『山根 賢治』の場合・11
物心がついた時から、取り立てて人に誇れるものなどなかった。
何の取り柄もなかった。
だからこそ、せめて約束事だけは守ろう。
後ろ暗い事はやめよう。
思春期の終わり、薄らと自分の伸びしろとその先の限界が見え始めたころにそう誓ったのを覚えている。
規範、暗黙、ルール、法律。
いくら言葉を変えたところで、普通に生きる人を取り巻く約束は誰だって簡単に守れるものばかりという事実は不変だ。
落し物は届け出る。
列には割り込まない。
飲酒喫煙は成人してから。
万引きなんてもってのほか。
そうして人の輪の中に生きるいのちとしての最低限……一目置かれることはなくても、その『当たり前』だけは守れてきた。
だからこそ、今日まで普通に生きる事が出来た。
そう、今日までは。
歩く度にズキズキと、頭の奥が痛む。
頼んだ。頼んでしまった。
自ら、能動的に状況を動かした――すなわち、八柳に金を渡した瞬間から、私が犯罪に加担したという記録がはっきりと残ったことを指す。
その、当事者となった自覚がもたらす期待と不安、罪悪感に背徳感に心がかき乱されている間に、小1時間の帰路はあっという間に過ぎていった。
どんなことがあっても、目にすれば必ずいくばくかの安堵を与えてくれる我が家の明かり。
それも今日の眼にはひどく頼りない、単なる玄関灯にしか映らなかった。
玄関ドアまでの数段を登る足は鉛のように重く、かといって頭は酔いのものとは異なる熱に浮かされてふわふわと落ち着かない。
上半身と下半身のひどい落差で、今更になって胃の奥がきりきりと痛み出した。
……もう寝てしまおう。
これ以上起きていたら袋小路にはまってぐるぐる巡る考えが、やがて自責となって苛んでくるだけだ。
擦りガラスから覗く玄関の向こう側に明かりはない。時間帯からして佳奈美も綾香も眠っている頃だろう。鍵を取り出す手が少しだけ軽くなった気がした。
早くベッドに潜りたい。鍵のついたキーホルダーのリングを通した人差し指の先でネクタイを緩めてから、音を立てないようにゆっくりと鍵を回す。
「……ふぅ」
身を滑り込ませる私を呑み込み、ゆっくりと閉じた玄関が外と中を隔絶すると、シンと耳に痛いような静寂が身を包んだ。
足音ひとつにも気を遣ってシャツを脱ぎ、着替えを済ませて寝室へと向かう。あとは妻を起こさないように布団に潜り込むだけ――
「あなた?」
しかし、ドアを開いた先にあったのは、光量を落としたシーリングライトの下でベッドサイドに腰かけている佳奈美の姿だった。
「起きてたのかい?」
思わず上ずったこちらの声に小さく頷く佳奈美の傍らには、分厚いハードカバーの本が開いたまま逆さまにされている。
時折目尻を擦るところを見ると、わざわざ眠気に耐えながら待っていたらしい。そのいじらしさは、いい年をしてなお可愛げがある……普段ならばそう笑う所だったかもしれない。
しかし今に限ってはつい、皺を寄せた両目の間にに指を当ててしまう自分がいた。
我が妻ながら……いや、我ながら間が悪い。
よりによってこんな時に改まった話があるのだろうか。一先ず目で促し、ふたりして足をマットレスと毛布の間に差し込む。その勢いのままに全身の体重をベッドに投げ出してしまいたかったが、こちらを見る佳奈美の心細い視線が静かにそれを制していた。
「あのね、最近変なのよ。綾香」
「綾香が?」
ややあって意を決したように切り出してきたその一言を受け、思わず視線が壁の向こうの子供部屋へと飛ぶ。当たり前だが、耳を
「うん……ふた月くらい前からかしら。週に1回か2回くらい、家に帰るのがものすごく遅い日があるようになって……私が先に寝ちゃうくらい」
そこで初めて今日は1日、綾香の姿を見ていない事を思い出した。玄関に爪先を揃えられたローファーがあったのを確認しているので、帰ってはいると思うが……
「今日は帰ってきてる。でも今日も、9時は回ってた」
「……そういえば、先週末もずいぶん遅くまで制服でいたな。ほら、外で呑んでいて遅くなってしまった時があったろう」
思い出す私にやっぱり、と反応した佳奈美の顔とその声はいっそう不安の色を濃くさせていた。そんな彼女を落ち着かせるためにシーツの上の手を包む一方で、私の方というえば対照的に問題視する気は起きてこなかった。
綾香は幼いころから聞き分けが良く、たとえ私達の目の届かない所でも妙な事は一切しない子だった。その実績もあり、高校生という多感な時期を迎えた今もなお、彼女に対して門限というものを設けていない。
他にもどこそこで遊んではいけないとか、勉強をおそろかにするなとか……夕飯時に流れるホームドラマで見るようないわゆる「親子の決め事」を押し付けるどころか話し合ったこともない。
しなかった、というよりそうする必要がなかったのだ。
「その時は友達の相談に乗ってて遅くなった、って言ってたよ。そこまで心配する事ないんじゃないかな」
「けど……」
あくまで少しでも不安を和らげてやろうと軽い口調で笑って見せるが、それが問題を真面目に受け取っていないと受け取られたのか、僅かに佳奈美の顔が曇る。
もともとが心配性なのは、長年付き添って知っている。それが彼女の性質といえば仕方ないが、私にはいささか度が過ぎるように映ることも少なくなかった。
誰に似たのか、歳不相応にも映る程綾香の自制心は立派なものだ。小学生のころにねだられたゲームを買い与えても、中学生でスマホを持たせても、高校生で吹奏楽に熱中しても。『やりたいこと』と『やるべきこと』のバランスを崩すことは皆無だった。
