『山根 賢治』の場合・9

「いやー、まさか本当に連絡が来るとは思わなかったよ、お父さん」

「お父さん、はいい加減止めてくれないか」

「いいじゃん、山根サン、ってのもなんかよそよそしいし」


 ――君の父親になった覚えはないというのに。

 憮然としたこちらの抗弁も全く意に介さない様子で、ともに卓を囲む青年が磊落らいらくに笑う。

 この様子だと何を言っても無駄か。もう彼の中では「お父さん」が以後ずっと続くわたしの呼称となっているのだろう。こちらの名前を忘れていたわけでもないのに。

 しかし名刺を渡したわけでもなく、去り際に一度だけ告げたこちらの名前をしっかり記憶している事については素直に感心した。こちらなど連絡のために何度も確認しておいて、未だに彼の名前――『八柳 俊治』――がすっと脳裏から出てこないのだから。

 どうにも記憶を上滑りしていくのはその4文字が持つありふれた、とも珍しい、とも言いきれない微妙な希少性故か、あるいは単なる歳のせいか。


「で、どしたの?いきなり仕事の話が聞きたい、って」


 そんな緊張を紛らわすどうでもいい思索の間。さっさと一杯開けた八柳が、テーブルに突いた肘を視点にぐっと身体を乗り出して切り込んできた。

 香水だろうか、僅かに鼻先との距離を詰めた彼の襟元から、鼻腔に引っ掛かるような甘い臭いが漂ってくる。

 テーブルの隅にはいつの間にか、彼が取り出したであろう使い込まれた様子のメモ帳が開かれ、隣には新品らしきボールペンが転がされていた。落ち合った店は出会った日と同じだが、をするために今日は個室を取った。彼とは所々に煙草の焦げ跡が残されているテーブルを挟み、向かい合って対峙している。

 

「お父さんサラリーマンでしょ?うちの仕事が必要には思えないけど……」

「あぁ、いや」


 至極真っ当な指摘に言葉を探しあぐねてもごつく私の目を、やや演技過剰気味に眉を段違いにした八柳が覗き込んでくる。

 課長と約束を交わしてから、そろそろ丸2日が経とうとしていた。

 大手の産廃業者から、看板すら下げてない便利屋名乗りまで……後に引けなくなった焦燥と、御法に触れる事に対するたっぷりの後悔を抱えながら、鉛のような足取りで一応は処理先探しを試みてはみた。しかし当然、具体的な中身を伏せたままモノだけを引き取ってくれるような会社など存在するはずもない。

 そうして結局は半ば手詰まりに、そしてやけくそ半分で課長に切った啖呵の通り、八柳との相談の場を設けることとなった。


「もしかして引っ越そうとしてて、思ったよりたくさんゴミ出ちゃった?だったら普通の業者頼んだ方が多分安上がりよ?」

「いや、そういうわけではないんだ。モノを処分したいのはそうなんだが……いや、なんだ」


 僅かな縁があるとはいえ、当然話したところでリスクのある仕事を請け負ってくれる保障などない。

 事前に詳細を、まして抱えているのがお上の逆鱗に触れるものであることなど伝えられるはずもなかった。そんな曖昧な誘い文句でも呼び出しに応じてくれたのは幸運と言えたが、かといってこのまま黙り込んでいては盤面が進まない。

 いたずらに勢いのまま奢ると宣言した酒代がかさんでいくだけだ。

 こちらの核心には触れさせず、それでいてイリーガルな仕事を請け負ってくれるか推し量れるような……そんな都合のいい文句を探している間に気付けば自分は2つ、八柳は4つのグラスを空にしてしまっていた。

 場を繋ぐためだけの弾まない雑談と、後は頬が赤くなっていく八柳の捲し立てる、知能指数が低めな小噺。それだけで無駄に霧散した時間はもう、90分を数えようとしていた。

 まずい、どんどん真面目な話をする空気ではなくなっていく。

 状況が打開できない。回り始めた酒と焦りに、時計と八柳の胸元の間を往復する目線が焦点を失っていく。あの日その場の勢いと行動、そして咄嗟のアイデアだけで課長を追いつめた自分のクレバーさが恋しくなっていた。

