『山根 賢治』の場合・13

「ほら、お父さんも入った入った」

「お……っと」


 逡巡しているこちらに気付いた八柳が戻ってきて、私の背中を押して半ば強引に部屋に入れてドアを閉めそれだけでコーヒーの香りも有線の音楽も遥か遠くへ遮断される。

 そこには燻した茶色がニスで輝く木目と、だいだいがかった温かな光に包まれていたフロアとは対照的な空間が広がっていた。昼白色の蛍光灯にこれまた真っ白な壁紙が空気を引き締めるような、ただ静寂が支配する部屋――その禁域を侵すように私たちがそこそこ派手に立ててしまった雑音にも、青年はこれといった反応を示さなかった。 

 左手に持っている本に目を落としているせいで、その顔までは窺えない。テーブルには飲みかけのカップが置かれ、その脇には几帳面に角を揃えて広げられたノートと筆記用具、そしてタブレットが並べられている。

 やや困った様子で反応を待つ八柳と、そもそもどう接していいかの検討も付かない私。それに気付かない様子の青年がページを繰り、ノートにペンを走らせる音だけがしばらく、音のない部屋に殊更大きく響いた。


次郎ジロちゃん」

「あぁ、すまない」


 やがて堪えかねた八柳の呼びかけに答えた青年が、やっとの事で本を閉じて顔を上げた。

 ……学生、か?

 その表紙に貼られた大学図書館のバーコードと、ノートに書かれた『学籍番号』という文字を見てまさか、という心地が湧きあがる。


「いや、すぐ気付けし」

「課題の切りが悪かった」


 しかし続いて悪びれる様子もなく彼が放ったというキーワードは、覚えた予感が正しかったことを証明してくれた。

 呆れた様子の八柳に返す声はその華奢な体躯に見合わないほど低く、また異常なまでに落ち着いている。気分を切り替える為か、椅子に座り直してコーヒーカップを傾けるその顔も同様、大人にな社会に出る前特有の浮わついた様子は微塵もない。

 だがそれでも、にわかに信じがたい話だった。

 こんな商売を、私の命運を担っているのがまさか、いまだ学び舎に籍を置くものなどとは――


「――っ!」


 悪寒にも似た緊張が、再び体を強張らせる。いつの間にかカップを置き顎を僅かに上げた青年の、半分据わった黒い瞳がまっすぐにこちらを捉えていた。

 八柳の眼差しがどこか侮りを覚える、人を食ったようなそれだとするならば、前髪の隙間から覗く彼の視線はまるで切っ先を突きつけてくるような息詰まる心地を齎すものだった。

 立場や年齢、形成された価値観や抱く信念……曲がりなりにも営業として、社会人として今まで様々な性質を持つ対手を見て、やり取りを交わしてきた。だが、彼はそのどれとも似つかわしくない何かを持っている。

 ――いや、あるいはのか……?

 とかく対峙してきた誰とも重ならない異質さを帯びている。この僅かな視線の交錯の中で、それだけは断言できた。

 それこそ立場や年齢にそぐわないほど不穏かつ、それに見合う報酬を懐に入れている筈であろう仕事のトップにいる筈の彼の目には、野望に邁進するようなぎらつきも、洋々の前途を望む輝きもない。



 

 その目には、底が見えない。




「不安は分からないでもないが、あまりじろじろ見られるのは気分が良くないな」

「あ、あぁ。申し訳ない……」

 

 怒気も厭気も含まない、低温で乾いた声。それを受け慌てて視線を逸らす私にそれ以上何を言うでもなく、青年はゆっくりと机を片付けにかかり始めた。

 ……しまった。少なくとも良いとは言えない第一印象を与えてしまった。今まで取り掛かっていたものを鞄にしまっているあたり、こちらの話を聞く心づもりは一応あるのだろうが、今のやり取りが今後の交渉でこちらの有利に働くとは思えなかった。