加えて物事をこなす効率もいいのだろう。学年トップとまではいかなくとも学業の成績は常に上の中をキープし、かといって友達との遊びや趣味を我慢してまで机にかじりついている様子もない。高校生となった去年から、そこに本格的な部活動というタスクが加わったところでその盤石さは変わらず、三者面談では「何も懸念事がない」と逆に話題に困ってしまった教師との間で、苦笑だけを浮かべて終わった事もよく覚えている。
それで体調を崩すことなんて年に1度あるかないか。そんな親ながら見習いたいとすら思うような自己管理具合を前に、今更お決まりのルールを課したところで無意味だ。
多少帰宅が遅くなったところでその素行を疑るなど、その時の私は綾香に対して失礼とすら感じていた。
「それだけじゃない。遅くなる時は決まってお外で食べてくるの」
「そりゃあ9時を回れば、お腹も空くだろうさ」
「そうじゃなくて……どこにそんな余裕があるの?月のお小遣いだってそんなにたくさん渡している訳じゃないし」
……確かに。
そこで初めて状況的な疑問を提示され、地味に眠りに引きずられ始めていた意識が引き戻される。ずるずると仰向けになり始めていた身を起こす私に向かって、佳奈美が一度頷きを見せた。
交通費や弁当を持たせられなかった時の食事代、そして先日自分も助けられた、佳奈美謹製の『いざという時の保険』を別にして、綾香に渡している月の小遣いは6000円。2年生になって札を一枚追加されたその額は平均と比較して決して少なくはなかろうが、かといって過剰に渡しているとも思えない額と言える。
その中で半分を費やすとして……たとえファストフード店やファミレスでも、食べ盛りの高校生ならば5回も通えば底を着いてもおかしくはない。それが週に1、2度となればなるほど確かに不自然と思うのも頷ける話だった。
「電子決済で済ませている、とか?」
反射的に思いついた可能性を口にしてみるも、相変わらず佳奈美は首を横に振る。
「毎月チェックしているけど、Suicaは定期としてしか使ってないみたいだし、スマホの決済も通販とかで事前に言われた分以外引き落とされてないの。それが逆に変に思えて……」
「貯金でやりくりしている、とか」
「それならば良いんだけど……」
「ほかに気になることでも?」
こちらがいくら安心の材料を与えたとこで、一向に佳奈美の歯切れは良くならない。
となれば他に懸念するに足る材料があるのか、疑念混じりのため息で先を促すと、佳奈美はこれまた僅かな迷いを見せてから、どうにも極まりが悪そうな様子で視線を外した。
「……こないだ、隣の奥さんに言われたのよ。金曜の夜遅くに綾香を立川の南口で見た、って」
「立川?」
それが本当ならば、なるほど佳奈美の過剰ともいえるここまでの心配ぶりにも少しだけ合点がいく。
家と綾香の通う学校を結ぶ電車の路線で、夜が一番賑やかな街といえば真っ先に浮かぶ駅だった。良くない噂を聞く事も多い。
それにさっき、佳奈美は綾香のSuicaは定期分以外に使われていない、と言っていた。同じ路線ではあるものの、家の最寄り駅は立川と学校の中間あたりに位置する。となれば定期の区間をはみ出た分はこれまた小遣いの中からわざわざ切符を買って捻出していることになる。支払い履歴で行動の証拠を残したくないが故の行い、と取れなくもない。
「誰かを待っていたみたいだったらしいの。一緒に居た子も出で立ちが派手だったみたいで、帰ってきたのは日付が変わるほんの少し前で……その、変な事に巻き込まれてないか――」
「まさか!」
そこまで聞いて耐え切れなくなり、食い気味に話を遮った口から勢いのいい笑いを漏らしてしまう。それは……ああ、なんだ。単語を思い浮かべるのも忌避してしまう女子の学生特有の非行という可能性を言外に示す佳奈美と、動揺に僅かでも脳裏に過ぎらせてしまった自分に対する、静かな怒りを吐き出す意味合いもあった。
「綾香に限ってそんな事ないだろう」
「ちょ、ちょっと」
急に相談に乗っているのがバカバカしく思えてきて、伸びとあくびをひとつ。
その反動みたいに一気に体を掛け布団に滑り込ませる私を見て、佳奈美が狼狽えの声を上げた。
「もしかしたら不景気を察して、私達に内緒でアルバイトでもしているのかもしれないなあ」
「そんな……」
そういえばちょうどふた月前に、リビングで会社が少し危なくなっているという愚痴を酒の勢いで零してしまったような気もする。聡明で察しのいい我が子はそれを耳ざとく拾って、変な気を回させてしまった。可能性としては有り得ない話ではないだろう。
少なくとも、未練がましく抗弁を立てる佳奈美が心配するような事態よりかは、だ。
「小遣い、少し上げてあげようか……ごめん、もう眠気が限界なんだ」
「うん、そう……よね。私こそごめんなさい。いつもの悪い癖ね。きっと――」
「おやすみ」
未だ困惑の色が残る佳奈美の言葉をロクに噛み砕くこともなく。半ば一方的に告げて目をつむる。
法を犯すリスクも呑み込んだ決断を下した以上、もはやその先に一片の翳りすらない光が待っている。
そう信じて進むしかない。その為にはこれ以上、余計な想像や悲観が鎌首をもたげてくるのはご免被りたかった。
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