 しかしそれでもまんじりともできないまま、運ばれてきた新たなグラスを互いに握った、その時――


「もしかしてさぁ、あんまり人には言えないようなものが捨てたい、とか」 

「――!」


 がたん。

 何の前触れもなく動いた盤面に思わず取り落としたグラスが、紙製のコースターに不時着して不快な音を立てる。その動揺が結果として私の内実を如実に物語り、それを抜け目なく読み取った八柳の口角がにんまりと上がった。 


「やっぱなー、みーんなそうだもん。土壇場でいつまでもまごつくんだから……決心して呼び出したくせに、さ」


 ぼそりと呟くような言葉とともに、八柳は皮肉たっぷりに笑う。その視線はこちらの顔から僅か上へと逸れて中空を眺めていた。

 私のような人間を何度も見てきているという事だろうか。だとしたら、彼は本当に――


「その様子だと図星かぁ。もしかして、このナリ見てどうせまともな会社じゃないって誤解……いや、しちゃった?」


 ダメ押しの詰言きつごんの末、もはや続ける八柳の顔からは疑いの色すら消えていた。

 互いの2杯目あたりから今まで、仕事の話など全く出していなかった。そこを突然、何の前触れもなく核心へ殴り込まれカラカラに乾いた口からは、もはやその場しのぎの取り繕いすら出てくる気配もなかった。


「え、これも図星?ひっどいなぁ。これでも俺、一時期よりは真っ当な商売してんだけどね?」


 背中からは一気に冷や汗が噴き出て、まともに目を合わせようと意識しても、勝手に視線が逃げていく。そんな私とは対照的に、視界の隅で捉える八柳の顔は全く動揺を見せない。違いといえば、相変わらず薄く口角をあげているその顔の中央、こちらを覗き込むその瞳の奥だけがいつの間にか笑いを消していた。


「……まぁ、その見立て、合っているんだけどさ」


 笑いに嗜虐の色を混ぜ始めた八柳は、もはやこちらの反応を見るまでもなく話を進め始めていた。

 その様子を見て確信する。恐らくこの男は店に入った時から……いや、仕事の話を聞きたいと連絡を受けた時からこちらの肚積もりを最初から見抜いていた。

 ぞわりと背中に冷たいものが走り、首が縮こまり背中が丸まる。それまで膝の上で握っていた両こぶしが、いつの間にかしがみつくように空になったグラスを握師閉めていた。


「もらえるもん貰えれば、うちはやったりますよ」


 地獄の沙汰も金次第。具体的な表現こそ避けた物の、八柳の顔はありありとそう語っていた。


「本当か?」

 

 あけすけな救いの御言葉を受け、首根と視線だけが僅かに仰角を取り戻す。確認を取るその声色は縋るようで、我ながら呆れるほど情けないものだった。

 そうして『胸を張って捨てるには都合の悪いものを抱えている』と自認し、これでこちらは手札のほぼすべてを見抜かれた形となる。その犠牲を払った上でやっと、相手がイリーガルな商売をしているという1枚の伏せ札をひっくり返した。釣り合いはどうにも悪いが、この1枚は何よりも大きい。

 八柳。目の前の軽薄なこの男はまさに、今の私が喉から手も出すほどに望む人材だ。見計らったようなタイミングで現れた救いの手を天祐と取るか、それともお膳立てが過ぎると疑るか。そんな選択肢を見る猶予すら、今の私には残されていない。


「あぁ。普通の産廃業者じゃ受け入れないもんも、きれいさっぱり『消して』やる」

「消す……?」


 

 湧いた疑念が顔に出ていたのだろう。繰り返した私を見た八柳はしまった、といった表情で口をふさぐそぶりを見せた。

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