかの間。続ける兼森と八柳の言葉に別種のプレッシャーを覚えた身が再び
というか何故私が引っ越し屋の真似事をしなければならないのか。それもこんな夜更けに――
「っ……と!」
「言った傍からもぉー!」
今更ながらの根源的な疑問が頭を過ぎるあまり気が逸れ、危うく握る手が滑りそうになった。急な重心の暴れように驚き、近隣住民への配慮も忘れた八柳の悲鳴に目礼で謝罪を返すが、心の底ではどうにも納得のいかない思いがわだかまっていく。
『信じられないなら証拠を見せる。付いてこい』
喫茶店でのやり取りの最後、心に残る最後の不信を言葉にした私に向かってふたりが言い放ったことば。
その意図を推し図る間もなくさっさと店を出たふたりに促されるまま車に乗せられ……そしてなんの因果か私は今、買い換えて用済みになったらしい冷蔵庫と電子レンジを八柳の家から運び出す手伝いをさせられているのだから。
当然、ふたりと一緒に喫茶店から出てここで軍手を
やはり私は騙されて、これも体よく利用されている一環なのではあるまいか――にしては相当にしょうもない利用のされ方だが。
「うーし、じゃ次郎やん、俺達は先に降りるぜ」
八柳の呼びかけに首肯だけを返した兼森を残し、エレベーターのドアが閉まる。
ふたり暮らしには不釣り合いに大きな300Lサイズの冷蔵庫と、それを持つ大人ふたりで既に籠の容量はギリギリだった。
「いっぺん下ろすべ」
「……ああ」
廊下や壁とは違い、エレベーターの床には厚みのあるカーペットが敷いてあった。
ここならば問題ないだろう。冷蔵庫の底面を慎重に床へ着けると同時に、籠が緩やかに下降を始める。
「いやー、悪いね。ついでとはいえ面倒な事手伝ってもらっちゃってさ」
5階から1階に降りる、僅かな休息の時間。その途中で八柳が不意に、本当に申し訳ないと思っているのか疑問に思うほどの声色で謝ってきた。
共に向けられている笑顔の屈託のなさを前に返す言葉を探しあぐね、目線はひとりでに階層を表示するパネルへと逃げていく。
表情そのものは出会った時と何も変わらない、歳と見掛けに不相応なほど無邪気なものだ。何も知らなければつい身構えを解き、思わず懐を開けてしまうような人懐こさ。
……だが彼の――正確には彼らの――別側面が見え始めている今では、むしろ逆にある種の空恐ろしさすら覚える。
「全くだ。本当にこの手伝い、意味があることなんだろうね」
「まぁそれは後々のお楽しみ、ということで」
ゆめゆめ気を緩める
言葉に必要以上の険を込めたのは、そんな自戒を込める為でもあった。
しかしこちらの語気にも半眼にもまったくたじろぐことなく、八柳は勿体ぶった口調ではぐらかす。
「あのな――」『1階です』
こちらの更なる追及よりも先に口を開いたエレベーターが、エントランスへの到着を間抜けな合成音声で告げてくる。
「うっし、後ひと踏ん張り行きましょうや、お父さん」
まったく悪びれる様子もないまま、八柳はカラッとした口調でこちらを励ましながら腰をかがめ、冷蔵庫を持ち上げに掛かる。
相も変わらず、疑念は晴れないまま――話にならないと
しかしそうたところで、待っているのはここの管理人の説教と、やはり破談になった末の袋小路だけだ。
「……お父さん、はやめろ」
つまるところいくら疑念が拭えなかろうが、やると決めて一度漕ぎ出してしまったオールを手放すわけにはいかない、ということだ。
心の中で膨らみ続けるわだかまりが上乗せされたように、再び持ち上げる冷蔵庫は一段と重みを増したように思えた。
※ ※ ※
両膝に置く腕に痺れを覚えながら肩を上下させる私の後ろで、ワゴンのテールゲートが閉まる音が勢いよく響き渡った。
「うっし、これでオッケェと」
満足気に額の汗を拭う仕草を見せてから、八柳がこちらへと手を伸ばしてくる。
「そう、いえば、兼森……君は」
しかしすぐに息を整えてその手を取る余裕もない私は、代わりに切れ切れの言葉と助手席に向ける視線で彼へと問いかけた。階下まではエレベーターで下った私たちの方が早かったが、そこから駐車場まで向かうまでに、いつの間にか抜かれていたらしい。辿り着いたワゴンのゲートは先に開けられており、奥には兼森が運んでいた電子レンジの段ボール箱がすでに鎮座していた。
「あぁ、ちょっとコンビニ寄ってくるってさ。多分飲み物でも買いに行ったんだべ……と」
答えながら一度こちらから目線を外した八柳が、エントランスのほうへと振り返る。そこにはいつの間にか、若い女性がひとり顔を見せていた。
「んじゃサーヤ、行ってくるわ」
