『山根 賢治』の場合・2
「ずいぶん暗い顔してんねぇ、お父さん」
突然横から話しかけられ、私は座りかけた目をカウンターの隣に滑らせた。
そこにはどこか軽薄で危なげな印象を受ける赤茶髪の青年が、着崩したスーツの胸元をこちらへ向ける形で私へ赤ら顔を向けていた。
私よりも大分酒が進んでいるのだろう。どこか焦点の定まらないその目をしばらく眺めたあと、再び視線を自分のグラスへと戻す。
交流を拒んだ理由はふたつ。やけ酒を煽っている今、赤の他人と世間話する気分になれないし、それ以上に突然現れた自分の世界への闖入者に対し、単純にどう返事をしていいか見当がつかなかったからでもあった。
「いやぁ、おーれも約束すっぽかして彼女と喧嘩しちゃってさぁ。帰りづらいからここで財布すっからかんになるまで飲もうって胎なんだけど」
言外にお暇を願うこちらの意図に気付く様子もなく――あるいは、気付いた上で敢えて無視しているのか――青年は大仰に肩をすくめながらひしゃげた嘆きを吐き出し、ジョッキの隣に置いていた財布を掌でぼん、と叩く。
その擦り汚れひとつもない、ハイブランドの二つ折り。側面を覗き込むまでもなく、相当に豊かな中身が想像できた。
とても一晩で、それもこんな安酒場で使い切れるとは思えない。酒に浸って忘れて居た惨めさが再び鎌首をもたげ、思わず薄い懐に手を当ててしまう自分がまた、情けなかった。
「空にする前にここを出て、帰りに甘いもののひとつでも買って、いきなり渡してやればいい――突然のマイナスには、突然のプラスが効くからね」
相手の情報を何も聞きださないまま、相談に対する答えとしてはありきたりに過ぎる……というか、若い時分に残業続きで今の妻との予定をすっぽかす度に繰り返した常套手段をそのまま伝えて目線を外す。
「おぉ、なるほど……スイーツ好きだしな。サーヤ」
さーや。さや、か?
恋人の名前だろうか。ともかくそれが思いのほか感心を買ったのか、感嘆の息を吐いた彼はポケットに手を突っ込む。そこから取り出した財布とは真反対と言っていいほど使い古された手帳を繰って、いそいそとペンを走らせ出した。
アドバイスを忘れないようにメモしているのか。ペンを握った彼の左肩で影になって、何を書いているかまでは良く見えなかった。
「ありがとオジサン。しっかしさぁ、どうして記念日忘れたくらいでああまで怒るかねえ」
「……羨ましいな」
つい口を衝いて出たその言葉は、皮肉でもなんでもなかった。
若者としては良くある、そこら八中に転がっている話だ。こちらの抱える悩みとは綿と鉛くらい重さに差がある。
延々と愚痴を吐いているものの、機嫌そのものが悪いわけでもない。その語り口から察するに喧嘩の原因も深刻なものとは思いづらかった。それどころか予定調和に仲直りした夜のスパイスでしかないだろう。こちらの真意をくみ取ろうとする素振りすら見せないにも関わらず、機嫌を損ねた様子もないのがその証拠と言える。
底の知れた悩みで一喜一憂出来る彼の身軽さと懐具合の安寧が、素直に羨ましかった。
「お父さんも悩んでるんだろーけどさ、せっかく酒に逃げてんなら楽しく飲まなきゃ損だよ?」
「ご忠告、痛み入るよ」
それじゃ、と言葉を残して彼に背中を向け、ひとり酒を再開する。
しかしこれだけ邪険に扱っているにも拘らず、しばらく経っても背後の気配が消えることはなかった。
確かに週末、この居酒屋は混雑している。しかし横目でちらりと仰ぐだけで、ぽつぽつと開いているブースだったりカウンターの椅子は見つかる。どうやら代わりの席が無いから立ち上がらない、という事でもないらしい。
それどころか――
「うーん、しょうがない。隣が楽しくないと俺までオチちゃうしなぁ」
――すいませぇーん!
突如上がった大声に驚き、
「
「な――」
「いいのいいの」
しばらくの押し問答の後、結局押し切られる形で私の酒代は彼持ちとなった。
彼の強引さもさることながらそこは持たざる者の弱さ、というか……視界の端にをちらりと掠めた、壁に下がった自分の伝票が思いのほか長くたなびいていた事も、こちらの勢いを弱くした一因だった。
そんな自分の情けなさを噛みしめている間に、結露の滴を滴らせてハイボールのグラスが私と彼の間に運ばれてくる。
「んじゃ」
店員の手がグラスから離れるやいなやその大きな掌でグラスを握り、彼は赤ら顔一杯に笑みを浮かべた。出で立ちの厳めしさに似合わない無邪気さに促され、私もまたおずおずとハイボールへ手を伸ばす。
……とにかく、これで名実ともに彼を厄介払いする訳にもいかなくなった。仕方がない。しばらく話に付き合って、彼が前後不覚になったところでで立つとしよう。私より大分酒が進んでいるようだし、この席もそう長くはないだろう。
「今夜のステッキ―な出会いにかんぱーい!」
「ま、周りの事も考えて……声が大きい」
大宴会の幹事もかくや、といった勢いで高々とグラスを掲げて声を張り上げる彼に思わず肩が跳ね上がる。慌てた制止のあとで肩をすぼめながら周りを見回すと、案の定数人の酔客が何事かとこちらを伺っている。
流されてしまった自分を早くも悔やむ。僅かな隙を見せたらすぐにでもこの店を後にしたい気持ちでいっぱいになった。
「あぁ、つまみも頼もっか。枝豆ともろみクリチーと……お父さんも遠慮しないで、好きなの頼んでよ」
――何なら端から全部いっちゃう?
冗談めかして続ける彼にため息を返し、半分空いたグラスから一度手を離す。
「……ずいぶんと羽振りがいいようだけど、どんな仕事をしているんだい」
「あぁ、人や会社から出たごみを引き取って処分する仕事をやってるよ」
なるほど、要は産廃業者か。
口に出せば職業差別になるのかもしれないが、スーツを折り目正しく着ていない方がしっくりくる彼の出で立ちはその返答に意外性よりも説得力を与えていた。
「まぁそれだけじゃないから……便利屋って言った方が正しいかもだけど」
そんな補足にきな臭さが3割程増すが、危うきに踏み込まない自らの習性がそれ以上の追及を許さなかった。
あくまで世間話だ。彼との関係はここだけのものに留めたい――
「はいこれ。まぁ何かあったら連絡してよ。ちょっとはサービスすっからさ」
「……?」
と思っているのはこちらだけのようだった。枝豆の塩が残る指を太腿の生地で吹いた彼は財布の中から原色の色遣いが目に悪そうな一枚のカードを取り出した。そうして寄越されたのがマトモな名刺でなかったこともさることながら、こちらの手に紙が渡った瞬間、彼が何か確信を込めたような瞳をこちらに向けていたのが、酔いの回った頭へ妙に残っていた。
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