『山根 賢治』の場合・7
「冗談だ。さすがに数字欲しさだけで人を埋めたりはしない」
逡巡と葛藤、そして思考と駆け引き。
濃密に詰め込まれたそれらが限界まで引き延ばした時間の果てで、課長は鼻から軽い息を漏らしながら
「……課長も、人が悪い」
「君が言うか?」
永く張り詰めていた緊張の糸が僅かに弛みを取り戻し、生温く、しかし乾いた笑いがふたり分、夜風の音に紛れる。
「だがある意味で、
「!」
油断も隙もあったものではない。こちらが構えを解くと見るや、その油断した横っ面目掛けて二の矢が飛んでくる。
もう少し間を持たせられていたら、こちらが必死に取り繕っている不敵の面が剥がれ落ちていただろう。
「取り扱いをひとつ間違えたなら、あるいは
吐き捨てるような言葉尻を、がつんと革靴の爪先が缶の底を乱暴に突き刺す音が引き継いだ。
そんな扱いの粗雑さから察するに、中身が例えば有害な化合物……少しでも漏れ出たら即被害が出るような毒物という可能性は低い。
つまりは存在そのものではなく、存在が明るみに出る事自体に多大なリスクを抱えるような代物という事だが、いかんせん建材やそこから出る産廃に詳しいとは言えない私には、そこまで推量を積み上げるのが関の山だった。
「脅しばかり並び立てないで、いい加減中身を教えてもらえませんか。こちらの肚は決まって――」
「……山根君、君が本気ならここから先は取引だ」
渡すものか主導権。そんな心の内は互いに変わらなかった。
焦りを苛立ちの素振りで隠し先を急く私の声を遮るように、課長は場を仕切り直す。
「私は君がこのドラム缶を引き取るというまで、中身を教えない。万一処理に失敗しても、私と取引先の名は出さない。全て自分ひとりで責任を負う。代わりに恙なく処理を終えたなら数字の半分、その成績と私の権限を以て、君のリストラを撤回する――どうだ?」
……来た。
眼前に垂らされた念願の餌。だが、すぐさま即座に首を縦へと振るわけにはいかない。一刻も早く食いつきたい気持ちを抑え、その陰に潜む針の返しを潰さなければならなかった。
体よく
課長に気取られない様一瞬だけ下へと落とし、ポケットに滑り込ませているスマートフォンの赤い光を確認してから、大きく頷きを返してやる。
「さっきも言いましたが、どのみち私に選択肢はない」
「それは条件を呑む、という返事と受け取っていいのかな」
再び、今度は一秒も置かず再び首肯を重ねる私を見て、課長の目がほんの少しだけ細まる。
そんな一瞬だけ起きた表情の変化。そこに込められていたのは確かに、憐憫を表すものだった。
あぁ、腹立たしい。
哀れみなら、リストラを告げてきたその日に向けるべきだろう。素直に受け取る気などさらさら湧かないのは、あの日も今日も変わりはしないが。
「いいか、山根君。こいつの中身は――硫酸ピッチ、だ」
何故今更――こちらがその真意を問いただそうと口を開いたタイミングで、口調を数段を黙した彼の声を被せられて発言の機会を失ってしまう。いや、私が開いた口の行き所を失ったのはそれだけが原因ではなかった。
「硫酸ピッチ……?」
辛うじて本当に死体出ない事がわかるくらいで、その正体に見当すらも付けられない。そんな聞き慣れない単語を鸚鵡に返す私を見て、課長はやはりな、とでも言いたげな顔を浮かべた。
「生憎私は君の先生でもなければ、化学や法学を修めたわけでもない。そのもの自体が何であるかは、自分で調べる事だ。それより今、この場で遥かに大切なのは……」
「もし秘密裏に処理できなかった場合の話、ですね」
続きを引き継いだ私に、これ以上ないほどの渋面を浮かべた課長の首が重々しく縦へと振られた。
「会社がなくなる。うちも、取引先も」
「……は?」
「正確に言えば、会社として存続できないほど損害を被る。金銭的にも、風評的にもだ」
「風評?」
「何せこの件に関知した全ての人間が、法的な裁きを受ける事となるからな」
それがこちらを委縮させるためだけの、単なる膨らませた脅しでない事は、沈痛な声色と憔悴を思い出した表情が物語っている。ここまで聞いて初めて、彼の言っていた『死体と同じくらい質が悪い』という言葉の意味が見え始めていた。
企業体がある日突然解散の憂き目に遭うということは、そこに務める多くの人間が何の前触れもなしに路頭へ放り出されるという事だ。このドラム缶に端を発する何らかの違法な事柄。それに何ら関わっていない無辜な従業員にだって、そこで躓いた人生を修正しきれずに終わっていくものが少なからず出て来るだろう。
多数の人生を崩壊させるという結末だけを見れば、中身が死体であった場合と何ら変わらない。まして――
「当然、末端とはいえ関わった私や君も、この中身を知っている時点でのべつ幕無しに犯罪者の仲間入りだ。300万は下らない罰金に前科――まず、まともな再就職どころではなくなるだろうな」
話を聞く程に、口の中がカラカラに乾いていく。
少しでも膝から力を抜けば、足元がカタカタと震え出しそうだった。退路を断ってこの場に来たとはいえ、今の今まではあくまでも自分の決断の強さを指すだけのことばだった。
知ってしまった時点で、巻き込まれた被害者にすらもうなれない。しくじった末の再起の芽など、望むだけ無駄な話だった。
逮捕、前科、借金――
そのどれもが大多数の余人にとって文字通り終わりを意味する、実際に罰則としての質量をもつ事象によって形成された崖。それを背負わされてやっと、今更飛び込んだ虎口の恐ろしさが自分の中で実像を結んでいく。
「どうあっても、失敗は出来ない、という事ですか」
「君は、な。伝手があるにしろないにしろ、ドラム缶は週末にここから動かす必要がある。万一処理を委託できなかった場合、君はこれから一生あのドラム缶を置いておく場所を借りておく必要があるな。なあに、ウン百万の過料に加えて前科が付く事と天秤にかければどちらが重いかは明白だろう」
――明るみに出ない保証はできないが、ね。
言下に続いていた『この場においてどちらが上か』という争い。交渉の優位性へダイレクトに繋がるそれに、この一手で勝ちを収めてやった。
軽薄な口調と最後に付け足した投げやりな気づかいの文句が、課長のそんな心の内を腹立たしい程に物語っていた。
「分かり、ましたよ」
絞り出した言葉に、課長の口と両目は下品な半月を描くように吊り上がった。
耐えろ。奥歯を噛み、頭へと登りそうになる血をぐっと抑える。食って掛かったところで事態が好転するわけではない。
それに――
得てして、勝利を掴んだと確信したその瞬間こそが、相手にとって最大の隙となるのだから。
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