「まぁまぁ次郎ちゃん、お父さんも緊張しているんだよ」


 思わぬ失策を悔やむ心地が顔に出ていたのか、それまで事の成り行きを見守っていた八柳が私と青年の間にはいって取り成してくる。


「失礼いたします」


 同時に、まるでタイミングを計ったように控えめのノックの音が響き、3人分のコーヒーとひと皿のパンケーキをトレイに乗せたマスターが顔を覗かせる。

 ほのかにメープルの香りが混じるコーヒーの湯気が場の毒気を中和してくれたのか、肩をすくめた青年が、纏った圧を若干緩めた気がした。


「あいよ。砂糖はいらないんだよな」

「ん」


 ドアの傍でトレイを受け取った八柳が青年に確認を取ってから、その傍らにあった空のカップを取り換えにかかった。それから対角線上の椅子を引いて当然のことのように自らの前にカップとパンケーキを置きながら腰掛ける。そして最後にその隣へトレイに残された最後のコーヒーを置かれ、八柳の右隣、青年の真正面が私の席次となった。


「まぁ、まずは一口飲んで落ち着こうや」


 こちらへ促しながら、八柳は待ちきれなかった様子でたっぷりのホイップをナイフで表面に擦り付けながら、大口を開けて半分ほどを一気に頬張った。嚥下してから目を閉じ、その風体に見合わず女子のように肩を震わせる八柳を尻目に、テーブルを片付け終えた青年が静かにカップを口へと運んだ。

 それに倣い、私もおずおずと取っ手を掴み、中の澄んだ琥珀を啜る。


「あ……」

「美味しいでしょ」


 淹れた張本人でもないのに誇らしげな表情を浮かべる八柳に、口を閉じたまま首肯を返すことしかできなかった。

 受け答えに口を開ければ風味が逃げる。それを忌避してしまうほど、普段無感動に飲んでいる缶コーヒーとはまるで世界を違ったからだ。包み込まれるような馥郁ふくいくとした香りと奇跡的に同居した、目の覚めるような深い味わいが口の中を支配していく。

 

「ほんじゃまあ改めて……こちら今回のクライアント、山根賢治サンね」


 この場所を提供してくれる店主への気遣いか。私が充分にその味を楽しむ程度の間を設けてくれてから、口の端についたクリームをナプキンで拭った八柳がこちらを向いてくる。


「ど、どうも」


 突然の紹介に預かって口から出たのは、この場で最も歳を食っているとは思えないほど、落ち着きなく上ずった挨拶だった。

 情けないほどに緊張がぶり返しているのが見え見えで、年長者の威厳もあったものではない。惨めさと気まずさを覚えながらすくめがちに首を下げる私を笑うでもなく、かといってフォローするでもなく、青年はただ目礼を返すにとどまっていた。

 

「で、こっちが俺のボスにして責任者――」

「兼森次郎です。よろしく」


 しかし八柳が自身の紹介に移ると知るや、まるでそれが見せるべき礼節であると主張するように、半ば強引に言葉を引き継いで自らの名を口にした。

 むやみやたら圧を掛けて主導権を握りたいわけではなく、単にがしっかりしているだけなのだろう――しっかりと敬った口調に戻すその律義さからほんの少しだけ、彼の人となりが見えた気がした。


「よろしく。兼森……さん」

「呼び捨てで結構ですよ」

「そーそ。お父さんはウチらのお客様、なんだからさ」


 私と兼森の間の摩擦係数が減った事に安堵した様子で、横から訳知り顔で割って入る八柳。無遠慮なその笑顔を一瞥で制した兼森は、声のトーンを更に一段階落として続けた。


「……ええ。俊治からアウトラインは聴いていますが一応確認を――今回ウチで処分したいものは200リッターのドラム缶を4本で、間違いないですね」


 処分。

 その言葉が兼森の口から出た途端、僅かに弛緩していた空気が再びピンと張り詰めていく。乾く唇に運ぶコーヒーの風味が、あからさまに遠ざかった気がした。

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