『山根 賢治』の場合・12

 まばらな人いきれと一緒に改札を出て初めて、昼前からしつこく降り続いていた小雨がいつの間にか止んでいたことに気付いた。

 あれから一晩経っても、浮足立った心地が落ち着きを取り戻すことはなかった。まるで心が絶えずとろ火に掛けられているように、焦りと緊張と高揚が綯い交ぜになった感情がずっと静かに渦巻き続けている。

 当然、普段乗り慣れない私鉄下り線の景色を楽しむ余裕などはなかった。雲間から差し込む夕暮れの陽光を見上げていた視線を落としてようやく、この街が東京を名乗るにしては映る景色にずいぶんと山の緑が多いということに気付いたくらいだ。

 ともあれ――間抜けに開きかけていた折り畳み傘を鞄に仕舞い、それと入れ違いに内ポケットから八柳に貰ったメモの切れ端を取り出す。

 彼と、その後ろにいる『ボス』なる人物は、ここから数度角を曲がった住宅地の一角にある喫茶店にいる――ここから大体5、6分か。スマホに開いた地図とメモの方角を合わせて見当をつける。待ち合わせにはまだ30分程早いが、どこかで時間を潰す気にもなれなかった。

 遅れてボスとやらの心証をハナから損ねるよりはマシだろう。腹を決めて歩き出そうと再び上げた視線の端を、ここ数日で嫌というほど見慣れた人懐っこい笑みが掠めた。


「こっちこっち、お父さーん!」


 こちらが驚きに目を丸くすより早く、人目もはばからない大声で私を呼ぶ声が無遠慮に響き亘った。

 ロータリーの向こうから、八柳が大手を振りながら小走りで寄って来る。輝度を落とした居酒屋の明かりではない外の光の下、細身のジーンズにカーキ色のフーディというラフな格好も手伝って、その顔はひとまわり幼い印象を受けた。纏っていた胡散臭さもずいぶんと鳴りを潜めているように見える。


「わかった。わかったから」


 ともあれ、一体何事かとこちらを見てくる周囲の視線が痛い。こちらも歩み寄りながら振るかぶりで声と動きに制止を掛け、ちょうどロータリーにかかる横断歩道の真ん中で八柳と合流する運びとなった。


「店の前で待っているんじゃなかったのか?」

「いやーあの店ちょっと分かりにくいとこにあんのよね。で、ちょうど今日暇してたから、お迎えに上がってみました」


 一応は彼なりの気遣いらしい。軽い首肯で感謝を伝える私に向かって得意げに破顔した後、八柳が改めてこちらと肩を並べて歩き出した。

 ボスとやらに合流した旨を伝えているのだろうか。八柳はこちらに合わせて歩くペースを全く乱すことなく、それでいて結構な速度でスマホに指を走らせている。


「昨日の今日で悪いね」

「いや、話は早くまとまった方がいい」


 前など全く見ていないようにしか見えない、見事なまでの歩きスマホの姿勢……にも関わらず、八柳は時々向かってくる人にはいち早く反応し、何の苦も無くすいすいと避ける。

 それを見事なものだと眺めているうちにどんどん大通りから離れ、私達はおよそ店構えの似合わない住宅街へと入り込んでいく。

 歩き疲れてきたからか、あるいは周りの目がなくなったからか、喉奥から不意にあくびが沸き上がってきた。昨日寝付いたのは結局明け方だったし、それ以前にリストラの話が出てからずっと、深く眠れた日がない。

 気を張っているつもりでも、心身は着実に摩耗し続けていた。


「あんま寝てないんじゃないの?」


 大口を開けるのも何か憚られるような気がして口の端で噛み殺しはしたものの、視界の端でそれを目ざとく捉えられていたようだ。スマホの画面から目を離した八柳が、こちらを気遣うような目を向けてくる。