「ん、行ってらー。気ぃつけてね」
八柳に向かって、女性は芯のないような緩い喋り方と一緒にネイルの伸びる手をひらひらと振ってみせる。
始めは騒音に文句を言いに来た住人かともと思ったが、どうやら違うようだ。私や兼森に話す時とはまた違う、快活さを込めた声の八柳と慣れた様子で交わしているやりとり。そして何より聞き覚えのある名前で思い当たった。
初めて会った時話に出てきた八柳の恋人は、悪い意味で存在感を存分に主張するキャラクター物のパジャマにクロックスといういかにもな着こなしの上で、額の両サイドで留めた長い金の髪が肩口で踊らせていた――視界に捉えているというのにどこか現実に存在することを疑いたくなるようなその出立ちを、顔の造作の良さで無理やり纏め上げている……歯に衣着せぬ物言いをすればそんな印象を受ける姿もまた、八柳の伴侶と言えばどこか納得のいく話に思えた。
「あぁ、山根サンも、ありがとうございました」
「……?」
しまった。無遠慮な視線を向け過ぎたか。
それまで八柳と軽い喧嘩にも思えるじゃれ合いを続けていたサーヤとやらの視線が不意にこちらを向き、思わず曲げていた膝が伸びる。
しかし続けて向けられた礼の意味が解らず、互いの間に何とも言えない沈黙が挟まった。
「仲直りの切っ掛け、与えてくれたでしょう?」
「あー……」
そういえば出会った当初にそんな話を零された気もする。おぼろげながら思い当たって唸る私に、サーヤが白い歯を見せて笑った。花がほころぶ瞬間を見せられるようなその笑顔も、なるほどどこか八柳の破顔と通ずるものがあった。
「いきなりレンジ抱えて帰ってきて、その上冷蔵庫処分すんべーなんて言って来た時にはびっくりしたけど」
「どういうことだ?」
「あーほら、お父さん言っていたじゃん。『突然のマイナスには突然のプラスが効く』ってさ」
ふたたび要領を得られず首を傾げる私を見兼ねてか、それとも照れくささが限界になったのか、八柳の付け足しが横から入ってきた。
「そんで、甘いもんだけじゃ足んないかなと思って……前々から買い換えたいって言ってたの思い出して」
「そういうこと。おかげで大ゲンカにもならずに済んだし」
そういって、ふたりは丁寧に頭を下げてくる。
なるほど、この重労働は八柳がサーヤに捧げたサプライズの後始末だったということか。そんな真相と併せて知らない間に遠因に私の方言があった事を知り、少しだけこの荷物運びに溜飲が……下がることはなかったものの、外見に似つかわしくないと思ってしまう程礼儀正しく腰を曲げてみせるふたりを前に、これ以上くさす気は起らなかった。
「まぁ、年の功が役に立ったなら何よりだよ」
「うん。山根サンにも良い事あるといいね」
そう言い残してエントランスへ戻っていくサーヤと入れ替わるように、今度はしっかりとした革靴の底がアスファルトを叩く音が近づいてくる。首を90度回してその音の方へ向くと、カップのコーヒーを右手にひとつ、左手にふたつ挟んだ兼森がこちらに歩いてくるのが見えた。
「お疲れ様」
「サーンキュ、次郎ちゃん」
いうが早いか、駆け寄った八柳は兼森の左手に収まるコーヒーをさっと受け取り、運転席へと乗り込んでいく。
「さっき飲んだほどのものではないけれど――」
「いいや、嬉しいよ」
差し出された右手の中で湯気を立ち上らせるカップを受け取って私は後部座席の、そして兼森は助手席のドアに手を掛ける。連なるドアの閉まる音とほとんど一緒に、エンジンの起動音がけたたましく駐車場に嘶いた。
「んじゃ、行きますか」
「どこにだ?」
「もちろん、こいつらを『消し』にさ」
また『捨てる』ではなく『消す』――
バックのついでに振り向いて、目線だけで冷蔵庫と電子レンジを指す八柳にこちらも目だけでその疑念を呈するが、やはりというべきか答えは返ってこない。目の前の背もたれに阻まれてその表情は見えないが、恐らく兼森に訊ねたところで同じだろう。そこには直感じみた諦めがあった。
無論、どこへ向かうかも告げられないまま、窓の外では暗闇に画一化された夜景がゆるやかに流れていく。覚える所在のなさから手渡されたコーヒーを口に運ぶと、夕方喫茶店で馳走になったものとは天と地ほどの落差がある、あまりにもありふれた味わいが口を侵していった。
その無感動さ故か。カフェインは全く役目を果たさず、無言の車内の中でやがて瞼がだんだんと重たくなっていった。
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