『山根 賢治』の場合・1
私が穴の主――『兼森次郎』と名乗る青年と出会ったのは、今から2週間前の事だ。
話は少し入り組むが、この話の前段階としてさらにその1週間ほど前、「彼」とは真反対のような男――八柳俊治との出会いが先にあった。
その日の夕方、冬の入り口の傾いた陽が奥多摩の稜線に触れるころ、私は上司の呼び出しで会社の一室に座らされていた。
関東圏内で中堅から少し上に位する、リフォームとリノベーション工事を生業とする会社。業績に少し背伸びし、やっと5階建てのビル一棟を根城にする程度の規模だが、そこでも競争に負けてとうに出世街道を外れた私にとって、普段は全く縁のない役員室のソファに座らされていた。
普段ならまだ足を棒にして外を歩いている時間帯に腰を沈める、デスクのものとは何もかもが違うクッションの感触。
自分など場違いだという卑屈な感覚と、胸にわだかまるある予感が、絶えず張りつめた神経を突いてくる。
あるいは意図的に、そう仕向けられているのかもしれない。地に足が付かない心地が収まらない私の間隙を突くように、目の前で足を組む上司は一枚の髪と共に人員削減の話を切り出した。
「数年前から続くテレワークの推進に伴う事務所の撤退、それに伴う案件の減少と小口化……営業所の統合とコストの削減だけでは、どうにもならない所まで来てしまったようだ、うちも」
――ああ、やはり、か。
まさかリストラを世間話の種として談笑する為だけに私を呼び出すほど、彼は親しくもなければ暇な身分でもない。わざと中心を避けるような語り口の上司に確認を取るまでもなく、その話題の中心に私が据えられているのは見え透いていた。
予感と不安は際限なく膨れ上がり、およそそこから外れる事のない展開の末、私は早期自主退職の勧めを謳った紙を差し出された。
「これもこれまで世話になった会社の為だと思って、理解してくれると嬉しい」
「……」
促す上司の声は耳を通らず、頭の上を通り過ぎていく。
しばらく顔は、前を向いてくれなかった。
あてどなく落とす目線の先にあるのは、今後の人生を大きく左右するにはあまりに軽く、薄っぺらに過ぎる紙切れ。その端に2サイズ大きいフォントで記されている『山根賢治』という文字が、求められてもいないのに主の名を大仰に叫んでいる風に見えた。
「いえ、ですが――」
覚悟はしていたつもりだったし、諦めは良い方だと自覚している。
しかしそれでも口は、自然と抵抗の文句を口にしていた。それは自分の記憶では初となる、この会社に籍を置いて初めて、組織の総意に背いた瞬間でもあった。
守るものがある。その絶対的な制約のもと、今までどんな理不尽も歯を食いしばりながら首を縦に振ってきた。
そうして会社にとっての自分の価値を少しでも価値を上げ、大した才はなくともしがみつく。それが守るものの、ひいては背負う己の安寧に繋がっていると信じていたからだ。
だがそんな腐心も虚しくたった今突き付けられた、切り捨ての宣言。己の行く末掛かった設問まで、ふたつ返事に頷くなどできるはずがなかった。
路頭に迷う妻や娘だけじゃない。『賢』く『治』める――そうあれかしと祈りを込めて名づけた両親にも顔向け出来なくなる。
自らの名……一生ついて回るものとはいえとうに成長も見込めない、伸びしろの見え切った自分が頂くには過ぎた冠であることは悟っている。だがその現実をあっさり受け入れられるほど、私は人生を諦めてもいないし達観してもなかった。
「ここに残るには……」
声を絞り出して食い下がる私を見る上司の鼻から嘆息が漏れた。効き分けのない奴だと呆れたのだろう。
いつもの割に合わない営業ノルマの承認とはわけが違う。ここではいそうですかと印を押せば、専業主婦の身に慣れきった妻はどうなる?
大学受験を控えた娘はどうなる?
まだ4分の3以上残っている家のローンはどうなる?
職を失う。それがもたらす直近の問題はつまるところ食い扶持、生活の基盤を失うという事だ。さしたる資格も持たない自分に再就職の展望などすぐには望めない。
だがそんな即物的な不安よりも、もっと大きな恐怖が胸を渦巻いている。
特段秀でた才能も結果も出さずして、ただ歳を重ねる事による最低限の立場を積み重ねただけの男が今更、何の後ろ盾もないまま社会に放り出される。
――私は一体その先で、何になれるというのだ?
勤め人としての土台を突然奪い去られる。それは文字通り足を着ける地面が消え去ってしまう恐怖と近しいものがあった。
「今、何者でもなくなるわけにはいかんのですよ!私はッ!」
紙を握り潰し、吠える。叩きつける拳に強化ガラスの机が軋みを立てた。
夜の暗礁を眺めるような漠然とした不安が、初めて上司に抗弁の剣を突き立てさせていた。
「私が決めた訳じゃあない。食って掛かられても困る……当たり前だが、コストを切ったところで業績が上向く訳ではない。苦境は今を以てなお重たくのしかかっている。退職金にこれだけの上乗せをできるのも今の内だけだろう。それをよく考えて結論を出してくれ」
だがそんな私に返ってきたのはどこまでも冷静で、冷酷な最後通牒だった。
もはや焦燥や当惑を越え、胎の内には怒りが渦巻き始めている。
残留の条件すらも提示されず、私を「コスト」と切り捨ててまで代わりに提示された餞別は……とてもじゃないが今後の人生を保障してくれる額とは程遠い。
これが?これが好条件だと?
二十数年間辛苦を耐え忍んだところで、会社にとって私の価値はこれっぽちしかなかった、という事か。
「私はもう、用済みという事ですか……」
上司は何も答えない。
それが何よりも雄弁な答えだった。
不可視のまま改めて叩きつけられた不要の値札。その重みに頭と腰元が曲がっていく。結局上司がその場を去るまで、私は震えた肩を上げる事が出来なかった。
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