「……分かるかい」

「まーね。


 用の済んだスマホをポケットに押し込んで、八柳が薄く笑いを顔に張り付ける。みんな、というのは彼が今までここに連れてきた『顧客』の事を指すのだろう。

 やんごとなき事情といっしょに、表立って処理できないものを抱え込んで彼へ辿り着き、そしてこの道の先で待つ何者かに、文字通り命運を握られる――


「その、君の言う『ボス』っていうのは、どんな人なんだい」


 そこまで考え至り、底冷えする山背に吹かれたような心細い声がひとりでに口から零れる。


「それは会ってからのお楽しみ――」


 よほど不安そうか、あるいは緊張した顔をしていたのだろうか。こちらの質問を受けておちゃらけた口調で返しかけた八柳の声は、途中で途切れた。


「ちょっとネクラーな感じはあるけど、別に普通よ?悪い人間じゃない。怖くもない、多分」

「そう、か」


 彼なりに不安を取り除こうと心を砕いているのは伝わってきたものの、特段具体性を帯びない情報の羅列はむしろ、私の中でまだ見ぬその姿に不気味さだけを添える結果となって終わった。


「まぁ善良な人間、ってわけでもないけどね」

「一体どっちなんだ」


 あっけらかんそう付け足す八柳に、思わず尖る口を返してしまう。

 彼の下すボスに対する評価は善人か悪人なのか。

 付け加えると、君は私を安心させたいのか不安にさせたいのか。


「んな睨みなさんな。世の中、2色で色分けできるもんばかりってワケでもないでしょ」 


 ひとつの言葉に込めたふたつの疑問がこれまた器用に一言で纏めて返されたことで、なおも軽薄な笑いを浮かべる彼の頭の良さを再評価せねばならなくなった。 

 尤もだ。そもそも世間一般にいう『普通の』『怖くない』人間は、日陰の仕事を生業とはしないだろう。内に育った性質か、あるいは取り巻く環境か……どこかに日陰を歩まなければならない要素、つまり善や一般といった表現の反対にある何か帯びる。

 しかし同時に、それはいくら大きくともひとつの側面に過ぎず、その人が善性をまったく同居させていないという証明にはなり得ない。凶悪な通り魔の素性を訊ねるリポーターが「普段は優しい人でした」というような回答しか得られず渋面を浮かべるなど、良くある話だろう。

 大丈夫、これ以上悪い事にはならないさ……などと己のうちに一般論を露じ、待ち合わせ場所が近くなるにつれざわつき始める心を落ち着かせようと試みる。


「まぁ、百聞は一見にナントカっていうじゃない。取って食われはしないから安心しなって」


 やはりというべきか、そんな内情を筒抜けだったようで。ボス評をそんな気休めで締めくくった八柳は、すっかり強張っていた私の肩を軽く叩いた。 


「『なんとかしてくれるか』『してくれねーか』。お父さんにとっちゃ善悪よりそっちのほうが重要でしょ」

「あ、あぁ」

「なんちゅーてる間にご到着、っと」


 持って生まれた鋭さなのか、その声はいちいち予備動作なく核心に切り込んでくる。目を合わせられないまま濁った返事を返すと、それに続く声は1歩半ぶん離れて聞こえてきた。

 こちらが気付く前に足を止めていた八柳のほうへ振り向くと、彼はそれなりの築年数が経過していそうなマンションの1階に提げられている看板を目で指し示していた。

 

「……?」

「変な名前っしょー?なんか意味があるって聞いたんだけど、忘れちゃったなあ」 


 その視線の先を追うと、古木の幹を輪切りにして作られた、やや歪な楕円を描くこげ茶色の看板が目に入った。

 幾重にも重なる年輪と、その上に記された手書きにかかわらずどこか無機質さを覚える白抜きの3文字。訊ねたところでその意味は解らなかったが、良く磨かれた窓から覗けるこぢんまりとした店内と鼻をくすぐってきたコーヒー豆の香りはここがいわゆるコーヒースタンドではない、昔ながらの喫茶店然としていることを教えてくれた。 

