『山根 賢治』の場合・3
――いかん。自棄酒にしたって飲み過ぎた。
結局とりとめない話に中座のタイミングを失い続けて終電間際、彼のスマホからさーやとやらの怒号が響き渡るったところでようやく酒席は終わりを告げてくれた。気を抜けばすぐに回りだす視界を何とか制しながら、鞄を漁って鍵を取り出す。
「……?」
しかし、差し込んだシリンダーは力を込めても一向に動かず、物の試しに逆へと回すとかちゃりと軽い手ごたえが伝わってきた――鍵が開いてる。
まだ佳奈美が起きているのだろうか?
珍しい事もあるものだ。妻は専業主婦だからといって生活の習慣を不規則にした試しはない。それが週末だろうが祝日前だろうがNHKのニュースを見終わる前に寝支度を済ませ、朝も6時を回れば私より先に目を覚ます。
結婚する前からそうだ。まだ働いていた頃のルーティンを変えない彼女が0時を回って起きていたことなど、片手で数えるほどしかない。
第一、吞み始める前に遅くなる旨は伝えてある。亭主関白なぞ時代遅れなんだからと繰り返した成果で、こういう時はちゃんと先に床へ就いてくれている。
それが何で合わせる顔のない今日に限って……靴を脱ぐ足が僅かに重くなる。きっとリビングに入れば、妻は私の労を労いながら深酒の理由を優しく訊ねてくるだろう。
恐らくいつもの、仕事や上司の愚痴程度のものを想像しながら。
華奢な外見同様に繊細なメンタルを持つ彼女へ、いきなり半ば決まりかけている失職の危機をそのまま伝えれば、きっと受け止めきれずに取り乱す。それにまだ、私だって抗弁の牙を半端に突き刺したままだ。リストラを避けるための明瞭な手段や、まして諦めや受け入れの姿勢も出来ていない。
無駄な混乱を及ぼすだけだ。故に、今話すのは機ではない……それを避けたいがために遅く帰宅したというのに、徒労に終わってしまった。
さて、どうするか――
「あれ、お父さん」
惑う頭が言い訳を考えつく前にリビングのドアが開き、そこから妻――ではなく、彼女に似た涼し気で切れ長の瞳がこちらを捉えてきた。
年に似合わぬ大人びた顔立ちだが、それでもようやく着られている感の薄れてきた高校の制服。私を出迎えたのは佳奈美ではなく、娘の綾香だった。
「ああ、ただいま」
外れた予測に多少の驚きを抱えながら、挨拶と一緒に片手を上げながら僅かに目を伏せて靴を脱ぎにかかる。その間にスリッパに履き替えて玄関口へとやってきた綾香は、こちらが再び目を合わせる前にヘアゴムを外して、纏めていた後ろ髪を首筋に流した。
今更髪を解いたのか。それに、いくら気に入っているといってもこんな時間まで制服を着替えないのは不自然だろう。さては――
「まさか、帰ってきたばかりなのか?」
別に怒るつもりはなった。高校生ともなれば付き合いも増えるだろうし、自分の若い日を思い返せば偉そうな口は効けない。だが抱える悩みと回った酔いのせいか、問いかけは思った以上に険の籠った声となって口から出てしまっていた。
そんな私の声を受け、佳奈美は瞳を丸く広げながら自らの出で立ちに目を落とした。あるいはそこで初めて、自分が制服を着たままであることを思い出したのかもしれない。泳ぐ瞳は動揺をこれでもかというほど物語っていた。
「違うの」
怒られる、といち早合点したのか。とにもかくにもといった様子でそれだけを前置きした佳奈美は黙り込んでしまい、そこから互いの間にしばらくの沈黙が挟まる。
そんな反応にも自ら過去に覚えがあった。親をこれ以上刺激せず、かつ痛い腹を探られずに済む話の運び方を考えあぐねているのだろう。こちらの支線から庇うように胸の前でスマホを握りしめる姿がもはやいじましい。何もこんなところに貴重な父娘の共通項を見出さなくとも……思わず苦笑を噛み殺す。
繰り返すが、怒ってはいない。無理に続きを促すつもりは初めからなかった。だが父親として――それが見え見えの弁解だとしても――一応、門限破りの理由を有耶無耶のままにする訳にもいかない。
譲らず、詰めず。帰りがけに買ったペットボトルの水を流し込みながら、ただ黙って続きを待つ。
「ちょっとご飯食べながら、友達の相談に乗っていて……早く帰ろうと思ったんだけど、ね。慰めてたら――」
やがて観念したように、綾香はぽつぽつと口を割り始めた。
たどたどしい語り口の間も絶えず握っているスマホを胸元に抱え込み、時折ちらりと上目にこちらの動静を伺ってくる。
「ちゃんと連絡は入れたのか?夕飯はいらないって」
「う、うん。学校出る時に電話したよ。お母さんもいいって――」
「ならいい」
譴責は込めない。それはどころか思った以上に早く話を切り上げられたことに驚いたのだろう。さっきまで床へ壁へと視線を逃がして綾香の顔が弾かれたように上がり、信じられないものを見るように私の顔を覗き込んでくる。
「しっかり友達の力になってやりなさい」
「……怒らないの?」
「何を怒ること、が――?」
一拍の間も置かず頷く私を見て、綾香の顔が一瞬ひどく歪んだように見えた。
赦しを得たに瞬間しては、あまりに似つかわしくないその表情。思わず瞬きをひとつ挟んだ間に、綾香の表情は元に戻っていた……酔いのあまり見間違えたのだろうか。
まぁ、いずれにせよこちらの心づもりは変わらない。この時期の子供は家庭よりも交友関係に重きを置くようになる頃だ。それをとやかく言ったところで毛ほども響かないのは、過去の自分を思い返せば明らかだった。
「娘が頼られてるのに怒る親なんていないよ。でもあんまり頻繁に遅くなるようなら、これからは電話にしなさい」
「……うん。ありがとう、お父さん」
「それより、お母さんはもう寝たのか?」
「うん。私が帰ってきた時には」
「そうか。もう遅いし私達も早く寝よう……午前様で帰ってきて言えた事じゃないけど」
冗談に笑いと軽い首肯を残して階段を上がっていくその背中を見送っていると、少しだけ纏う緊張が和らいでいった。
諫めるべきところは諫めるべきと常に自省していていも、一人娘に甘くしてしまう体質はなかなか治らない。そのお陰か今日まで、比較的良好な父娘仲を維持できているのが密かな誇りでもあった。
特段裕福でもない父母娘の3人家族。人様に自慢できるようなところはないけれど、それでも大きな不和もなく帰るべき場所として尊くあり続けている。
かげがえのないこの
リストラを避ける具体的なアイデアは未だ浮かばないけれど、それで諦めるわけにはいかない。
まずは明日から、上役にも毎日頼み込んでみよう。みっともなくても、私にはこの家族を守る義務と使命がある。
改めた決意を胸にネクタイを緩め、大股で脱衣場へと向かう。
――そんな私を踊り場から笑っていたかもしれない。
本当は何故こんな時間まで帰らなかったのか。
私を見るなり髪を下ろし、首元を隠したのか。
頑なにスマホの画面を胸元から離さなかったのか。
理解ある寛大な父親を演じるあまり見逃した無言の信号に、その時の私は悉く気付く事が出来なかった。
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