『山根 賢治』の場合・14
「ああ、間違いない」
傾けたカップをわざとゆっくり戻してから応える。
敬語を外したのは半ば無意識の判断だった。余分なへりくだりは余計な気後れを連れてくる。
彼らに呑まれてはいけない。
いかに八柳が人当たり良く見えようが、兼森が幼く見えようが、ふたりは――少なくとも数日前のわたしよりは――日の当たらない道を歩んでいる人種だ。
認識を誤ったまま話を進めれば、いつ食い物にされてもおかしくない。
「中身は」
「御法に触れるようなものでも関係ない……そう聞いているが」
身構えるあまり挟んだ口に兼森ではなく、八柳の片眉がつり上がったのが見えた。
仕事を頼みたいと言ったからここへ連れてきたのに、ここに来てテーブルをひっくり返す気か、とでも思っているのだろう。
言い分はごもっともだ。私だって下手に話をこじらせたいわけではない。だが全てを納得してここに座っているわけではないのも事実だった。指定した金さえ払えばなんでも引き受けて処分する……それが大言壮語でないのなら、中身を知らなくとも差支えはないだろう。
「ええ、処分します」
ならば何故知り得ないと仕事を受けないのか。
その答えを迂回するような言い回しに苛立つあまり、ソーサーに戻すカップががちゃりと音を立てていた。
「中身は問いませんし、開けもしません。ですが正直に話していただかないと、後々困った事になる可能性がある」
そんな言外の催促に返ってきた答えは、何とも要領を得ないものだった。
開けないなら、答えを確かめようがない。いよいよもって事前に訊ねる意味がなくなるだろうに。
それ以上に気になったのが、兼森の言い分がどこか他人事……というより、自分の裁量外の何かを気に掛けているように聞こえた事だ。
「君が、か?」
「いいえ『お互いに』です」
直感的に抱いたその感想が間違っていない事を、補足の問答が裏打ちした。
処分した後のトラブルを気にするならば、そもそも中身の確認を受託の条件とすればいい。自分の目で確かめる方が、言葉だけの問答よりも確実なのは言うまでもない。加えてそこで受託の可否を決める方がスムーズだろう。
なのに彼らはそうしない。
その論理破綻にはあくまで何でも引き受けるという前提を崩す気はないという、ある種の意固地さすら垣間見える。
だとするとその上で中身を申告せよという条件の根拠には、彼らの胸先三寸以外の都合が介在している――そう考えないとこの無意味な回り道の筋が通らない。
「これは『ルール』なんです」
「
すかさず詰める私に兼森は答えず、返って来るのは光のない視線だけ。
本当に私は、この男を信頼していいのだろうか。
揺らぐ私の決意を見透かすのは、兼森より八柳の方が早かった。
「……お父さん、せっかくここまで来たんだからさ。あんまり時間もないんじゃないの?」
ぐ、っと、思わず喉が詰まる。
彼らを信用できるエビデンスはない。だがここで不信を理由に彼らとの会合を袖にしたところで、話が振出しに戻るだけだ。度重なる偶然の上で八柳に出会った以外、あの缶を中身不問のまま都合よく処理してくれる当てなどいくら探しても見つからなかった。
その状況を鑑みれば刻一刻と迫る期限までに新たに処理できる先に託す……どころか、候補を見つけて交渉の場に立てる見通しなどないも同然。
戻るは闇、進むも闇。
だが一点だけ異なるとするならば振り向いた先ではなく、今見ている前の方には、わずかながらも『可能性』が輪郭を見せていることだ。
「ご納得いただけないようでしたら、この話は――」
「ま、待ってくれ」
刻限を告げるように、やがて兼森はこちらから視線を外す。その声に僅か滲んだ呆れを聞いて取った途端、気づけばテーブルから身を乗り出していた。
……腹を括らなければならないときだ。
今更どこへ進もうが不慣れで理不尽で、なにより不透明な闇の中。同じく転げ落ちる坂の途中なら、喩えそれが藁だろうが――罠だろうが――そこに掴む寄る辺、可能性がある方へ進むべきだ。
迷いを振り払うように首を振った私を見て、ふたりが早合点した様子で互いに視線を交わす。
「済まない。臆病風に吹かれてしまった」
語気を強めて顔を上げる私の剣幕に、顔を見合わせる2人の目が僅かに見開かれていく。
「……そう来なくっちゃ」
満足そうに八柳は笑い、兼森は座る姿勢を正す。私は息を浅く吸って深く吐き出し、肺腑に残った最後の迷いを吐き出しきって続ける。
「中身は硫酸ピッチだ。それが4缶」
「なるほど、不正軽油の副産物か」
――え?
そこに大した驚きもなく、兼森はむしろ得心した様子で
その姿に覚えたのは驚きや関心ではなく、どこか例えようのない違和感だった。
「ずいぶんと厄介なものを押し付けられましたね」
「分かるのか」
一瞬覚えた引っ掛かりの正体を探る前に話が進んでしまう。
「初めてではありません。もっとも、量としては今回のほうがよほど小規模ですが……」
「そう、なのか……?」
打ち明けてなお、自らが捨てるものの正体がいまいちつかめず、出て来るのは胡乱気な相槌だけ。
「そーそー、お父さん運が良かったね」
どうにも打てども響かない、いや、打たれても響けない。
そんな私の心境を汲み取ったのか、それまで兼森に追従して時折頷くだけだった八柳が口を挟んできた。
「ざっくり言えば
「それ、って」
「ああ。完全に脱税行為だ。加えてこいつの密造は完全な組織的……つうか、反社案件ですよ。下手なトコ持ち込んでたら今頃警察か、もっと質の悪い連中に追っかけ回されてるとこだったよ」
さっきの決断を誤ることで歩んでいたかもしれないその未来を想像して、背筋に冷たいものが走る。
もしふたりに会う前に他の、適当な業者に中身を教えていれば、人生の再浮上どころか止まらない転落の先……終着が待ち受けていたという事か。
だが、現状を不幸中の幸いと言い切るには、まだ早い。
「君たちも――」
「ん?」
呟く私に八柳は鼻から漏らす息で疑問を呈し、兼森はこちらの口元をじっと見つめている。
私はまだ、彼らの能力や性質を目の当たりにしたわけではない。
このふたりは本当にどこにも角を立てず硫酸ピッチを処理できるのか。
事前に提示された金額だけで本当に仕事をこなしてくれるのか。
……これ以降、弱みを握ったとして私を食い物にしないのか。
「そうじゃないという保証が、まだ見えていない」
静かに、あくまで余裕ぶった口ぶりを心掛けたつもりだったが、自らの小心までは騙せなかった。
喉の奥が恐れに詰まり、声が震える。目を泳がせながら不安を吐露する私を見て、ふたりの口角が僅かに上がったように見えた。
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