 その看板に負けないほどに年季が入った木材が随所にあしらわれた、一見で入るには少しばかり気後れを覚える重厚な佇まい。しかし当の八柳は全く怖気づくこともなく、無遠慮な力強さでドアの取っ手を引っ張った。


「うぃーっす」

「いらっしゃい……ああ、八柳さん」


 乱暴に身を躍らせながらがらんがらんと悲鳴を上げるドアのベルにも動じない様子で、カウンターの内側にいる男性が軽い会釈をこちらに向けてきた。その落ち着きとするりと出てきた彼の苗字から察するに、いちいち口咎めるまでもないほど繰り返されてきたやり取りなのだろう。

 数秒ほど遅れておずおずとドアを潜ると、淡い暖色の照明と優しく沸き立つお湯の音を邪魔しない有線のインスト、そして一層強さを増したコーヒーの香りに包まれた。

 とろ火に掛けられた独特の注ぎ口のついたケトルと、隣に並ぶサイフォン式のドリッパー。どちらも良く使い込まれており、カウンターは曇りひとつなく明かりを反射している。

 ……『良い店』だ。

 こんな日でもなければ長居してゆっくりと雰囲気を楽しみたい――ひと目でそんな判断が下せるほど心地の良い空間に、幾分かだが緊張が和らいだ気がした。


「半月ぶりっすかね。どですか、景気は」

「相変わらずですよ。どうにか飢えずにやれています」


 店の中にいるのは彼ひとりのようだった。

 店員だけの話ではない。カウンターに並ぶ3つの椅子には誰も座っておらず、反対側の壁にふたつ並んだ4人掛けのテーブルもまた無人。夕暮れ前のの半端な時間とはいえ、明らかな閑古鳥だ。

 にもかかわらず営業マンのような八柳の調子に、彼は皮肉でもなく柔らかく笑っている。まるでこれがこの店の日常だ、と言わんばかりの様子が少し不思議だった。

 あくまで偏見だが――まぁ、個人経営の喫茶店など半分が道楽商売みたいなもんだろう。その態度が不景気に対する痩せ我慢の空元気であると、一概に断じる気にはならなかった。

 そんな他愛のないやり取りの並行して続いていた目線のやりとりの最中、不意に店長の視線がこちらを一瞥してきた。その丸眼鏡の向こうにある穏やかだが、どこかこちらを見透かしてやろうとするような視線に晒され、口の中が一段と乾く。


「……もういらっしゃっていますよ。3番へどうぞ」

「りょ」


 これまた慣れた、あるいは悟ったような様子で促す店長に、八柳は短くそれだけを返す。

 恐らく了解、という意味だろう。礼替わりといったように彼に向かって左手を軽く挙げてから、八柳は奥へ進もうとする。


「3番?」

 

 そんな彼に思わず訊ねながら視線で追いかけ、その答えを待つ間もなく疑問はすぐに氷解した。外からは見えなかったが、店の最奥には球形のノブがついた覗き窓のないドアが3つ並び、それぞれに1から3の番号が振られている。


「内緒話にはぴったりの場所さ。作戦会議からまで、ね」


 冗談めかした声とともにその一番右端に立った八柳は、軽く握った右手の甲を顔の前に持ってくる。

 そして店に入ったときとはまるで正反対の慎重さを以て、ドアを弱く3度ノックした。


「お待たせぃ」


 しかし返事は待たずして、1拍だけ間を置いた八柳がドアを押して中へと入っていく。覚悟を決める猶予も全く与えれらず、敷居の向こうに独り取り残される。

 開いたままのドアと八柳の背中越し、窓のない部屋の中央に1脚だけ設えられたテーブルがちらりと見えた。その上座に座っていたのは、白のパーカーの上に黒のジャケットを羽織った、線の細そうな青年だった。

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